記憶の欠片
久納は優しい。たぶん、今はおれだけが久納の優しさを受けている。
鬼の庇護を受けたいか、という久納の問に否定を返さなかった時から、久納はおれだけの久納になったように思う。彼はおれを鍵付きの宝箱に仕舞うように大事に大事にしてくれる。頭がぼんやりし、「今」しか考えられなくなる香りの中に閉じ込めておれを守ってくれる。香りは段々強くなる。
それでいいと思った。大事にされることが嬉しかったから。
そしてなによりおれは久納自身に惹かれていた。忘れっぽくなる香を焚いて良いか問われた時にまっさきに浮かんだのが、人を捨てた時のことだ。あの時の久納をおれは忘れたくないと思った。
後に彼は正攻法と呼ばれる、相手の意志を尊重し時間を掛けるやりかたでおれを住人にしたのだと知ったが、無理やり住人にされても良かったと思うくらいにはそういった意味での好意を彼に抱いてしまっている。
自分で忘れることを望んだくせに少し怖くなって、初めの頃は匂いの届かない裏部屋にいる時間が多かった。頭がはっきりしている時は何か探さなければいけないものがある気がしたのだが、それもすぐに忘れてしまった。
忘れるとはどういうことなんだろう。忘れた記憶は人から言われて初めて存在を認識する。ゼロが1になる。でも、忘れるということは、自分の中に『事実』がなくなってしまうことだ。誰かが本当のことを言ったって覚えていなければそれを事実だと認められない。嘘も本当のことも実感を伴わないただの情報になってしまう。恐ろしいことではあったが、久納に与えられた忘却をおれは受け入れたのだ。受け入れてみると何も考えられないのはそこまで怖いことではなく、恐怖よりも大事にされているという充足感が勝ったのはそれほど時間が経たない頃だ。
だからおれは何も思い出さなくて良かったのだ。それなのに、色小屋に行きたいと泣く寸前みたいな顔で言う青に絆されてしまった。おれはあの時、きっと一番開けてはいけない記憶の扉を少しだけ開いてしまったのだ。今ならあの時どんな記憶が甦ったのかを思い出せる。見世物小屋に迷い込む前、ずっと一緒にいてくれた友達のことを思い出してしまった。顔も名前も声もわからないし、友達のはずなのに思い出そうとする度込み上げて来るものは温かさではなく苦さだった。
忘れたままが良い。忘れていた方がずっとずっと楽だ。その時も、おれはこう思った。だけど、今は違う。香の中にいたらこの少しだけ思い出せた記憶も忘れることができるけど、曖昧すぎて思い出とも呼べない、感情だけが想起される記憶を今は取り戻したい。
それと御国を助けることは関係のないことだが、おれは思い出したいと考えながら、御国を助けたいとも思ってしまうのだ。ここに来てから、ありがたいことにわからないことに対して寛容になったからおれは相容れないふたつの欲求をそのまま受け入れた。
久納への想いは忘れた振りをした。思い込むのは得意だから。
稲様が柊と青を連れて小屋を離れた。多分、大丈夫だろう。ちゃんと隠れてくれるはずだ。ほっと息を吐きすぐに向かったのは火野兄弟の部屋。昨日のこともありちゃんと話してくれるか不安だったが、もし彼らが部屋から出てこなかったら扉の外から話しかけよう。御国のことを説明すれば、きっと教えてくれるはず。緊張しながら扉を叩き名前を名乗ると、すぐに中から火野弟が出てきてくれた。
「びっくり。どうしたの?」
入って良いよ、と部屋の中に促される。部屋の中には兄が隅で膝を抱えて座っていた。
「凌平……」
そして、暗い声でおれの名を呼ぶ。
「どうしたの、いつもと違うけど」
「俺の兄貴、メンタル弱くてねえ。いろいろ考えすぎて今最高にネガティブなんだよ」
「うるせえよ。風邪引いただけだっつうの」
「心の風邪?」
「うるせえ。つうか何しに来たんだよ凌平は。俺達のことなんか忘れてるくせに」
火野兄はしっかりと自分の膝を抱きしめたまま恨みがましい目をおれに寄越す。昨日のことを思い出す。弟に未来なんてないという事実を突きつけられて色々と考えていたのだろうか。人間たちの未来の為にかつて頑張った火野兄にとっては、直視したくない現実だったのかもしれない。
「……思い出したよ。おれ、御国を助けに行くことにしたんだ」
言うと、ふたりが目を丸くしておれを見た。
「なんだよ……」
「思い出しただけで御国を助けようって思う? 凌平、御国と会ったことあんの?」
