続続ひとでなし
千尋はひどい吐き気に襲われていた。バイトがあるからといつも断っていたゼミの飲み会につれてこられた上、酒をガブガブ飲まされた。チェーン店の、詐欺かと思うくらい薄められた酒なら良かったが、よりにもよって酒にこだわる頑固親父がやっている町の居酒屋。親父と仲が良いというコミュ力の鬼の力を借りて、千尋たちのテーブルにはおおよそ大学生らしくないコアな酒がずらりと並んでいた。テーブルの脇には空き瓶が列をなして立たされている。
かつてないほどアルコールを摂取した千尋は、馬鹿騒ぎをするゼミ仲間のたちが生み出す騒音を聞きながら、座敷の隅で仰向けになり酔いが治まるのを待っていた。
しかし、彼らの立てる音がいちいち頭に触り痛みを引き起こすし、眠れず寝返りを打とうとすると途端に嘔気に襲われる。
「那瀬くん大丈夫?」と、自意識過剰でないならば媚びたような女の子の声に、顔を覆う手はそのままにひとつ頷くことで返事をする。この声、誰だっけ。
ゼミにはちゃんと顔を出している。でも俺、本当にゼミに入ってたっけ。そもそも大学に通っているのもなんだか現実のような気がしない。誘われて飲み会に参加するタイプでもないし。人と仲良くなりたい欲求も皆無だし、そのせいで友達もほぼいないけど困ったこともない。
だって――
「兄ちゃん……」
ズキンと頭が痛んだ。気付いてしまえば痛みは継続的でなぜ今まで気づかなかったのか不思議だ。
顔を始め、手、腕、足、首、全てが心臓に成り代わったようにドクンドクンと脈打っている。
うっすらと目を開ける。光の眩しさに目をやられ、また暗闇を求めた。心なしか目を閉じている方が頭痛も軽減する気がする。
ポスポスと床に手を這わせ目的のものを探す。腰の横で硬いものに触った。ゆっくりと体を壁側に向け、電話を掴んで目を開く。体勢を変えたことで先程の眩しさはすこしだけ薄れた。声を出す元気はなく、4回ほど画面に触れてすぐにまた目を閉じた。安心したのだろうか。気づけば千尋に意識はなかった。
睡眠は不思議なものだ。
思考もできず、夢を見ていないならば完全なる無の状態。もちろん時間の経過もわからないから、睡眠はきっと死んでいる状態と同じ。
「――ひろ、ちひろ」
「那瀬くーん」
ぽんぽんと肩を叩かれて、千尋は覚醒した。ズキズキと頭が痛む。
「いたい……」
気分が悪いしこめかみあたりがひどく痛む。光の攻撃を受けながらなんとか目を開けて、声がした方向に顔を向ければ、待ち望んでいた姿があった。
色素の薄いさらさらした髪は、熱気がこもる店内の光で更に美しく輝いている。地味な眼鏡の奥には心配そうに千尋を見つめる鼈甲色をした瞳。
笑う姿も大好きだけれど、このように憂いを帯びた表情は整った顔立ちの兄――智明に似合っている。
会いたかった人のきれいな顔が見られたことが嬉しく、千尋は満足感から無意識に微笑んだ。
そのささやかな笑みはどこか艶を帯びており、興味深げに千尋と智明を取り囲んでいた仲間たちの目を奪った。
しかし、千尋の笑みを見慣れている智明は、そんな千尋を見て呆れたような溜め息を漏らした。
「ちいちゃ……千尋、吐き気は? ないならほら、立ってさっさと帰るよ。弱いんだから外で飲むなっていつも言ってるじゃないか」
程よく引き締まった腕が千尋へ伸びる。
「うん……かえる」
頭は痛むし、光は眩しいし、意識もはっきりとはしていなかったが、千尋は自分を抱き起こそうとする手に従った。
「千尋、お金は?」
「前払い……」
「そう」
千尋はなんとか立ち上がったが、足に力が入らず、抱きかかえられているのを良いことにほぼ全体重を智明に預けた。ゼミの仲間たちに智明が何かを言っている。謝っているのかな、と全く働かない頭で考えた。
その後靴を履かせてもらい、歩くのも手伝ってもらってなんとか外に出る。春の冷たい夜風に吹かれ、わずかに意識がはっきりする。
はっとした時には、千尋はすでに智明の運転する車の助手席に座っていた。
