絶対零度
「人を殴るんじゃねえよ!」
俺の目の前で北園君が飛んだ。そいつは壁に叩きつけられ跳ね返り地に落ちる。その後動かなくなったから、きっと意識を失ったのだろう。
その様子を見ていた外野が、「蹴るのはいいのか!?」とまっとうな疑問を口にした。
殴るんじゃねえ、と叫びながら人を蹴り倒した男――染井は、突然のことに顔面蒼白で棒立ちしている彼らを睨んだ。
「いいや。暴力は良くねえよ」
染井は凶悪な顔で室内にいる人間らをぐるりと見回した。俺も数えていないが、そう広くはない元資材置き場にざっと15人はいる。みんな見るからにまともな高校生活を送っていないような風貌。制服だってブレザー高の中で一番底辺で悪名高い高校だ。ちなみに染井と俺が通っている高校は学ラン高の中で一番底辺で悪名高い高校だ。どちらも同じだけ腐っているが、共学である彼らの高校の方がおそらく性の乱れ方面では勝っているだろう。
そんなやつらが抑揚のない染井の声色に怯えたのか、それとも染井の強さを知っているのか誰も何も言わず立ち尽くしている。
そんなことをぼうっと考えていると、染井は最大限の渋面を作り、俺を見た。普通にしていたら格好良いけれど、どちらかというと可愛い顔の作りなのに怖い。
「松見、お前何してんの」
「なんだろうなあ」
ぴったりな言葉が見つけられず、ブレザー高の面々を眺める。しかし、みな俺から顔をそらし、まともに視線を合わせてくるものはいなかった。元から味方はいないが、こいつらは敵にもなってくれないらしい。話の糸口を見つけられるような、染井の登場に若干止まりつつある俺の頭を動かしてくれる何かは起こらず、仕方なくなんの計画もなしに口を開く。
「待ち合わせかな? あえて言うなら」
「中町と?」
「そうそう。今お前が蹴り飛ばしたこいつに中町を連れてきてほしいって頼まれたから呼び出したんだよ。中町が来たらすぐ出てくつもりだったんだけどさ、なんか代わりに北園の隣で寝てる奴が来ちゃったんだよね。だからどうしたもんかと思って見てた」
染井の表情がさらに険しい物へと変わる。さっきの渋面だけでも険しさを極めていると思ったのに、険しさに限界はないのか。ただ、険しくとも染井は綺麗だった。整っている奴は得だ。俺も大概モテるけど、染井の自然な格好良さの足元にも及ばない。俺は見た目には結構気を使っていて、モテそうな色に髪を染め、モテそうな服を着、モテそうな表情でモテそうな雰囲気を醸しだして街を歩く。別に彼女がたくさん欲しいとか、そういうわけではないけど、どうせなら格好良いと褒めそやされたほうが自信がつくしいい気分だからだ。
肯定して欲しい。
冷静に自分を分析すると、俺の望みはこれらしかった。
染井は何も言わない。俺も何もいうことがなく、というか怒っている染井を相手にするのが嫌で、彼が来る前にブレザー高の面々に伸された中町くんの代わりに近づく。腹を数発蹴られて沈んだ彼は、明らかにケンカ慣れしていなかった。
「言ってたやついらねえから俺帰るわって、北園に伝えといて」
脱力している男の腕を取り、肩に掛ける。非力な俺には重い。男を床に雑に下ろし、今度は足を持つ。うん。これなら引きずれる。ひとまず良かったと思ったが、室内の空気が息を吸うのも辛いほどに重苦しかった。
いつもの態度を貫いているが、俺は心の底から動揺しているのだ。
俺が引きずろうとしている男がどこの誰かは知らないが、同じ高校ということは制服でわかるから、とりあえず校門にでも置いておこう。
学校までは30分は歩かなければならないから骨が折れるが、逆にそれだけ時間があれば未だに怖い顔で俺を睨んでいる染井を納得させられる言い訳くらいは考えられるかもしれない。
背骨がぼっきり折れちゃいそうなほど重くて痛い視線を背中に受けながら、名前も知らない男を引きずり、もう使われていない廃材置き場から出る。後ろから染井は付いてくる。
外に出た時、秋口だというのにまるで冬のような冷たい風に貫かれた。ぶるりと震える。
「いやあ、寒いねえ。それなのにこんなところまで散歩ですか、先輩」
寒いことで一応世間話から会話に繋げられそうだ。俺の特技は適当なことをしゃべりながら真剣に思考できるところだ。染井の反応を窺おう。
……無視。染井は怖い顔で淡々と俺の後を付いてきていた。何でかは知らないが、染井は本当に怒っているのだろう。これは完璧な言い訳を考えないとだめだ。って、待てよ。寧ろ、言い訳とかいるか? いらないんじゃねえの。
大体、染井は何に対して怒ってる?
