早寝記録

あわ

 手のひらに石鹸をとる。少し水をつけて、泡立てる。
 ごしごしと手をこすり続けると、やがて泡はなくなり、べたついた感触だけが残る。水をつけても、もう泡は立たない。
 当時はまだ小さくて、体の仕組みを何一つ知ってはいなかった。息を吸って吐き出すだけで、生きていけると思っていた。
 泡は、体の中に完全に取り込まれたのだ。
 石鹸はきれいだ。
 石鹸は泡となって俺の体の中に永遠に残る。
 俺は綺麗だ。

 中学時代は散々だった。
 俺はひとりをのぞいて独りだった。
 きっかけは何も特別なことではない。告白されたのだ。愛の告白を。
 それがかわいい子だったらしく、どこから漏れたのかすぐにクラス中に知れ渡った。別にそれはどうでも良かった。俺はただ、バカ正直に答えただけだ。振った理由を。
「汚いから」
 そう答えた瞬間クラスが凍り付いた。言い方がまずかったな、と思ったときにはもう後の祭りだ。非難囂々とはああいうことを言うのだろう。
 今でも鮮明に覚えていて、この経験を教訓として俺は馬鹿正直に答えることをやめた。
 俺は綺麗なんだ。中が、綺麗なんだ。
 だから中を汚すようなことはしちゃいけないし、リスク要因を作ってもいけない。
 そんなことをしたら、泡が消えてしまうかもしれない。
 俺は綺麗だ。

 何年か生き続け、俺は頻繁に似たような夢を見るようになった。
 夢の中の俺はすでに人間の形をしていない。人の感情を持った石鹸だ。
 だから俺は拒否をする。誰にも手も体も洗わせるものか。
 そうしているうちに俺は無用の長物となり、誰からも見向きされなくなった。
 石鹸の役目を果たさない石鹸など石鹸ではないのだ。
 人ならば、なんの役にも立たないゴミのようなやつにでも生きる権利がみとめられているのに。
 理不尽だが仕方が無い。俺は綺麗なまま死ぬのだ。
 捨てられて、ゴミにまみれて、焼かれて、跡形も無くなる。
 俺はそれでいいと思う。ゴミにまみれても中は綺麗だ。
 俺は綺麗だ。

 ある日俺はたったひとりで俺のそばにいる、影のようなやつに尋ねた。
「俺は、消えた方がいいのか」
 影は答えなかった。影ならば正直に答えてくれると思った。
 影は何年も変わらない、人の良さそうな美しい顔で微笑み、俺の手を取った。
「俺は、綺麗なんだ」
「知ってるよ」
 俺は、今まで誰にも言ったことがないことを、影に言うつもりだった。
 それなのに影は俺に何も言わせなかった。
 知ってるよ、と繰り返し、ただ微笑むだけだった。
 俺はその様子をまるで他人事のように見ていた。俺の目には影が映っている。影が笑っているところが映っている。
 きれいだな、と思った。

 その時、俺はことあるごとに自らに言い聞かせていた「俺は綺麗だ」という言葉が、全く意味を成さないものだということに気が付いた。
「俺は綺麗だ」
 これはただの音でしかなかったのだ。俺のなかには石鹸なんてもうありはしない。俺の体の中に石鹸なんではじめからとりこまれてなどいなかった。
 卑屈、暗い、つまらない、かわいくない、ひねくれている、根暗、変人。たくさんの侮蔑の言葉が幾人もの声となり頭の中に直に聞こえてきた。
 幻聴? 違う。かつて俺が腐るほど言われてきた記憶だ。腐るほどいわれた結果俺は見事に腐ったのだ。
 俺を見下し、蔑み続けた連中は、そんなことを幼き日の1コマとして忘れているかもしれないが、俺の人生は途切れることなく続いている。
 そして、こんなにも鮮明に当時の声がそのままの音となり脳に記憶されているのだ。

 俺がどうしようもない過去に戦慄いている間も、影は変わらず俺の手をとったままなだめるように肯定の言葉を俺に与え続けている。
 その度に、脳内にさんざめく罵倒の声が、まるで洗い流されるように泡となってはじけて消える。
 俺の中には、石鹸があるはずだった。俺の身体の中に取り込まれた石鹸が泡となってあり続け、俺の肉体が灰になるその瞬間まで俺を綺麗にし続けてくれるはずだった。
 俺は汚い。本物の石鹸どころか、罵倒を泡にするだけの石鹸がない。
「俺は……汚い」呟く。俺の目には、綺麗な影の手が見えている。綺麗な影の手が、汚い俺の手を浄化するように包んでいる。途端、そこだけが燃えるような熱を帯びた気がした。
「君は綺麗だ」
 俺の独り言を受けて、影が言う。しっかりとした声だった。
 影はそれからも大丈夫だと繰り返し、俺の腐った部分を全部泡にするまで俺を肯定し続けた。
 俺は、そのあとで合点した。
 影の泡を具現化すると、石鹸になるのだということを。