早寝記録

井戸の中

 規則正しい水音と、少し冷えた空気の中、おれはゆっくりと目を覚ました。ぼやけた視界が鮮明になる。ぼんやりと目に映る人影の輪郭が次第にはっきりしていく。
「大丈夫?」
 呆れたようにおれを覗き込んでいたのは――
「……御国」
 御国だった。頭を動かして確認すると、おれはだだっ広い空間で綿のようなものの上に寝かされている。遠くに行くにつれて暗くなっているから正確な広さは把握できないが、かなり広そうだ。
「良かった、生きてたのか……」
 若しくは、願望が生み出したただの夢かもしれないけれど。
「それはこっちの台詞なんだけど。人間だったら死んでたね、お前」
 言われて徐々に状況を思い出してきた。そうだ。記憶の欠片を手に入れるために『外』に出て、何かに襲われて井戸に落ちた。そして底に辿り着いたときに意識がなくなったのだ。
「ここって、井戸の中?」
 問うと、御国が頷く。
「そうだよ。白蛇様の住処。俺も少し前にここに来たんだ」
「……知ってるよ。御国が落ちたの、おれたち調べて分かったんだ」
「え」
 御国が止まる。
「青がすげえ心配してた。御国を助けるって言って頑張ってさ。絆されて、おれも協力しちゃった」
「だ、だから落ちてきたの?」
「結果的には」
 実際は記憶を取り戻すのが目的で、御国に会えるとは思っていなかった。それどころか再び目が開くとは思わなかった。手を見ると、見慣れた人間のもので、ほっと息を吐く。現実感がなかった。御国が生きていて嬉しいはずなのに、なんとなく頭と感情に靄がかかっている感覚がする。
 記憶の欠片を得て、何かを思い出した。その何かとは友達のこと。友達とは、今おれの目の前にいる御国だ。
 はっきりと思い出したし、嬉しかったのに、おれは今考えていることでさえ現実のものだと認識できていない。
「ねえ、おれ、どのくらい寝てた? なんか、ぼーっとする」
「ああ。寝てたのは3日間。水井戸の入り口で倒れてた」
「そっか。ありがと」
 礼を言っただけなのに、言われ慣れていないのか御国は照れくさそうに眉を顰めた。
「別に。礼なら白蛇様に言ってよ。そろそろ散歩から戻ってくるから」
「……散歩?」
 問うと、一転して穏やかな顔つきになる。
「そう。俺が落ちてから人型になって、また歩けるようになったのが新鮮らしくて結構歩き回ってる」
「今までは歩けなかったの?」
「瀕死のでけえ蛇って感じだった」
 御国が笑う。笑顔にはあまり元気がない。理由を尋ねる間もなく、人の足音が聞こえた。起き上がって音のする背後を振り返ると、見たことのない儚げな男が笑みを浮かべながら歩いてくる。着物と髪の毛が白く、目と帯が赤い。色合いは真逆だが、どことなくクチナワと似ている気がする。短めに切られた髪型のせいだろうか。
「や!」
 見た目を裏切り、その人はやけに親し気に話しかけてきて面食らう。
「良かったなあお前。舜に感謝しろよ? ずっとついてたんだからさ」
「……舜」
 思わずつぶやくと、御国が慌てたように口を挟む。
「それ、俺のこと。白蛇様、俺のことシュンって呼ぶんだよ。俺のこと知ってるって言って」
「ああ、知ってるぞ。凌平のことも知っている。いつか、飴玉をもらった」
 白蛇様が嬉しそうに笑い、おれの座っている綿のようなものに腰掛ける。距離はかなりの近さだが、そこにいないかのように熱も匂いも、彼からは何も感じられなかった。
「……飴玉をおれがあげたの?」
「ああそうだ。舜のちょことお前の飴玉で俺は生き延びたからなあ」
 懐かし気に目を細め、彼は俺の頭に手を置いた。冷たくも温かくもない彼の手がすぐに温かくなる。
「最後にお供え物をしてくれた二人に会えて、俺はもう思い残すことがない」
 白蛇様は本当に満足そうに微笑んでいる。瀕死には思えなかった。かといって元気そうでもないが、今すぐ死にそうには思えない。
「……凌平と、家が近かったのか」
 御国のつぶやきは、おそらく無音の空間だから聞こえたものだ。白蛇様がおれたちの前で、どこか深刻な顔つきで俯いている御国を慈しむように見上げた。
「いつも、教えてやると言っているだろうが」
「いらない」
 御国はふいと顔をそらし、ちょっと歩いてくる、と言っておれたちに背を向けた。
「どうやら、水井戸の入口付近で何かが迷っているようだ。見てきておくれ」
 白蛇様が御国の背中に投げかける。
「わかった」
 頷きを返した御国がゆっくりと走り出す。彼はすぐに闇に紛れた。水音の反響などからかなり広い空間だということはわかるが、おれたちの周りだけがスポットライトで照らされているようで視界が悪い。しかし、なぜか御国は迷いなく駆け出していた。
「……白蛇様は、おれたちのこと知ってるのか」
 馬鹿げた質問だと思った。ちょこと飴と聞いた時に、おれは朽ちた祠を思い出していたから。御国はそこに毎日のようにお菓子を供えていた。貧乏だったから、いろんな味のものが入っている袋を買って、確か日替わりであげていたと思う。
 しかし記憶はいじわるで、鮮明には思い出させてくれない。浮かんでくる幻の色はくすみ、音は水を介しているようだ。それはまるで作り物だった。おれは客観的に自分の姿形をした他人と「舜」の物語を眺めているのだった。
「暇つぶしに、今よりも元気だった頃、舜に憑いていたんだ。楽しかったぞ。それはそうと、記憶の欠片はどうだった?」
「え?」
 白蛇様がおれを見てにやりと笑う。
「見つけたのだろう? 俺にはなんとなくわかるのだ」
「ああ。……え、ええと、御国。……舜のこと、少し思い出した」
「思い出してどうだ?」
 質問の意図が見えない。感想を聞きたいのだろうか。でも、何の感想?
 実際、おれは御国が「舜」であると確かめたくて湖を探した。おれにとって久納とふたりだけの世界は心地よく手放しがたいものだったが、それでも何かに動かされるように青に協力したから。久納しかいない、おれの大好きな世界よりももしかしたら大切だったのかもしれないと不安に思ったのだ。
 久納の傍にいたいのに、久納を裏切る行為をしている自分に、理由がほしかった。