「御国が箱掃除をしてくれてた時に少しだけ」
「で、俺達に協力でも仰ぎに来たのか?」
火野兄が突き放すように言った。
「協力なんて、したくねえわけじゃないけど、所詮俺たちは何の力もない箱の『住人』だ。できることはねえよ」
「わー。兄ちゃんネガティブー」
「本当のことだろうが」
そういって火野兄がソッポを向く。
「……どうやったら灯の道に行けるか教えてほしいんだ」
御国救出に関して協力して欲しいわけではなかった。はっきり言って、白蛇様の井戸にいる御国を人間が助けることは出来ないと思う。仮に出来たとしてもかなり確率は低いだろうし、まずどうやって助けるか、その方法を考えるだけで手一杯。一番確実なのが、久納に協力してもらうことではないか。みんなには偉そうに啖呵を切ったけど、本当は不安だった。だけど、稲様も否定をしなかったから、おれの考えは的外れなものではないのだろう。後は久納にわかってもらうだけだ。
そして、その前におれにはやっておかなければならないことがある。皆聞き流していたけれど、愉快に御国の居場所を探すようにお願いした時、あいつはこう言っていなかったか。
『おお! そういえば聞いてた聞いてたミクニシュン物語開幕希望要請~。オレ忘れてなかったよ!』
あいつはよくわからないけど、確かに『ミクニシュン』と言った。おれは忘れてしまったけど、青と火野兄弟がおれの所に風の噂を聞きたいと来た時、火野兄弟はおれが小屋に来た当初よく『舜』の話をしていたと言った。もしかしたら、『舜』は御国かもしれない。そうしたら、青に協力できないと告げた後もずっともやもやしていた気持ちや、おれが助けなきゃいけないのに、とわけもなく浮かんでくる考えに説明が付く。愉快は灯の道に記憶の欠片が落ちていると言っていたから、もしかしたらそれを見つけられたらわかるかもしれない。
包み隠さず二人に伝えると、ふたりは顔を見合わせてから同じタイミングで目を閉じた。先に開いたのは兄の方だ。
「……行く方法は知ってる」
「うん。教えてほしい」
「俺は、弟の名前を忘れてる」
頼むと、火野兄が静かに語り始めた。まるで俺を一生懸命諭すような口調で。
「弟は俺の方を兄貴だとか兄ちゃんって呼ぶけど、俺は呼べない」
「まあ、双子だし、自分が兄貴の事をなんて呼んでたのかわからないけど。名前だったかもしれないよね」
「でも、どっちが兄でどっちが弟ってのはわかってたんでしょ」
「顔が同じだし、俺弟な気がするって言ったら、兄貴は俺も兄のような気がするって。こんなもんだよ。俺たち暮から来たし」
「記憶の欠片は確かにある。でも、行ったら死ぬよ。確実に」
そういう火野兄の口調は静かなものだった。
「……どうやって行くの?」
「別に、簡単だよ。行ったら死ぬから秘密にされてるだけで、隠された場所ではない」
「じゃあ、風に聞いたらわかるんだ」
火野兄の表情が険しくなる。
「行くな。記憶なんかなんにもならねえものだよ。何かを思い出したって俺たちはもう一生ここから出られないんだ」
「でも、あんた確か始めの頃……柊から離れろっておれによく言ってた頃さ、『イギョウになったらもう帰れない』って言ってたじゃん。おれそれ聞いて、人間なら帰る方法あるんだろうなって思ったんだけど」
過去のことを思い出しながら火野兄に向かう。彼は一瞬息を呑み、おれから目を逸らした。
「イギョウになったらもう戻れない。徐々に異形に近づいて、人間から離れていく」
「人型を保てる奴と、そうでない奴がいた。そうじゃない奴は、ただの化け物だったよ。知性も理性も全部なくなるんだ。異形としても邪魔なだけだから、殺されるしかなくなる」
火野弟が笑みを浮かべながら兄の言葉を引き継ぎおれに教えてくれる。火野兄は笑顔の弟とは対照的に渋い顔をしている。
「凌平。兄ちゃんは、お前に化け物になってほしくなかったんだ。人間は一応仲間だと思ってるからね。でも、人間の興味を引くには『元の世界に帰れなくなる』って思わせたほうが食いつきが良いんだよ」
弟は未だ部屋の隅で膝を抱える兄に寄り添い、兄の手を握った。彼の顔にはなぜか満足げな笑みが浮かんでいる。火野兄がわずかに怯えた様子で隣に来た弟を見上げる。
「最終的に、俺たちふたりきりになった。兄ちゃんが守ろうとした人間たちは皆いなくなったね」
囁くように言って、火野弟が兄からおれに視線を移す。
「凌平もいなくなるのかな。……俺は、どっちでも良いけど」