中町と仲が良い、だったら彼をはめようとしたというか彼を売ろうとした俺が許せないのはわかる。
「染井って中町と知り合い?」
「違う」
普段はおしゃべりな男の端的な答え。怖え。
しかし、知り合いじゃないなら俺の行為をこいつが怒るのは違う。間違っている。暴力はいけないと言いながら数えきれない奴らを殴って踏んで病院送りにしてきた奴に俺を叱る権利はない。
「なんか、雰囲気に呑まれてたけど俺お前に怒られる筋合いないんですけど」
路地裏に入ったところで俺は担いでいた誰かを捨てた。薄汚い路地裏の塀の上で、猫が蔑むように俺たちを見下ろしている。
それにさえ苛つく。この知らない誰かも気絶しているだけだからじきに起きるだろう。
捨てようと思ったが、治安の悪い町でもさらに悪い地区に捨て置くのも気が咎め、俺の中にある少ない良心に従い染井の目の前で警察を呼ぶ。人が倒れてます。血が出てる。多分殴られたっぽい。健全な青少年の慌てたような声。自分の演技のうまさに惚れ惚れする。どう? すごいでしょ? こう言わんばかりに出来る限りのドヤ顔で染井を見たが、染井は怖い顔のままで、俺は叱られた犬のように一瞬にしてしゅんとした。
警察が来るのか救急車が来るのか他の何が来るのかは知らないが、数分後にこいつは助かるだろう。
電話をポケットに仕舞った俺は、学校に向かうのをやめ細い路地裏へと入った。染井もついてくる。
染井とは半年くらいまえに学校で知り合った。一応学年は染井が一年上だが、俺は気にせず友達として接している。
何度かふたりで話す機会があったのだが、染井と仲良くなりたいと思ったのだ。
先輩後輩関係ではなく、友達になりたいと思った。それを正直に告白したら、染井はあっけないほど快く認めてくれた。しかも、嬉しそうに。
指定暴力高、みたいな変なあだながついている俺達の学校において、染井の地位はすごいものだった。新入生が入学して初めて覚える言葉が下克上なのだが、そんな下克上大好きな俺達の生徒すら下克上を諦めるほどみんなから一目置かれている。2年生の中で同学年はもちろん上級生や下級生からも狙われないのは染井含め2人しかいない。
果ては信者までいる始末。
怖くないのか、と色々な人に訊かれるが、怖いと思ったことはなかった。そう、例えばこうして怒らせない限りは身の危険など露も感じないから。
でも、今感じている恐怖は暴力からは無縁のものだ。
俺が怖いのは、見捨てられること。
染井には持っている情報を使って人を陥れたり売ったりして稼いでいることを話していない。俺は敵が多いから染井も噂を聞いたことはあるだろうが、直接何かを尋ねられたりしたことはなかった。
「なんで怒ってんの?」
さっきから縮まりも離れもしない距離を保ちながらついてくる染井に尋ねる。答えが来るとは思っていなかった。
「わかんねえよ」
しかし、後ろから戸惑ったような声が聞こえ、俺は驚いて足を止めて振り返った。
眉を寄せ、困惑した表情の染井が立っている。
「まあ、松見には俺の驚きはわかんねえだろうな」
「驚き?」
「ああ。今日後輩から、友達を助けるために身代わりになったやつがいるって聞いて、美しい友情を一目見たくてあそこ行ったら、まあ、加害者的な感じでよく知ってるやつがいるんだもんな。びっくりしたよ」
「中町の友達を助けに来たんだ。染井は」
「助けにっつうか。まあ、見物ついでにな。助けるっつったら俺正義の味方みたいに聞こえるけど、そうじゃねえから」
「確かに、あんたは正義の味方じゃねえな」
気まぐれに人を助けることはあるが、染井はどちらかというと仁も義もない。カツアゲ現場を見ても、いじめているやつを下衆、いじめられているやつを弱者と言って切り捨てるタイプ。実際にそう聞いたこともある。
染井はおしゃべりだし人当たりもいいが、人を人と思っていないフシがある。彼にとって人も動物も機械も虫も全てが同等なのだ。興味のあるものは彼の中で価値のあるものだし、興味の無いものは無価値なゴミ。どうでもよく、時に邪魔なもの。
