鷺とぼくと薄色素
神楽は頭がおかしい。回路がぐにゃぐにゃしていて、途切れたり、何かが急激に流れたり、飛んだり跳ねたりとまったり、頭が正常に働いていない。こんなことをよく言われます。
だけどそれは本当で、おれも自分がわからない。わからなくたって特別困ることはないから、まあどうでもいいかとも思う。どうでもいいことばかりがある。
小さな世界から出られないことも、よく人が死んでしまうことも、誰かが俺を殺そうとしてくることも、その誰かを返り討ちにすることも、動かなくなることも動けなくなることも平気だ。
あまり真剣に物事を考えたことはない。全ては水のようにゆるやかに、風のようにふわふわと流れていく。何も考えずとも、ただ流れに身を任せていれば自然にときは過ぎていった。
その間、おれは道具として使われて、時に体が傷ついたりもしたけれど、ちゃんと目は開き、耳は音を捉えたまま今日まで生きてこられた。
おれは自分に価値がないことを知っている。生意気、陰気、無表情、狂ってる、ネガティブな言葉をもらって生きてきた。我が人生に一片の救いなし。
だけどどうでもいい。考えても、考えなくてもおれの頭がおかしいことは変わらないのだから。
「あああああん! さぎ、鷺さあああああんっ」
鷺の姿を廊下の端に見つけ、僕は臓器の果てから叫んだ。
廊下に屯していた少なくはない数の囚人たちがぎょっとしたように、または憎らしげに振り返った。僕に対しての罵声が飛ぶ。なんという祝福の和音なのだろう。
僕はクソみたいな歓喜の旋律に聴き入りつつ、端っこで呆れた表情を浮かべている鷺のもとに駆けていた。
囚人たちの間をくぐり抜け、愛しい人へと近づいていく。
誰かにぶつかるたび、死ねだとか殺すとか手だとか足が飛んでくるが、交わしたり受けたりしながらうきうきと足を動かす。
小さかった鷺が、だんだん大きくなっていく。僕はまるで雛の成長を見守る親鳥のようにそれを喜んだ。
「ん?」
鷺が育つに連れ、僕の目に何やら幻覚が映り始めた。鷺の隣に何かが見える。なんか全体的に白い。
人型をしているが、幽霊だろうか。そのおばけは、おこがましくも人間様である鷺に話しかけた。死ねばいいのに。あ、幽霊だからもう死んでるか。
人の声がうるさかった。男ばかりが生み出す高音のない汚さは汚物にも勝る。
汚物以下の空間の中、汚物以下の更に下と思われる死んだ少年の声が聞こえた。
「神楽、すごい顔」
死人に口なし無視しよう。変なものが見えるが、それより何より僕の目の前には大好きな大好きな鷺さんがいる。なぜ危険極まりない冬棟にいるのかわからないけれど、会えないと思っていたからすごく嬉しい。
「どうしたんですか鷺さん! こんな危険な所に! 危ない! 危険! ご、ぼ、ぼくで良ければ護衛しますか! いや、させてくださいっ」
「いらねえ。冬に客増えたし、大丈夫」
そこで鷺は黙り込んだ。僕から視線を外し、不機嫌そうに口を引き結んでいる。どうしたのだろうか。心の中のことは僕には聞く権利がないけれど、いつも僕を前にしている時に見せてくれる表情とは違うものだったから気になった。薄色素も何か知っているなら助け舟を出せばいいのに、彼はじっと鷺さんを見つめていた。その瞳にあたたかなものがある気がして殺意が湧く。鷺さんを見られる機会はほぼないが、そんな僕でも二人が日に日に仲良くなっているのがわかる。決して僕には許されない距離に薄色素はいる。
しばらくして、鷺が視線を上げた。彼の赤い目が僕を捉える。それだけで心拍数が跳ね上がる。
「髪、切ってやるよ。すげえ伸びてるって、昨日思ったから」
鷺が言う。僕は、すぐにその言葉の意味が飲み込めなかった。今まで冬棟まで来てくれたことなどなかった。僕の労働の前とか、僕がいつも行く四季棟の食堂に来て、トイレで切ってくれるのが常だった。それだけでも嬉しくて仕方なかったのに、客が増えたとは言え普通ならみな近づきたくない冬棟まで来てくれたなんて。
嬉しい! 嬉しい。うれしい。うれしい? にくらしい。憎らしい。うれしくない。だって、きっと薄色素がいるから来てくれたんだ。すべてわかっているような薄色素の目線から、もしかしたら彼が鷺に提案したのかもしれない。
「……昨日、どこで見たんですか?」
鷺が驚いたように目を瞠る。
「食堂。神楽がちょうど出ていく時に俺入って行ったから」
「そうですか。気づけなくて残念です」
理解できない感情だ。だけど、僕は今鷺に向けて笑っている。うれしい。きっと俺は今嬉しいのだろう。だって鷺はおれに会いに来てくれたんだ。ぼくの髪の毛を切るために来てくれた。
急に腹が痛んだ。久しぶりの痛みは、さっき鷺に会いたくて走った時に誰かに殴られたところだろう。頭がおかしいから痛覚はとうに忘れたはずなのに、なぜ思い出したのかわからないが、もしかしたらの僕の頭はかつてないほどクリアなのかもしれない。嬉しいな。思い込む。思い込むと、本当に嬉しくなってくる。だって、鷺が目の前にいるのだ。嬉しくないはずがない。
「鷺さん! 四季棟のトイレに行きましょう! やっぱり冬は危ないから」
不気味だと思われないように、にっこり笑って鷺の横を通る。奥に向かって歩いていくと四季棟につながる扉につくから。
鷺と薄色素が追いかけて来てくれるのが気配でわかる。
「神楽」
扉をくぐり、四季棟に抜けたところで鷺に呼ばれた。振り返って見ると、鷺は少し困った顔をして僕を見ていた。
「なんですか?」
「昨日、神楽が出てったのがわかったから食堂に入ったわけじゃねえよ。入った時にお前が出てったの見えたんだよ」
避けたわけじゃないと鷺が続けた。僕はなんて言って良いかわからず、足を止めた。僕の横を今度は鷺と薄色素が通り過ぎていく。
「……気にしてませんよ」
半ば無意識に発した自分の声は驚くほど小さい。
急に顔にくっついてきた無表情の仮面を無理やり剥ぎ取って、僕はふたりの後を追った。表情は嬉しそうに、存在は亡霊のように、所在なくついていく。もしも僕が急に足を止め、周りの囚人たちに紛れても、彼らは気づかず先に行ってしまうだろう。周りの囚人たちも、僕が何かをしない限り僕の存在を気にかけたりしない。僕こそが幽霊だ。もういない存在。初めから忘れられた存在。存在を認識される時は悪さをした時で、誰もがおれに消えろと言った。
ふたりの背中を追いながら、前髪に手をやってみる。前髪は目にちょうどかかるくらいまで伸びていた。