続・ひとでなし
ダメになるものか、が初めだった。それがダメかもしれないに変わり、昨日ついに俺はもうダメだ、になってしまった。
閉めきったカーテン。梅雨でもないのにジメッとした部屋。とうに使われなくなった参考書が、部屋の模様のように隅に置かれている。外はからりと晴れているにもかかわらず高湿度を保てているのは、もしかしたら自分が原因かもしれないと智明は思った。
何も映していないような空虚な瞳を湛え、智明はベッドの上で丸くなっていた。昨日の自分に打ちひしがれているのだ。
昨日から自分の顔は見ていないが、おそらく目の下にはゾンビか幽霊のような隈が出来ているだろう。なにせ、昨日から一睡もしていないのだ。睡眠は人よりも多い人生だったことを考えると、一睡もしていないことは天変地異の前触れにも思える。
眠りたい。
眠って、幸せな夢を見たい。
悪夢とは縁がない智明は、寝て夢を見ることが趣味だった。
どうせ外に働きも出ず、家族からはニートと思われているのだ。もうなにかを言ってくるものはいないし、こっそりと金は稼いでいるのだからいつもならなんの後ろめたさもなく眠れる。
寝よう。
昨夜から幾度となく思ったことを、智明は再び思い、実行しようとした。
しかし、どうしても目が閉じられない。
どうしようもないほど眠いのに、目は燃えているのではないかと半ば本気で思うほど熱いのに、寝不足で吐き気さえ催しているのに、三秒以上目を閉じていることが出来ない。
やはりダメだった。
「ちあき」
絶望が智明の中を支配し始めた時、ドアの外から声が掛かった。その声に、智明は弾かれたように起き上がり、声を出そうとしたが上手く出ない。死にかけのゾンビのような、ひどくかすれた音だった。ベッド脇のテーブルに置いていた水で喉を潤し、今度こそ声を出す。
「入っていいよ」
言ってから、今はまずかったかもと後悔したが、言ってしまった言葉を覆すには時間が足らず、ドアノブはすでに回りきっていた。
「大丈夫?」
開けられたドアの隙間から光が差し込む。光とともに入ってきた人物は、いつもの整った表情で心配を口にする。
「昨日から一回も見てないって、ちびっこたちが言ってた」
「平気。それより疲れてるみたいだけど、千尋の方が大丈夫なの?」
智明が問うと、後ろ手にドアを閉めた千尋は、うんざりした様子で首を振りながら智明が座っているベッドにやって来た。
「大丈夫に決まってる」
首を振ってるくせに、千尋はいつものつよがりを言った。彼は、浮かぬ顔をして智明の前に立ち尽くす。
千尋は智明の弟で、冬に大学受験を控えている。場所はまだ決めかねているようだが、大学は遠くに行くらしく、選択肢を広げるため夏あたりから頑張って勉強していた。
春を思うと、智明の心は一気に重くなる。
智明は、もともと人への愛情が薄い。肉親に対しても、血を分けた兄弟に対しても、どんな可愛く綺麗な女の子にさえも心が動かない。しかし、血を分けない弟に対して、自分の持っている愛情が全て注がれている気がしていた。
その弟が春から遠く離れたところに行き、自分の知らぬところでたくさんの人と出会い、初めは寂しがったとしても、そのうちに楽しく生活してしまうのだ。智明のことを、特別感があるから、と言ってただひとり「ちあき」と呼ぶ千尋が遠くへ言ってしまうことなど考えたくもない。もう、死んだほうがマシかもしれない。弟の幸せを純粋な気持ちで願えない自分は、人として終わってる。ゾンビには、どうしたらなれるのだろうか。
「腹減ってないの?」
千尋が尋ねる。
「減ってない」
返した声のトーンが申し訳ないほど暗くなってしまった。
「……昨日の夜から食べてないって聞いたよ」