俺が彼に惹かれた理由はわからない。ただ、無性に染井と仲良くなりたいと思った。
その後、染井の中で自分がお気に入りの人間に入っていること、俺の言動で染井が笑ったり困ったりいらついたりするのがいちいち面白くて、嬉しくて、俺はまるで恋をしているように染井の感情を動かしたがった。
だけど、染井を怒らせたり呆れさせたりして見捨てられるのは嫌だ。動物や機械や人間に分類されるのはごめんだ。
俺は彼の中で価値のある「松見」でいたい。
「俺の評判聞いてると思うけど、実際見てどう?」
意を決して訊いた。今まで人に執着することはなく、自分が出す言葉をこれほどまでに悩み、恐れることはなかった。
飄々とした態度は崩さない方がいい。せっかく対等な友人として俺は存在できているのに、言動を間違えればここで差が生じる。
もしかしたら、内心でこんな女々しいことを考えている時点ですでに上下関係は確立され、言うべきことをこんなにも悩み、失敗を恐れている時点で友人関係は破綻しているかもしれない。しかし、偽りの対等関係であっても俺は壊したくないのだ。
「つまんなそうな顔してた」
ふ、と短く笑って染井が予想外のことを言う。
「つまんねえならやるなって思った。悪いことをするなら楽しまねえとやる価値ねえじゃん」
「価値?」
「ああ。楽しくねえなら、まっとうに生きたほうが楽だろ」
やはり、染井の考えはわからない。変わっている。この男に道徳はないのだろうか。
「あんたは楽しんで人殴ってんの?」
「いいや? 別に人殴ったって楽しくねえよ。手はいてえしさ」
「矛盾してる」
「なんだろうな。すっきりしたいからケンカするんだよ、俺は。トイレと一緒。楽しくねえけど出さねえとすっきりしねえし、それに我慢できるもんじゃねえだろ」
染井はなにが嬉しいのか、うん、と大きく頷いた。もう、怒ってないのだろうか。
「すっげえ。俺、今適当に言ったんだけど、まじでぴったりの例えじゃねえ? 我慢できねえし、すっきりするし、生きてくのに必要だし。なあ」
「でもトイレ行っても手は痛くなんねえじゃん」
我ながら気の利かないつまんないつっこみ。
「その代わり便秘が続いて踏ん張りすぎると痔になるっていうじゃねえか。痛いんだろ、痔って」
「俺なったことねえからわかんねえけど、痛いらしいね」
「まあ、どうでもいいか。松見、帰るぞ」
ふっと笑って染井が体を回しきた道を引き返し始める。俺は素直に従った。
路地裏を出ると、ちょうど中町の友達が警官と救急隊員らしき人に保護されているところだった。その様子を見て、警察よりもはじめから救急車の方が良かったかもしれないと思った。普段から警察に捕まらないように気を使っているせいか、警察しか頭になかった。それに彼らは多分、きっと、おそらく正義の味方だし。中町の友達と同じ制服を着ている俺たちに気付いた警察が、何かしらないかなど尋ねてくるが知らないと答えた。
彼の意識が戻ったら俺の名前が出てくると思うが、今ここで自分から事情を話す気はさらさらない。
染井は前を淡々と行っている。いつもの染井のペース。俺より遅い。急いでいるわけではないのに俺はいつも早足になってしまう。染井は普段結構時間に追われてて、そのくせゆっくり歩く。暇なのに速い自分とは真逆だけど、ゆっくり歩く染井のペースが俺はとても好きだった。だけど、今はなんだか気が重い。時間が、染井の歩く速さくらいゆっくりに感じられる。無言のまま、景色だけが変わっていく。
「がっかりした?」
胸に沈殿していく不快で重い靄みたいなものが、俺の思考とは無関係に口から出た。慌てたところで後の祭り、染井がゆっくりと振り向く。こんなことを聞いて失望されたかと思ったが、染井の顔に失望の色は特に浮かんでいないように感じる。
「なんでんなこと聞くんだよ」
もっともなお言葉。いつもの俺らしからぬ問い。
嫌われたくないと今俺は必死だ。嫌われるのはまだ良いかもしれない。興味がなくなったと存在を無視されるよりは余程マシ。
