早寝記録

飴玉

 カタカタと床を打つ下駄の音が近づく。
「凌平!」
 暗闇から出てきたのは、会いたくてたまらなかったおれの主様――久納だ。彼は美しい金髪を揺らし、頬を上気させて走って来る。鬼になんて全く見えないし、いつもの余裕がひとつもなかった。
「久納」
 白蛇様に弱く背を押され、はっとして立ち上がり久納を迎えると、勢いよく抱きしめられる。
「何をしてるんだ君はまったく!」
「じ、事故。落ちちゃったんだよ……。ごめん」
「事故で外の井戸から落ちるか! いいや、落ちないね!」
 久納の心臓がばくばく鳴っているのがわかる。聞こえるはずないのに、彼の心臓の音が聞こえている感じがする。不謹慎だけど、こんなになるまで走ってきてくれたのかと思うとうれしかった。
「俺が助けた。感謝してくれるか?」
 久納がさっきのおれのようにはっとして綿の上に悠々と座っている白蛇様を見た。
「白蛇様……」
「会いたかったぞ。元気そうで何よりだな」
 一瞬、久納の目が切なげに揺れる。
「それは俺の台詞ですよ」
 けれどすぐにいつもの余裕ある久納に変わり、彼は何も言わずさっきまでおれが寝ていた場所にひとりで腰を下ろしてしまった。
「ちょっと我を忘れていましたが、まさか人の姿になっているとは思わず、驚きました」
 久納のうさんくさい敬語を聞きながら、彼の足元に座ると、そっと頭を撫でられた。そのまま膝に擦り寄りたい気持ちがあったが、ふたりきりではないのでやめる。
「そうかそうか。俺は随分長いこと蛇の姿だったようだ」
「やはり、何も覚えていませんか」
「ああ。舜……御国が頭に当たったのだ。イテッと思った瞬間、こちら側に帰って来たのだろう」
 足音が二つ生まれる。振り返って後ろを見ると、居心地の悪そうな表情の御国と、その隣には青白い顔をしたクチナワがいた。彼らは白蛇様に視線を合わせゆっくりと近づいてきていた。小さい水音だけの静かな空間。白蛇様の声は彼らにも届いていただろう。
「驚いたよ。目が覚めたら、そこら中に人や異形の邪悪な思念が渦巻いているのだからなあ。面食らったぞ本当」
 ははは、と明るく白蛇様が笑う。
「……俺は随分いろんなものを喰ったらしい」
「生きるためには食事が必要だ」
 間髪入れずに久納のものではない声が響く。その声を聞き、白蛇様はとろけるような笑みで声のした方に顔を向けた。そして立ち上がり、さっき久納がおれにしたようにクチナワのことぎゅっと抱きしめた。
「会いたかったぞ! 会いたかったぞ!」
 そう言いながら、ぎゅうぎゅう音がしそうなほどに抱きしめている。
「あんたは相変わらず鬱陶しいな」
 心底うんざりしたように言いながら、クチナワがしずしずと抱きしめ返す。こわごわと、壊れ物に触れるような手つきに驚く。
「ほら、離れろ。いい年してみっともない」
 白蛇様の背に回した手をすぐに離し、クチナワは白蛇様から距離を取った。
「なんと!」
 白蛇様が悲しげに眉を寄せる。彼は手を広げたまま腰を落とし、いつでも抱き着ける体勢を取っていた。
「俺はもうお前に会えないと思っていたんだ。それなのにひどい! もっと再会を喜べ反抗期!」
「来るつもりはなかった。このアホに無理やり連れて来られたんだ」
 クチナワが忌々しげに顎で久納を指す。
「つべこべ言うな。誰が助けてやったと思ってるんだ。あのままずっと客寄せの見世物でも良かったのか。生き地獄ではないか」
「別段興味はない」
「可愛げがない!」
「お前に可愛いと思われるくらいなら死ぬ」
 ふたりの言い争いを、白蛇様は懐かしそうに眺めていた。ふと、沈黙が降りた瞬間、白蛇様が静かに口を開く。
「クチナワ」
「なんだ」
「もう、人も、異形も投げ入れなくて良い」
「どういう意味だ」
「目が覚めた時、あたり一面に異形や人間のおぞましい思念が渦巻いていた。お前が俺を生かすために餌としてくれたのだろう。あっているか?」
「否定はしない」
「クチナワ」
「なんだ」
「そういうときは、あっている、と言うんだ。お前は天邪鬼で困る……」
「大きなお世話だ」
 二人の視線は一時も外れない。クチナワは何を考えているか一つも読めない表情で白蛇様を見つめ、白蛇様は話の内容に関わらず、常に慈しむような、愛おしいものを見る表情でクチナワを見つめている。
「クチナワ」
「なんだ」
「俺のことは好きか?」
「なんだいきなり」
 初めてクチナワの顔にわずかな変化が見える。動揺しているような、そんな顔だ。そういえば、おれは人を捨てるときにしかこいつに会っていないが、初めに見た時は穏やかに微笑んでいた。穏やかに微笑みながら、悪魔のようなことを口にしていたのを思い出す。笑っている時よりも、こうして無表情の中に戸惑いを見せるほうが、何倍も人間らしかった。
「好きか?」
「意図がわからない」
「好きか?」
「……嫌いではない」
「ほらまた。こういう時は好きだと答えるんだ」
「うるさい」
 クチナワの顔がみるみるうちに崩れ、不快を露わにする。けれどそれは子供が泣き出す一歩手前の表情のようにも見えた。
「クチナワ」
 白蛇様が優しく呼ぶ。
「クチナワ、返事は」
「……なんだ」
「もう、人や異形はいらない」
「……それではあんたが死ぬ」
 初めて、クチナワの殻が破られた気がした。か細い声で、声と同じくらいの悲しげな顔で彼は言った。両脇に垂らされた手は固く結ばれていて、何かを堪えていることが見て取れた。意外だったのが、そんなクチナワの様子を御国が心配そうな表情でじっと見ていたことだった。彼は噂の上でも、自身の言葉でもクチナワを怖がっていたから。
「あんたを生かすためだけに、俺はここにいるんだ」
「俺は意識がある時、常にお前の幸せを考えているよ。もう楽になりなさい。俺が死んだら行けといった場所、覚えているだろう? お前一人ではお前に憑いている蛇はどうにもならないが――」
「そんなのもう忘れた。あんたが生きていれば俺は幸せだと、なぜわからない」
 ふと、頭に温かい感触。見上げると、久納がなんとも言えない微笑みを浮かべながらおれを撫でていた。その笑みは怖いほど美しいが、ひどく悲しい。
「俺が消えるまで、傍にいてはくれないか」
「……どういう意味だ」
「ものを考えられぬ蛇で生きながらえるよりも、この姿……お前たちと近い姿のまま終わりたい。俺は今舜といてとても幸せな気持ちなんだ。舜の信仰はもう俺を十分に満足させた。お前が来れば薄暗い井戸の底がこの世の極楽になる! 本当の極楽には一匹足りないが、まあ狐は自由だからな。縛り付けると死んでしまうから諦める」
 白蛇様の口調は冗談とも本気とも取れない。無理に強がっている風もない。しかしクチナワは違った。おそらく彼はおれが、おれたちが思っている以上に人間に近いのだろう。白蛇様の口から出た『蛇憑き』という言葉。一般的に言われるような動物憑きのようではないから、彼はただとんでもない力を持った蛇に憑かれているだけの人間なのかも。

