法蓮草(後)
坂上さんに告げたことは嘘だが、俺は橘さんに言いたいことがある。
そして、それを言ったら橘さんは喜んでくれる気がしていた。
坂上さんを送ったエレベータの中、電話を掛ける。
すでに自分の部屋ではなく、7階のボタンを押している。
出てくれないかもしれないな、と思ったが、それならそれでもいい。
しかし、俺の予想とは裏腹に、数コールで委員長は電話に出た。
『……はい?』
「あ、橘さん? 俺俺! 俺だよ!」
『……詐欺?』
「まっさかあ。木戸ですよ。あの、今から行ってもいいですか?」
『ダメ。……じゃない』
「どうも! 今から行きまーす」
おそらく橘さんは断る気だったのだろう。けど、やっぱり――みたいな葛藤があって、ダメじゃないと言ってしまったと推測する。
断られそうなお願いは、じっくり考えてもらうよりもきっと勢いでいっちゃったほうが良い。俺は不慮の事故で勝手に携帯の電源が切れてしまったことにして、電源を切った。
これで橘さんがやっぱり今日はダメと言っても「あっれーおっかしいなあ電源切れてて気づきませんでしたへっへー」といった腹が立ち図々しい言動が取れる。
音が鳴り、扉が開く。
7階は俺の住んでいるフロアと同じ設計になっている。
橘さんの部屋は何度も行ったことがあるが、今日はフロア全体にもの悲しさがただよっている気がした。
建物も人がいないと寂しさを感じるのだろうか。誰もいない僕はただの箱――勝手にアテレコする。
橘さんの部屋は角にある。エレベータではなく、階段がある方の角だ。
橘さんの部屋の前に立ち、ためらいなくチャイムを押す。かわいらしい鐘の音が鳴り、すぐに橘さんがドアを開けてくれた。
「……久しぶり」
「お久しぶりでーす」
久しぶりに見た橘さんは少しだけやせ、髪の毛が少し伸び、前髪が目にかかるくらいになっている。
「おじゃましまーす」
「どうぞ」
へらへらと笑いながら部屋の中にお邪魔する。部屋の中は暗かった。散らかっていないが、生活感がない。
「……ずっと寝室にいるから」
「寝てるんですか?」
「朝までは宮田君いて、……ずっと座ってた。ふたりで。あと、この前は副会長が来てくれたよ。料理が黒くて腹壊した」
橘さんは普段通りの抑揚のなさでそういった。けれど、腹を壊した、と言った橘さんの声色がすこしだけ優しくて、坂上さんの気持ちはちゃんと伝わってるんだな、と嬉しくなった。それから、橘さんの口から「ふたりで」という言葉が出て、少し安心する。
橘さんについてリビングを横断し、寝室へと入ろうとしたところで、橘さんが振り返った。
「何か飲む?」
「いいです。大丈夫っすよ」
俺は、緊張していた。ノリと勢いで来てしまったが、バカなことをしに来た自覚はあるし、きっと2週間後くらいには黒歴史として俺の人生の一幕に加わっているだろう。
橘さんが冷蔵庫からお茶を取り出した。ペットボトルをふたつ持って、俺を寝室へと促す。ここに来たのは、「わくわく★SMセット~ハードにきめて~」以来だ。
橘さんがベッドの上に座り、俺も乗っかって、橘さんの向かい側に正座した。
「俺、会長のこと好きなんです」
なんの脈絡もなく橘さんに告げる。
すると橘さんは、黒の目を大きく見開いた。
そして、かすかに微笑んだ。安心したような、ほっとしたような穏やかな笑みだった。
「やっぱりそうだったんだ。……そうじゃないかなあって思ってたから、そうだといいなって思ってたから、なんか嬉しい」
「橘さんに見透かされてましたもんね、俺」
そういうと、橘さんは、「いつもはほとんど人の気持ちなんてわからないんだけど」といつもの抑揚のない声で、静かに言う。
橘さんは、詳しいことは知らないが、昔からずっと変だ変だと言われ続けて来たらしい。
気にしているそぶりはあまり見せないが、ずっと風紀の仕事を教えてもらったり、お礼という名の無茶な命令を受けたりしている中で、段々と橘さんの抱える寂しさを知った。
「恥ずかしいけど、俺、今日は気分がいいから言っちゃいます」
「何?」
「俺、今まで風紀辞めなかったの、橘さんがいるからです。俺、あんたに褒められるのが好きなんです」
暗がりの中、橘さんが石になる。まるで、精巧な人形のようだと思った。
人形は、しばらく静止した後、眉尻を情けなくたれ下げ、人間になった。
「そういう……恥ずかしいこといえるのが恭弥くんだよね……」