「起きた?」
「うん……」
「気持ち悪い?」
「……頭痛い。でも、吐きそうではない」
「そっか」
運転する智明を見れば、彼はじっと前を向いて真剣にハンドルを握っている。特に怒っているわけではなさそうだ。
「断れなかったんだよ」
智明に何かを言われたわけではないが、なんとなくバツが悪く、千尋は言い訳を口にしていた。
「俺は、遊びに行くのは悪くないと思うよ。寧ろ、ちいちゃんは遊ばなすぎる」
「だって、遊びたくないから」
ムッとして智明を睨む。見えていないはずなのに、智明は苦笑を漏らした。
「遊びなよ。俺は楽しい大学生活を送ってほしいんだよ」
「何が楽しいかは俺が決める」
千尋は苛立ちを隠さずにはっきりと告げて、前を向いた。
智明はわかっていない。千尋は心のなかで智明に思い切り罵倒の言葉を浴びせた。実家から離れた大学に受かり、智明も一緒に暮らすことになった時、どれほど嬉しかったか。長年胸に秘めた想いを受け入れてもらった時なんか、死にたくないのに、幸せすぎて死ぬかと思ったほどだ。
いつも一緒にいたいと思うのは普通のことではないのか。智明は自分と一緒にいたくないのか。
ノンケの智明のために始めた女装には磨きがかかり、そこらの女の子より可愛いと自負している。それなのに、女装をして智明のベッドにもぐりこむ千尋を彼はいつも温かい目で見つめ、今日も可愛いね、と言うだけなのだ。千尋は智明のことが大好きなのに、全く性的な目で見てくれない。
(舞い上がってて気付いてなかったけど、好きなのって俺だけなのかも……)
前方の信号が赤になり、千尋たちの乗った車はゆっくりと停止した。
「ちいちゃん、何考えてるの?」
「大事なことだよ」
「大事なこと?」
「大事なことだから秘密」
「ちいちゃん」
「何」
千尋はいらいらしていた。酒を飲んでいつもより感情の抑えがきかなくなっていたし、日頃の智明に対する鬱憤も溜まっていたから。
だからその感情のままに睨みを効かせ、智明に顔を向けた。智明がシートベルトを緩め、助手席に体を倒す。
「……ちあき?」
訝しがる千尋に、智明は軽い口付けを落とし、素早く体勢を整えた。信号機が青に変わり、二人を乗せた車は何事もなかったかのように夜の町を走り出す。
「千尋の顔、信号みたい。もう青になったのに」
智明が笑う。暗に、顔が赤いと言いたいのだろう。恥ずかしさと嬉しさ、あとは考えを見透かされた悔しさなど、様々な感情が入り交じる。
(キスされた。智明から、キスしてくれた!)
直前まで憎らしく思っていたのに、悔しいから今でも腹を立てたままでいたいのに、こんなことをされたら好きな気持ちが他の感情を全て握りつぶしてしまう。
「兄ちゃんずるい」
「何が?」
「俺のこと、弄んで」
「……俺に一生懸命な千尋が可愛いんだよ」
「ひどい」
千尋の酔っ払った頭では、智明の言わんとしていることが正しく理解できない。
「他の誰と遊んでも、必ず帰ってくる。ちいちゃんはブラコンだからね」
「ブラコンじゃない」
また腹が立った。
「良いじゃん。俺は弟の千尋を愛しちゃったんだよ。あらゆる意味で」
「あ、愛って……」
「家族で恋人って最高だよね」
智明の弾んだ声に、一体どんな顔をして言っているのだろうか気になり、千尋は赤い頬を抑えながら智明の横顔を盗み見た。
水を差すことが罪だと思えるくらい満ち足りた表情だった。
千尋が智明に対する恋心を自覚したのは中学生の頃だ。きれいな兄、優しい兄にずっと心を奪われてきた。夢はもちろん智明と恋人同士になること。兄弟のまま終わるのは絶対に嫌だった。中学生の頃、智明を兄だと思うのは止めた。
そのほうが、わずかでも付き合える可能性が高くなる気がしたから。でも――
「……最高かもね」
恋人だと思ってくれるのなら、弟でもいいか。
生涯ただひとりの大好きな人。愛する兄。
千尋が持ちうる愛情全ては智明に向かっている。