極論だけど、失望されたり嫌われるなら、愛されたほうが良い。ゲイではなく、男となんて嫌悪を覚えるけど、染井なら良い。嫌われたくない。だけど、これを言っていいだろうか。
「考えてるだろ、お前。言うこと」
染井がため息を吐く。
「そりゃね」
「考えるってことは嘘吐くってことだろ」
「嘘は吐こうとしてない」
「2秒以内に質問に答えろよ、じゃなきゃ絶交。俺は決めたらちゃんと実行するからな」
「待ってよ」
慌てて制止。
「待たねえ。いくぞ。なんでがっかりしたなんて聞いたんだよ。はい、いーち、に」
「噂!」
「噂?」
「噂通りのこと、染井の前でしたことなかったから」
「噂ってどんなん? はい、いーち」
「秘密突きつけて脅してるとか、情報売ってるとか、悪巧みとか色々」
「なんで俺の前でしたことなかったの」
わからない。
「はい、いーち」
でも言わなきゃ。
「せこいこと嫌いでしょ」
「嫌われると思ったのかよ?」
「思ったよ」
「それが嫌だったのか」
「い、嫌だって」
「なんで?」
「だって、折角友達になったのに」
「お前、俺のこと怖いだろ」
「こ、」
「はい、いーち」
「怖くないよ」
「嫌われるって怖がってんだろ」
「それは好きだからじゃん。気に入られたいとは思っても、嫌われたいとは思わない」
「お前は友達みんなにそうなのかよ」
「嫌われたくないのなんて染井くらいしかいない」
「俺は特別?」
「特別」
「ああ、そう」
質問はそれっきり飛んでこなかった。そして、いつだかわからないが、俺と染井の足は止まっていた。染井は白いライトが美しい工場をバックにどこか挑戦的に笑っている。それは満足気な表情にもとれた。
そして、俺はおかしな感情に戸惑っていた。
なんでこんなに嫌われたくないんだ?
染井はやると言ったらやる男だ。きっと、さっきも俺が2秒以内に答えなければ絶交していただろう。俺と縁が切れることを仕方がないと思っているのなら泣きたいくらいだけど、染井の反応を見ると、そういうわけでもなさそうだ。俺の希望かもしれないが、染井は俺の本心を聞きたかったのだと思う。
そしてそれは成功した。俺は自分でも把握していないことをしゃべっていた。そして、やはり戸惑っている。
染井は特別なのか。
特別だろう。でも、どうして? どこが特別なんだ? なんで? 人と友達になりたいと思ったのは、確か中学校の初めころが最後。すれてなかった時は、良い奴とか、楽しいやつかもと思ったら仲良くなりたいと思った。今は人を陥れて、さっきの塀の上の猫みたいに見下したりと俺は最低な男に成り下がったが、かつては性善説を信じる純粋なこどもだった。好きな言葉を聞かれて「正義」と答えるあほなガキだった。
心の中の天気はころころ変わり、突然の通り雨も嫌だと思いながら受け入れられていた。
いつからか、風ひとつ吹かなくなった。俺の心には波ひとつ立ちはしない。寧ろ、波は凍りついていた。死んだ世界があった。
染井と出会い、凍りついた波が再び風を受け入れるようになった。そして今。
大嵐だ。俺の心は大荒れで、暴風雨が気持ちをあっちこっち、ぐしゃぐしゃにかき混ぜている。動き出した世界で、今にも死にそうだ。
友達か?
こんなよくわからない、激しい感情を友達に抱くもの?
「また何か考えてるね」
染井が今度はおかしそうに言った。暗がりの中見る染井は闇と同化している。黒い髪、黒い瞳、黒い学生服。そんなに着崩してもいないし、髪だって無造作だ。背は俺と同じくらいで、あまり高くない。くりんとした目とちらりと見える尖った犬歯のせいで笑うと可愛らしくなる。こう考えれば不良には見えないけど、染井は誰から見ても不良だった。そして、フレンドリーなのに恐れられている。染井は特別だ。人とは違う何かを持っている。
俺もそれに惹かれたのか? それとも、染井の中にかつて憧れた正義が見えたのだろうか。
だったら俺は染井が知ったら失望するような、そこらへんのゴミ同様つまらない人間だ。
薄汚い塀の上でつまらなそうに俺たちを見下している、あの猫を思い出した。