「水飲んでるし」
「普通、それだけじゃ保たないよ」
千尋がため息を吐き、智明の隣へと腰掛けた。少しでも動けば触れてしまいそうな近さに智明は無意識に眉を寄せた。耐えろ。自分にこう言い聞かせる。
秋も終わりに近づき、だんだんと日が短くなってきた。夕方かと思った途端に夜が顔を覗かせる。しかも、今日に限って夕方はボイコットでもしたのか、カーテンの隙間からはついさっきまで確かに青空が見えていたのに、今はもう薄紫の、暗い空へと変わっている。こういう、夕方とも夜ともつかぬ時間帯を、おそらく黄昏時と言うのだろう。
黄昏はひとを混迷とさせる。気がついた時には弟の肩を抱き、その顔に顔を寄せてしまっていた――という事態も十分考えられるほど、智明は切羽詰まっていた。
弟だ。千尋は、大切な弟。血が繋がっていなくても、自分にとっては大事な大事な家族で、一生守っていかなければならない唯一無二の存在。
智明の予想では、千尋は自分が彼に対して何をしても怒らないし、全て受け入れてしまう。深く傷ついていた幼い千尋に普通の兄弟以上の関わりをしてきたことを智明は自覚しているし、その結果千尋が自分に対して家族以上の感情を抱いているということもわかっている。自分は千尋にとって親以上、恋人以上の存在なのだ。たまに、恋だと勘違いしていそうなフシも見受けられるほどだ。だから千尋は、智明が何をしても受け入れてしまうだろう。
だけど、それではいけない。大切にしてきた千尋だからこそ、自分が道を外させる訳にはいかないから。
「俺は、ほんとは大丈夫じゃない」
千尋がぽつりと呟く。浮かぬ顔のまま、彼は俯いていた。その無表情に、目を閉じていないにもかかわらず、昨日の光景が、一瞬にして鮮やかに蘇った。
昼間の大通り。智明には縁のない、おしゃれな古着屋の前に置かれた一体の精巧なマネキン人形。それが、千尋に似ていた。無表情で、命のない瞳で一点を見つめる姿と自分の綺麗な顔をした弟が重なり、こともあろうか欲情してしまった。その時に、もうダメだと思ったのだ。
いてもたってもいられず、智明は再びベッド横の水に手を伸ばした。冷たい水が、頭も冷やしてくれた。
「千尋、なんでも――」
「大丈夫じゃないから、ちょっとここで寝てっていい?」
千尋は、智明の言葉を打ち消すかのように早口で言い、智明を見上げた。その瞳は昨日の命のない底なし沼のような暗いものではなく、暗がりの中でもちゃんと輝いている。
「大丈夫でも、寝てっていいよ」
千尋の態度に、智明はおかしさを感じたが、寝ていってもいいと言った時の千尋のほっとした表情に、智明はそれ以上なにも言えなくなった。
「兄ちゃんの布団気持ちいいから、ここで寝たらまた頑張れると思う」
顔を綻ばせながら、千尋が智明のベッドに潜り込む。千尋の冷たい手が、布団の上に置かれた智明の左手に触れた。
いつまでも甘えの抜けない弟の行動が、智明には愛おしくもあり、残酷でもあった。
「こういうの、ブラコンって言うんだよ」
言いながら触れられた手を握ると、千尋は「知ってる」と嬉しそうに笑った。
握った手に思うのは、できることなら、この手を一生離したくないということ。
いつまでも、どんな時も千尋の味方で在り続けたいから、智明は何があっても良い兄でいたいと思っている。どんなことだって、千尋のためならできる。たとえ、ひとでなしと罵られても。
だけど、もしも千尋が智明に対して抱く感情を勘違いしたまま、間違って告白してきたら――
(絶対、断りきれない……)
早くも眠りに落ちた弟の、さっきとは正反対の幸せそうな顔を見ながら、智明は自分の情けなさを嘆いた。
勘違いの告白なんて、あるはずないけれど。