 暫くの間、クチナワはじっと白蛇様を見つめていた。その間おれは彼と白蛇様の立場を自分たちに置き換えて考えた。
 久納とふたりきりだった頃、暇つぶしになればと彼はお伽話を聴かせるようにおれに過去を語り聞かせてくれた。それは幸福な思い出の話だった。見世物小屋に来る前、久納と団長、稲様、そして白蛇様とクチナワがともにどこで何を見てどう過ごしたのか、彼は時に静かに、時に大げさに教えてくれた。
 お話の中の彼らは家族のようだった。久納と稲様が元団長に拾われ、白蛇様がクチナワを連れてきた。久納の話の中に出てくるクチナワは天邪鬼だけどどこか甘いところがある、そんな人物だ。見世物小屋に取り憑かれるようにしてそれぞれ変わってしまったと言っていたが、本当にみな変わってしまったのだろうか。
 少なくとも、今おれの目に写っている久納と白蛇様、クチナワには、安っぽい言葉を使うと絆のようなものが見て取れた。それは温かいものではなく、蛇のように温度がないかもしれないけれど。

 もし久納が白蛇様のように力をなくして瀕死の状態になったらおれはどうする? 久納が生きながらえるためなら、おれはクチナワと同じ行動を取るのではないか? 恐れられ、嫌われ、仲間を作らず、ひとりになっても大切なたったひとりのために行動を起こし続ける。そうありたいと思った。今おれは、クチナワに共感してしまっている。
 しばらくして、クチナワが口を開いた。
「……連れてきてやる」
「ん? 何をだ?」
「団長だ。文脈でわからないか」
 クチナワがため息を吐く。
「会わせてやると言ってる。会いたいんだろう?」
 吐き捨てるように問われた白蛇様は、困ったように笑みを深くして、ゆっくりと頷いた。