早寝記録

 ──体育。面倒くさい。

 しかたねえなあ、とそいつはいつも笑ってくれた。恋をしていたわけではないが、一番好きな教師だった。

 ──また俺福井に間違えられた。
 ──そう。
 ──肩叩かれて振り向いたら、うわあって、すっげー失礼な反応されたよ。

 碌な返事も返せない俺に、そいつはいつも話しかけてくれた。俺と間違えられて良い気分はしないだろうに、顔を見れば笑いかけてくれた。
 俺は自分で自分のことが好きではない。優しくしてくれる人に何も返せず、普通の反応すらできないから。北上も、俺に似ている彼──矢代も、良いやつだということはわかっていた。俺の反応一つで友達になれたということも。
 俺は俺のことが好きではない。嫌だ。嫌いだ。大嫌いだ。好きになりたいが、なれるわけがない。誰かに顔ではなく心から好かれたいが、自分で自分が大っ嫌いなのに、人から好かれるわけがない。
 枕に顔を押しつける。苦しい。息が出来ず、心臓だけが必死になって動いている。もしかしたらこのまま我慢していれば、死ねるかもしれない。
「……、──っ、だめだ」
 苦しくて顔を上げ、荒い息を繰り返す。
「だめだ……」
 自分のことが大嫌いで、居なくなった方が良いと思うのに、少しの苦しさにも耐えられない自分が更に嫌になった。
「なんで、俺は……」
 ベッドから起き上がり、床に足を付ける。制服のまま倒れ込んだから、シャツがしわくちゃになっている。ふと気付けば、帰ってきて床にぶん投げた鞄の口が開いており、断続的な光が見える。無意識に立ち上がり、光のありかに手を伸ばす。
「……」
 光の正体は電話に入ってきた着信のお知らせだ。着信と共に、メッセージも来ている。差出人はどちらも能登だった。
 電話の光に照らされた俺の顔は暗い室内に浮かび上がり、まるで幽霊のように見えるだろう。
 メッセージを送るか電話か少し悩み、テレフォンマークを押してみる。数回のコールのあと、能登が出た。
「着信、今見た」
 正直に言うと、もう大分経ってる、と能登が笑ってくれた。電話越しに聞く能登の声は実際よりも少し低く、優しいもののように思えた。この能登に、弱い自分をぶつけたくなり、口を開いてみたが弱い俺が吐き出せる言葉などない。
『俺暇しててさー。なんか、福井くんいないと暇』
「……そうなの?」
『そーなの。俺、福井くんと仲良くなる前どうやって生きてたんだろうねー』
 ぼす、と音がした。ベッドに倒れ込んだのだろうか。能登のゆるい雰囲気になんとなく安心感を覚え、俺もベッドに寝転んでみた。スピーカーモードにして、電話をそっと頭の横に置く。
「……俺も」
『え? 何? 聞こえなかった』
「来る? 部屋」
『福井くん』
 能登が笑いながら俺の名を口にした。
「なに?」
『俺さぁ、その言葉を待ってた』
 電話の向こうで能登が起き上がった音がする。それを聞きながら、俺も起き上がる。
「鍵開けに行くの、面倒くさいな」
『俺を入れてくれるために、ごそごそ動いてんの聞こえてるよ』
 ベッドから離れ、寝室のドアを開ける。
「普通の鍵なら良いのにね。合鍵できるような」
『合鍵って憧れる。許された証みたいなもんじゃん』
「何に?」
 暗がりの中リビングを歩く。リビングには、能登が勝手に買ってきたテーブルがある。
『んー。なんか、全部』
「へえ」
『今わかんねぇのに返事したでしょー』
 電気をつけて、玄関に続く廊下に出るためのドアを開ける。そこで閃いた。
「わかった」
『わかったの?』
 ふふ、と笑われる。
「あ、違う」
 わかったのは、さっき考えたこと。電話の能登に、弱い自分を曝け出したくなったわけ。
 鍵を開け、ドアを開けると、丁度能登が到着したところだった。
「すげー。タイミングばっちりだ」
 ただでさえたれ気味の能登の目元が、笑ったことによってさらに甘さを増す。
 正直、能登のことはよくわからない。好意は感じるが、考えてみると友情というよりも、ペットに向けられるようなものに近いかもしれない。
「元気ねえなぁ。だいじょーぶ?」
「俺が元気なことってないし。大丈夫」
 ふは、と能登がまた笑う。得体のしれない能登だけど、俺は彼の顔を見て自分でも驚くほど安心して気が抜けた。さっきまでうだうだと悩んでいたことさえも遠い記憶に思える。
「入って」
「どうも」
 部屋の中に能登を招き入れる。能登が靴を脱ぎ、俺に付いてくる。
「なんか、福井君の部屋入ったら、途端に眠くなってきた」
 ふわぁ、と能登が手で口をおさえ、お上品な欠伸をした。
「寝てていいよ。俺、ぼーっとしててシャワーもまだだから」
「まじでー? いつからぼーっとしてたんだよ」
「昼食べて戻ってきてから」
「逆にすごい」
 能登が笑いながら俺の寝室へと消えていく。そこに遠慮は見られず、なんとなくほっとする。
 さっきまで頭の中を支配していた保健室の男や、矢代の存在が霞んでいくのを感じる。
 面倒ではあったがシャワーを浴び、寝る支度をして寝室へ行くと、暇だと言って来たはずの能登は本当に寝るようで、すでに灯りを消し、ベッドの上で毛布にくるまっている。
 眠っているのかはわからないが、俺は声を掛けずに能登の隣に入り込んだ。能登は壁の方を向いていて顔は見えない。暗がりの中でよく見えないはずなのに、彼の黒い髪を美しいと思った。
「福井くん」
「起きた? ごめん」
「俺、すぐ寝れるからなー。折角来たから起きてようと思ったんだけど」
 眠い中話していることがわかるような、微睡んだ口調だった。
「だったら、明日も来れば」
 言って能登の背に額を押し付けると、能登が静かに笑った。
「そうだね。じゃ、ねるか……」
 能登が大人しくなった。
 顔が見えない能登に、俺の弱さをぶつけたくなる。声だけの、顔の見えない能登に、俺は寄りかかりたくなるらしい。笑顔が見えないほうが信じられるなんて失礼な話だけど、能登の声はひどく優しい。