早寝記録

ばかっぷる

 三月兎は狂ってる。そんな風評。風の噂。風と言うのはどこから吹くか。西から聞こえた気がするが、いつかの客が話して行って、そしてさよなら去って行ったのかもしれぬ。
 帽子屋は、時間に機嫌を損なわれた自分を呪った。
 いつまでもティータイムが終わらない。6時から逃げられない。
 ふと、隣でけらけらと、おいしそうにビターを飲んで笑っている三月兎は、今何時を生きているのだろうかと気になった。
 問うことはせず、テーブルの上でティーポットに頭から突っ込んで眠っているヤマネを見つめる。二重にも三重にも見えるから、果たして見えているのか疑問だが、帽子屋は、自分の帽子が売れているのかどうか気になった。しかし、もはや自分の頭に乗っかっているのと、三月兎の頭の上に乗っかっているだけしか商品は残っていないことに気がついた。
 素晴らしき売り上げだ。とうの昔に金はなくなり、そもそも紅茶も酒もお茶菓子も、全てのものに金は必要じゃないからどうでもよかった。

「ねえねえ帽子屋」
「何か用?」

 三月兎が帽子屋ににやにやと笑いながら話しかけた。手にしているビターが入ったカップからビターがこぼれ落ちて、テーブルの上に滴り落ちている。
 三月兎の顔が見たくて、帽子屋は目を見開き、彼と触れ合うぎりぎりの所まで顔を近づけた。幾重にも広がり乱れていた三月兎の顔が一つに重なり、意外と美しい彼が視界一杯に広がった。それに満足する。

「時間が分かる時計が欲しくない?」
「時間が分かる時計は欲しくない」

 顔がくっつくすれすれのところで話しているものだから、三月兎が飲んでいたビターが風に乗って帽子屋まで届き、帽子屋はそれだけで酔ってしまいそうだった。

「時計は時間を刻むから、おれはもう時間とけんかをしたくない。おれが時間だったら刻まれたくはないだろうから」
「気付かなかったんだ?」
「おれは気付かず時間を刻んでしまっていた。時間を痛めつけていた。時間は今包帯いっぱいつけてるだろうよ」

 帽子屋の言葉に、三月兎がにたあと笑う。帽子屋は、「ばかにするんじゃないよ」と、うんざりしたように三月兎にこつんと頭突いた。

「バカにしてないって」

 三月兎の舌が伸び、帽子屋の唇をひとなめして引っ込んで行く。ぞわりと背中が粟立った。舌がざらざらしてた。そこは名前の通り兎なのだろうか。

「時間を探しに行きますか」

 三月兎が提案した。

「時間を探しにって、時間はここにいるじゃないか」
「時間がひとつだとは限らないよ、帽子屋さん」
「時間は一つか無限じゃないか」
「無限は限りがないってことだよ」
「限りがないならひとつと同義だ」
「時間を探しに行こうよ」

 三月兎が帽子屋の肩をつかみ、子が母に甘えるように、嬉しそうにほおずりをした。

「何の時間を探しに行くんだ?」
「もちろん三月以外だよ」
「三月が来ない時間を探しに行くのか」
「そうだよ。俺は狂いたくないの」
「今は何月だったっけ? 君が狂ったのは最近? だいぶ前?」
「最近でもあるしだいぶ前でもあるのかな。覚えてないよ、自分のことなんか」
「じゃあ三月が来てもいいじゃないか」
「覚えていたいんだよ、自分のことくらい」
「そう」
「そう」

 帽子屋が立ち上がり、ティーポットごとヤマネを持った。
 三月兎は満足げに頷いて、テーブルのすぐ傍に建っている家に入って行く帽子屋を追う。
 旅立つ準備をするのだ。
 あのばかばかしい女王さま主催のアリス裁判も滞りなく終わったし、三月は近くて遠い。
 三月兎が満足げに帽子屋の背中を見ていたら、なぜか帽子屋が入って行ったそのままに、三月兎を振り返った。
 帽子を目深にかぶっているから表情はわからないが、口があほらしく半開きになっていた。

「まちがえたまちがえた。ここは君の家で、おれの家じゃない。まちがえたまちがえた。ずっと6時だからまちがえた」

 三月兎はなんだそんなこと、と思った。
 小道を右に行くか、左に行くかだけの違いなのだ。
 ずっと6時なのだから茶会は閉会しない。閉会しないのならば家は必要ない。家が必要ないのならば、ここが帽子屋の家でないことなんてどうでもいい。

 三月兎はまたあの可笑しな笑い方でにたりと笑い、帽子屋が手にしているヤマネ入りティーポットを手に持った。

「準備をするのかい?」
「準備をするんだ」
「何を?」
「時計を直すんだよ。だって、二日も狂ってる!」

 三月兎は、可笑しそうな笑顔を引っ込めて、力なく笑った。それを見た帽子屋の顔も曇る。
 帽子屋の時計を壊したのは三月兎だ。あまりにも良いバターだったから時計に塗り込んだ。きっと、そのときにパン屑が入って狂ってしまったのだ。三月兎は、どうしてパンきりナイフなど使ってしまったのだろうかと後悔した。

「責めたかったわけじゃない。さっき怒ったので十分だ」

 帽子屋が口を尖らせる。さっきというのは、あのアリスとかいうひらひらのスカートをはいて、楽しくお茶会に参加してぷりぷり怒っていた人間と行ったお茶会あたりのことだろう。
 時間がわからなくて日にちが分かる時計は、しかし二日も遅れてしまった。

「ひとまず二日後を目指そうか。そうしたら狂ってるのは時計じゃなくなる」

 帽子屋の提案に、三月兎の機嫌も直り、殊勝な様はすぐにいつものにたにた笑いに戻った。それを見た帽子屋も、嬉しそうに口角を上げる。

 ティーポットに頭から突っ込んで眠っていたヤマネが体勢を変えた。
 ティーポットから頭を出したヤマネの目には、幸せそうに身体を寄せ合う二人の姿が映っていた。