 結果、確かに御国――舜はおれにとってかけがえのない存在だった。でも――
「おれは多分ここに来て、前の自分と分かれたんだって思った……。うまく言えないけど。舜といた頃のおれと、今ここにいるおれは他人なんだ」
 言うと、白蛇様がふふ、と笑う。すべてを見透かしているような笑み。ここで話を切ってもいいのに、おれは続ける。誰かに聞いてほしいのかもしれない。
「人間じゃなくなったとか、そういう話じゃない。すべてを忘れたままおれは何か月もここで過ごしたけど、そのうちに過去のおれと分かれてしまった気がする。記憶の欠片で見たおれは、確かに姿は自分自身だったけど、どこか他人のような気がした。……おれの言いたいこと、わかるか不安なんだけど」
 手が痛い。知らず知らずのうちに膝の上においた手を握りしめてしまっていた。
「もしお前が舜のことをずっと覚えていたら、お前たちの関係はこの小屋に来る前のものと変わらなかった。だが、忘れたまま時が過ぎたことで、縁は無理やり断ち切られてしまった。断ち切られたものを手繰り寄せても、その形はいびつで修繕したって完全に戻ることはない。お前たちはかつて友人同士だった。舜に憑いていた俺の目からは、互いに心の拠り所にしているように見えた。……記憶の欠片は外から見るだけだから、現実感がないんだ。覗き穴から箱の中を覗くのと似ている」
 覗き穴から箱の中を覗くこと――。
 来た当初、おれは頑なに見世物を見ようとしなかった。それはまだ箱の中に現実があると思っていたから。だけど、いざ見てみたら箱の外側と中には目に見える壁以上の何らかの隔たりがあった。中の見世物を、楽しめるようになった。
「覚えておけ。失われた記憶が戻ることはない、『失う』とは、そういうことだ」
「……失う」
「友人だった、という事実だけを持ち、また新たな関係を作っていけばいい。お前たちは絶対に上手くいく」