「宮田さんには負けないですか? 俺」
「宮田くんは、何も言わないよ。ただ、黙って隣にいて、背中をさすっててくれる」
「青春じゃないっすか」
「青春なの? 人に迷惑かけるのが?」
「青春と言えば恋だから」
「恋? 誰が? 俺、恋してるの?」
「委員長も、副委員長も」
俺の指摘に、橘さんの目がまた丸くなる。
「俺、恋はできないよ」
「なんで?」
「だって、こんなやつ誰が好きになるの」
「宮田さん」
間髪入れずに答える。
橘さんが呆気にとられる。視線があちこち宙をさまよい、宮田くんが? 俺を? などと自問自答している。
自分に自信がなさすぎるとこうも鈍感になるのかと思ったが、自信とは人から認められることで芽生えるものかもしれない。きっと、変だと言われて否定され続けた橘さんは、その度に自信をなくしていったのだ。
やがて、橘さんの自問自答は、なんらかの答えを誕生させたらしく、暗がりでもはっきりわかるほど橘さんの顔に赤みが差した。
「橘さん、宮田さんなら大丈夫ですよ」
何が、とはいわない。今の橘さんならこの言葉だけで、大丈夫に掛かる彼自身の修飾語を導き出すことが出来る気がする。
そして、俺の予想は当たっていたみたいで、橘さんは一つ息をつくと、恥ずかしそうな、不安げな、けれど嬉しそうな曖昧な表情をした。
「どうかなあ、宮田君、大丈夫かなあ」
「大丈夫ですよ」
「大丈夫だったらいいなあ」
橘さんが、おもむろに携帯電話を取り出す。
「……いつも宮田君から掛かって来るばかりなんだけど。あとで、掛けてみようかな」
「はい」
「……風紀委員の話じゃなくても、世間話でもちゃんと聞いてくれるかな」
「どう思います?」
「……聞いてくれるだろうな」
俺の問いに、橘さんがぽつりと呟いた。
「俺、行きます」
「うん。ありがとう」
電話を見つめる橘さんが顔を上げる。
ベッドから降りてその前に立った俺は、橘さんに見上げられる格好となった。
「……俺、会長に好きですって言ったんです」
「そう」
橘さんの不思議な目が、弧を描く。
「会長も、俺のこと好きって言ってくれて、すごく嬉しいんです」
「うん」
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
橘さんがベッドから降りて立ち上がる。
そこで、俺は今あることに思い至った。俺は、風紀委員で、風紀手帳を持っている。
風紀委員会に入れられた時、無理矢理暗唱させられたから、見なくても思い出せる箇所がある。
俺が今日したこと。ミキちゃんに報告し、坂上さんに相談を持ちかけられ、橘さんに今から行く旨を連絡した。
報告、連絡、相談。
風紀手帳に書いていた。橘さんも、何においても報告連絡相談が重要だと言った。
しかし、橘さんはいつも報告ばかりで連絡と相談がない。報告連絡相談は一般的にほうれんそうと呼ばれている。ほうだけあってもほうれんそうではない。きっと草にもなりえていない。
「橘さん!」
「…何?」
「世渡り? 人付き合い? なんか知らねえけど、大切なのはほうれん草なんですよ! 風紀の手帳にも書いてるじゃないっすか。あんたも大事だって言ったし、そこら辺暗記してるでしょ」
「ほうれん草? 報告連絡相談?」
「そう! 橘さんいっつも報告ばっかじゃないですか」
「そうかな」
「今だってひきこもっちゃってさ」
「そうだね」
俺は思いつき、橘さんに動かず待っててくれと言いつけ、ほうれん草を買いに走った。
そして、呆気にとられる橘さんに鉄分満点のほうれん草パスタにほうれん草のおひたし、ほうれん草のジュース、ほうれん草のサラダ、さらにほうれん草の天ぷらを作った。
橘さんの顔が引きつった気がしたが、完食するまで見張っていることにする。きっと、今橘さんの体内ではものすごい勢いで血が生まれているはずだ。
血が生まれるものかは知らないが、まあ、鉄分というのはあれなものだからほうれん草によって力か何かがもりもりわき上がることだろう。
「……報告、連絡、相談、ちゃんとするから……のこして良いかな」
見ると、橘さんが青い顔をして毒々しい色をしたほうれん草ジュースを手に見つめていた。
次の日の朝来ていた宮田さんのメールによると、橘さんはあのあと宮田さんにほうれん草の恐怖について相談したらしい。
何があったか知らないか、と聞かれたが、寝ぼけていた俺は、知らないと返してしまった。