早寝記録

墜ちる

『なあ、逃げよう。俺、付いてくから』

 黒い髪。強気な目。笑うと見える、尖った歯。声は反抗的な言葉に反して優しく、よく耳になじむ声だった。大丈夫だよと穏やかに言われると、たとえどんな状況だって大丈夫だと思えるのだ。おれの人生で、彼に出会えたことが唯一の幸福だった。じゃないと、途中で楽な方に、兄貴の後ろについて後戻り出来ない道へと進んでいただろう。

 記憶が途切れる。おれは、今見た『夢』もすぐに忘れてしまうのだろうか。だけど、舜。おれはお前を思い出した。
 目を開けると、周りの景色がはっきりと見えた。まっさかさまに落ちている自分自身もちゃんと認識できている。

 落ちているのは湖のほとりの井戸の中。全く覚えていないが、おそらく化け物にふっとばされたか、負けて自ら飛び込んだのだろう。
 全身は燃えているかのようだったが、初めに攻撃を受けた時よりはずっとましだ。切り裂かれたはずの背中もそれほど痛まない。ただ、全身が燃えているようだった。
 手を見ると、まだ人間の薄っぺらい手ではなく鬼のものだった。
 おれは空中で体勢を変えると、思い切り両手を前に突き出した。ガリ、と何かにささる。衝撃は相当なものだったがなんとか井戸の側面にぶら下がることができた。おかしな空間だがここは井戸の中。上も下も真っ暗だけど、夢から覚めたのだ。きっとすぐに底に辿り着ける。

 明らかに人間の思考から乖離していた。それには気が付かなかったが、そのせいもありおれは冷静に状況を見ることができていたと思う。人間のおれだったら、上も下も真っ暗なこんな場所で冷静になんかなれないし、『底』にたどり着けるなんて思わない。パニック状態ではなかったとしても、きっといつか底に叩きつけられて死ぬ恐怖に殺されそうになっていた。
(舜……)
 おれはもう人間じゃないけれど、やっと思い出した親友の名を忘れないように、頭の中で繰り返しながら井戸を降りて行った。

 やがて、小さく水音が聞こえた。おれから落ちた血が地面に打ち付けられた音。ついに底まで来たのだ。
 地面を確認し、慎重に足を付ける。一気に重力を感じ、膝をついてその場に倒れこむ。こんなはずではなかったのに、全身が心臓のようで少し危険かもしれない。立ち上がって進まないといけないが、段々と意識が曖昧になっていく。意識を手放すわけにはいかないのに。ここは魑魅魍魎が蔓延る森なのだ。わけのわからない井戸の底で呑気に寝るわけにはいかない。それなのに、自らの血だまりがまるで布団のように温かくおれを包む。おびただしいほどの血を流していたことにさえ気づかなかったおれは、襲い来る睡魔に抗えず抵抗虚しく目を閉じる。

 久納に会いたい。
 もう眠りたい。
 立ち上がりたい
 御国を掴まえて、友達だったと教えたい。
 目を開かなきゃ。

 もうだめだ。考えないと。寝るな。何かを。考えろ。

(おれは、記憶の欠片を手に入れるために見世物小屋の外に出た。化け物に負けたが、欠片はおれに舜の記憶をくれた。叱って欲しい。それで、それで……火野に、止められた。大事なものは、記憶じゃない。危険なことをしたおれを叱って欲しい。久納。それで、なんだっけ……? 心配して欲しい。叱って、心配したよと抱きしめて、それで、逃げ延びたこともほめて、あと……閉じ込めて欲しい。もう一度、おれを住人にして――)

 落ちそうになる意識を引っ張りあげ、なんとか思考を途切れさせまいともがく。初めは現状の把握と自分の取った行動を整理していたが、いつからか途切れ途切れの願望に変わっていた。眠りの世界に片足を突っ込んだまま考える。

 でも、すぐに限界がきた。
 何も考えられなくなる。まぶたを開ける方法を忘れてしまった。
 折角生き延びたのに。折角記憶の欠片を手に入れたのに、大事な人を思い出したのに、おれはここで死ぬのだろうか。