不幸自慢
俺には味方が必要だった。
それだけでよかった。それ以外は必要ない。たったひとりでよかった。
我慢がはちきれて、どうしようもなく、原因など思考の外で、ただ「悲しい」という感情ひとつで泣く俺のそばで寄り添ってくれる人がほしかった。泣けることはないのだが。
物心ついた時から泣いたことなどない。泣くのは本当にどうしようもなくなったときと決めて耐えて耐えているうちに、泣く技術がすっかり廃れてしまい、涙なんて欠伸の付属物でしかなくなった。
みんないなくなった。父が死に、母は違う世界に行ってしまった。結局一人になったが、疑問が一つ。俺はいつからひとりなのだろうか。ずっとだろうか。
絶対の信頼を寄せていた人が実はとても弱く、頼りにしていた人に頼りにされた俺はぼろぼろだった。
頑張った。俺はじゅうぶん頑張った。
岬に立ち、下をのぞき見る。荒々しい波しぶきが立っている。飛び込んだらすぐにでも呑まれてしまいそうだ。
じりじりと先までにじり寄り、慎重に腰を下ろす。海に足を投げ出すようにして座る。
ぽんと背を押されたら途端に海の中。
自分で飛び降りはしない。
けれど、死ぬのを望んでいる。今誰かに背を押されたら俺はそいつを恨む。よくも殺してくれたなと、恨みながら感謝する。
「死ぬの?」
妄想を繰り広げていると、後ろからどうでもよさそうな声がかかった。
「殺してくれるなら」
振り向きもせず返事を返す。
「いやだよ。万が一捕まったら俺、檻にいれられるもの」
「そう。残念」
また振り向かずに答える。波の音が大きく、俺の声が届いたかはわからない。届かなくてもいい。
しばらく曇天の下、海を眺め続ける。
何も考えず時間を食いつぶす。
最大の贅沢は時間の浪費。時間だけは金で買えないから。買えたとしても長くて数十年。笑ってしまうほど短い。
金も家族も友も何もない俺が最大の贅沢をしている。
誰に対してでもなく、悲しい優越感に浸る。
「ねえ、いつまでいるの?」
またもどうでもよさそうな声が後ろから届いた。まだいたのかと振り返る。
そうしたら、若々しい学生のような声に反して、よれたスーツを着たサラリーマンと思しき青年が立っていた。
「あ。やっとこっち向いた」
青年が目を三日月形に細め、走り寄ってくる。俺には出せない、働く者だけに許された革靴の硬質な音が耳障りで、眉根が寄る。
「何? 機嫌悪いね」
まるで旧友のように話しかけてくる青年に無視を決め込む。
そんなことは意に介さず、彼は図々しく俺の隣に腰を下ろした。小さい岬のため不快なほど距離が近い。
前かがみ気味の俺に対して、青年はリラックスした様子でふんぞりかえっている。
「ああ、気持ちいいね。風と波の音! 重苦しく曇ってるけど」と青年は晴れやかな笑みを浮かべた。
「君、ここら辺の人?」
「違う」
「観光?」
「違う」
「死出の旅?」
「まだ生きてる」
質問に短く答える。そのあとも青年は愛想のない俺に次々に質問を投げかけた。
「今日の夜はどうすんの?」
「どうもしない」
「泊まる所はあるの?」
「ここ」
「捕まっちゃうよ」
「別に良い」
「俺んち来る?」
「いい」
「来る!? 決定だよね」
「行かない」
愛想も申し訳なさもなく断った俺だが、気付けば青年の家だというさっきの岬が見えるぼろいアパートにいた。
そして、ちゃっかり風呂に入り、ちゃっかり飯を食い、ちゃっかり晩酌なんてものをしている。
「寝るのは一緒で良いよね。想像通りだとおもうけど、布団一組しかないんだ」
「……」
「あっても敷けないしね」
「……」
俺は為されるがまま促されるがまま青年と同衾するはめになり、意外と良いにおいのする青年の抱き枕と化した。
状況に付いていけていなかったが、そもそも付いていこうとしていないのだからいいだろう。
目を開けて部屋を見る。後ろから羽交い締めにされる形になっていたから、視界は自由だ。
部屋は全て電気を消しても月明かりによって青に支配されている。夜が黒というのは嘘だったのかと思った。
月には兎がいて、餅をついているんだ。
そう教えてくれたのは誰だったか。母か、父か、はたまた知らないおじさんか。
これだけ明るい月は今までに見たことがなく、本物を視認したくなった。
腹の前に回された青年の手を指一本一本丁寧に解いていく。
すっかり寝入ってしまったらしい青年は少し息を漏らしたが、起きることは無かった。
布団の端を踏みながら、玄関とは反対方向に狭い部屋を横断する。カーテンを開ける音は自己主張が強いため、潜ることにする。
「……丸い」
窓越しに見た月はまん丸で、いつも見ているよりも丸く、白く、そして大きく見えた。
手を伸ばせば届く気がしたが、ここはアパートだから届かない。
届くとしたら、海だ。
俺は踵を返し、玄関に向かった。その時に布団ではなく青年の髪の毛を踏んでしまってどきりとしたが、それでも青年は起きない。死んだかと思ったが、寝返りをうったので生きている。
はきつぶした汚いスニーカーを履き、静かに鍵を開ける。
ひんやりとしたドアノブを静かに回し身体が通れるだけのドアを開けするりと外に出ると、さらに冷えた風が俺の身体を貫いた。
寒さに身をすくめる。
暖かい布団が恋しくなり、自嘲する。
さっきまで死にたがっていたのに、暖かさをほしがるなんて。
しかし、果たして俺は死にたかったのだろうか。
死んでも良いと思っていたのは確かだ。
しかし、世に憂えて人生を儚んで死を願っていたのでは、多分無い。
俺は面倒くさいのだ。
国民の義務、権利、生きるための準備。
今のご時世何をするのにも金が掛かる。
死ぬのにだって金が掛かる。
もしも全てのしがらみを無かったことにして、税金を納める義務を取っ払い、自分で生きるだけの食料を栽培し自給自足の生活が認められるのなら、俺は死にたいなんて思わない。
太陽とともに起き、日没とともに寝る。
生きるために生きる。
しかし、この世は権利に義務に人のしがらみ、常識が多すぎる。
社会連帯等という理念のために、税金を払わねばならないのだ。
何が言いたいかと言うと、働かなければならない。
そう考えたとき、死にたくなるほど面倒くさかった。人は最後に死を決断するとき、もしかしたら悲しみより何より面倒くさいからなのかもしれない。
俺を頼るやつがいる。変わってしまった母がいる。がんばってがんばってこの5年間朝も夜もなしに働き続け、それ以外は母の世界をのぞき込み、その住人になる。母はもう息子のことなどわからないのに、それでも母の側にいることが俺の義務なのだと、母を看て金をもらっているやつらは言った。
「いっしょにがんばっていきましょうね」などと、貼付けたような笑みで言った。
5年だ。
なんだそれくらいと笑われるかもしれないが、俺にとって5年は長かった。
だから逃げた。ありったけの金を母の病室に残し、住んでいた所を引き払い仕事も辞め電話も全て解約し、わずかの金を握りしめ普通と書かれた電車に乗った。
何よりも、俺は味方が欲しかったのだ。義務的に共感されたってうれしくも何ともない。
たった一人。たった一人でいいから絶対的な味方が欲しかった。
鉄筋のアパートは、俺が階段を下りるたびにカンカンと金属質な音を響かせる。
足音を立てぬよう静かにしているつもりが、カンカンカンカン鳴り響く。
やっと降りきり、青年がおきてしまってやいないかと青年の部屋を見上げたが変化はない。
働き者を起こすのは働かざるものの罪である。
俺は岬に続く石段を下り、白い息を吐きながらさっきと同じように岬に腰掛けた。
月は二つあった。
空に浮かぶ月と、海に浮かぶ月。海に浮かぶ月は波に揺れゆらゆらしている。
「月見する?」
しばらくして、すっかり月に見入っている俺に後ろからどうでもよさそうな声がかかった。
振り向くと、若干眠そうな青年が、早くも寝癖をつけて笑っている。
「起こした。ごめん」
「いやあ、いいのいいの。起きたらあんたいなくて焦って出て来た。いたから起きたのは……って俺何言ってんの? 眠いの。ごめんねー」
青年はそう言って、健康サンダルのままさっきのように俺の隣に腰掛けた。
肩と肩が当たっているが、そういえばもう同じ布団に入ってしまったのだ。
「満月かねえ」
青年が俺の隣であくびをする。
「綺麗だねえ」
そうして、ふんわりと微笑んだ。よれたスーツをきていない青年はまだ20そこそこに見える。
「あんたはほいほい知らないやつを部屋にいれるのか」
この男に警戒心はないのだろうかと不思議に思い、青年に尋ねる。
「いいや、君でふたりめ。狭いし、狭いとこに二人きりなんて気まずいし気遣うし良いこと無いもんねえ」
「じゃあなんで」
そう言うと、青年は白い満月を三日月に細めた目で見て、少し寂しそうに語り始めた。
「今日ずっと好きだった人に振られちゃってさ。もう家族も友達も恋人までいなくなっちゃって、俺一人だなあって。
そんなとき思い詰めたような顔して死んじゃいそうな人がいたら『運命だ!』って思うよね。声かけるよね」
「かけるかな」
「俺、その人に依存してたからさ、言うなら電池を抜かれたロボット? もう動けないの。けど、死のうとかは思ってなくて、そんな中死にそうな人いたからさ、あ、この人おれよりつらそう! じゃあ弱ってる所に付け込んじゃおうって感じで」
「そうか」
俺は軽い口調の、瞳だけで寂しさを語る青年から海へと視線を移した。
隣で青年も海に目をやったのを感じる。
「何あったかわかんないけどさあ」
青年が真っ直ぐ前を見ながら口を開いた。初めて会ったときから一貫して軽そうなふわふわとした調子だ。
真意を図ることはひどく難しいが、この調子は嫌いではないと思った。
「傷をなめ合って、とかよく見下す人とかいるけどさあ……」
青年が月から俺に視線をやったのを感じ、すこしだけ顔を傾けてちらりと青年を伺い見る。
まっすぐに視線を合わせないのは羞恥心のためだ。真っ直ぐにひとに見られたこと等ないし、居たたまれなさしか覚えないだろうと予測することが可能だ。
青年は三日月の目で俺を見ているが、やはり瞳は寂しいと訴えかけている気がする。どうしてそう思うかと言うと、5年間ずっと見続けて来た鏡の中の自分と同じ目をしているからだ。
「傷ついてるんなら、一緒にいようよ」
青年が変わらぬ調子で、しかし俺に縋るように言った。
頼られているわけではない。青年は純粋に恋人がいなくなってぽっかりとあいた穴を俺で埋めようとしているのだ。きっと、いるだけで良い。俺がいて青年の傍で心臓を動かしているだけで青年の穴は埋まる。落とし穴のように脆いが、形だけは埋まるのだ。
「俺は、逃げて来た」
「だろうねえ」
「逃げるということは捕まるかもしれない」
「そうだねえ」
追っ手は、責任感、良心の呵責。
罪悪感に苛まれ精神的に逃げられなくなったら俺はおそらく母の元へと戻るだろう。
まるで夢の世界の住人になってしまった母の元へ戻り、生を嘆きながら忙しさに心を亡くすのだ。
「逃げるのが本当に正しいのかわからない。数十年後、後悔の念に耐えきれなくなるかもしれない」
「そうなったら支えたいな」
「……随分適当に言うな」
「適当じゃないよ。俺、君が裏切らない限り裏切らないし。これ、自信あるんだ」
「信頼関係がまだないのに裏切る裏切らないの段階じゃないじゃないか」
「俺、利己的だからね、独りになりたくないから君をずっと手元においておきたいの。君、ひとりぼっちでしょ。さっき親戚とか知り合いとも全員疎遠になったって言ってたし」
「ああ」
「ひとりぼっちの人なんてそうそう見あたらないよ。俺もひとりぼっち。ぼっち同士うまく行くと思わない? 独りの寂しさを知っている人には、繋がりを無くす勇気なんてないよ、きっと」
だから俺と君はずっといっしょにいれるんだ――そう言って青年が朗らかに笑った。
月は俺たちが話している間も当たり前のようにあたりを明るく照らしている。岬に座っているため、前を向くと視界には月と海しか入らない。じっと見つめていると、世界は海と月だけで構成されている――そんな気分にさえなって来る。
あと数時間もすれば月は別の場所を照らし、当然のように太陽が空に浮かぶ。
それは太陽が消滅するまで変わらない。もしも今ここで俺が海に飛び込んで死んだとしても悲しむのはきっとここにいる青年ただ一人で、この青年だって何年かすれば、目の前で死んだ男が一人いたな、ひどく嫌なものを見た――くらいにしか思わなくなるだろう。
過去はどんどん消えていくのだ。
逆に時間は永遠を刻む。
もう、どうでも良いと思った。
これまでの我慢比べのような人生も、百年も経たないうちに俺の戸籍だけを残して消え失せる。母も俺を頼ったやつも医者も看護師も元職場の上司も同僚も近所に住んでたおばさんもおじさんも学校の先生も隣の青年だって、あと数十年で死んでしまうのだ。
「当分、食費くらいしか払えそうにない」
青年に向かってぽつりとそういうと、青年が一瞬だけ驚いたような顔をした後、すこし眉が寄り、頬が緩み、情けない泣き笑いの表情が出来上がった。
その様子を見て、なぜか目に水分が生まれたような気がしてよくわからない気分になった俺は、俺を責めるように煌煌と輝く月を眺めながら、明日この町で仕事を探そうと思った。