早寝記録

最果て説

 世界に果てがあった。
 ある日、こんな出来事が紙面を飾った。

「先生、本当だと思いますか」

 先生に向けて問いかける。

「どうでしょうねえ」

 先生は、ふんわりと笑みを浮かべながら相槌を打つが、僕の話にではなくて目の前の原稿用紙に集中しているようだった。
 しかし、世界に果てがあったなんて新事実に世界が沸き立っているらしい。僕は、先生とこの喜びを分かち合いたかった。
 だから、ついつい鼻息が荒くなる。

「僕は、かの国が世界に向けて力を誇示するためのでまかせだと思うんです」
「どうしてそう思うんです」
「だって、僕、世界は丸くてふたつある説を信じてましたから」

 僕がそういうと、先生がやっと原稿から目を離し、僕を見た。

「ふたつあるのはお月様ですよ」
「お月様も二つあるのなら、この世界もふたつあっておかしくないです」
「そうですねえ」

 先生は、とぼけた様子で、「今日はひさしぶりにお月見でもしましょうかねえ」と提案した。

「高杉君」
「はい」
「お団子、夜に作ってもらえますか?」
「もちろんです」

 先生は本当に世界に果てがあることになんて興味がないようだった。
 そんな先生を見て、僕の高鳴っていた心が急速にしぼんで行く。
 先生が、また原稿に取りかかる。僕は、先生の隣に腰を下ろし、最果ての地に思いを馳せる。
 報道では、最果ての地には闇をも凌賀する黒があったと言っていた。崖でもなく空でもなく、光でもなく、最果ての地は漆黒だったのだ。写真機でその姿を映しても、そこには黒が広がるだけで、衛生機で映像を飛ばそうとしても、映像機が壊れてしまうらしい。
 最果ては映らない。だから、僕はかの国の嘘なのではないかと思ったが、紙面を踊る文字が生々しく生き生きとしていて、とても嘘八百とは思えないのも事実だ。
 きっと、最果てはまっくろなのだ。丸くもなく、希望もない。

 先生の書いている原稿に意識を移す。最果てはまっくろだということで結論が出たから、それはもう終わりだ。
 先生の書いている小説はまだ書き始めらしく、いつものような陰鬱な文章が並んでいる。
 先生はおっとりとしていて平和を好むくせに、彼の書く小説だけは黒い。闇をも凌賀するほどの暗さだ。まるで、最果て。
 それなのに意外と売れているようだから、世の中分からないものだ。
 そのとき、僕は成る程、と思った。希望がないから鬱々とした先生の小説が受け入れられるのだ。人々はこんな暗い小説ありえない、と笑いながら読むことで、自分たちの生きる世界の暗さから意識をそらす。

 世界が丸い説には希望がある。果てがないということは、世界が繋がっているということだから。世界が繋がっているということは、世界は一つになれるということ。
  逆に、今回の最果て説は、希望がない。世界は断絶されている。西と東は繋がらず、北と南も繋がらない。僕らがいるとされている東側には東側だけの結束力が あり、その他も同じだ。しかも、世界を相手にする時はまとまるが、そうでない時は、東側の中で絶えずいざこざがある。東側のどの国も、自分たちで東側を制 したいのだ。
 欲望は醜い。醜い僕らが生きる世界だから、きっと大昔は世界が丸かったのに、いつからか果てができたのだ。きっとそう。
 しかも、丸い世界は二つあって、果てが出来る時にそれらが繋がった。一つ目の世界が西と東で、二つ目の世界が北と南。真ん中の世界は、もともとはなかったのだ。
 僕は満足した。
 これならばずっと信じて来た世界が丸い説と、今明るみになった世界に果てがある説両方が繋がる。
 僕は満足した。

 先生から離れ、丸窓から外を見る。
 覗いたとき、目が痛むほどの光を受けた。
 そうか、今はまだ早朝だった。

 早朝は、日で一番太陽が強い時だ。

 空には、僕の考えを肯定してくれるような眩しい太陽が、ふたつ仲良く並んでいた。





 先生の職業は物書きだ。
 そして、僕は先生の身の回りのお世話をする。
 先生はほうっておくと何もせず、寝食を忘れて物書きに没頭するから、僕は先生に睡眠を促したり、食事を運んだりする。
 僕は、先生のお母さんになったようで、この生活を気に入っていた。

 夜に食事を持って行ったとき、完全に先生の手は止まっていた。指で顎を挟み、思案に耽っているようだ。
 邪魔をしちゃいけないと思い、何も言わずに月明かりに照らされた机へと近づく。そのとき、屑入れに、何枚もの紙がぐしゃぐしゃに丸められて捨てられているのが見えた。
 机の上には、一枚の紙しかなく、しかも白紙だ。

「……何を書きたいか……」

 先生が小さく呟く。

「……何を書きたいか、ですか」
「あ、高杉君」

 先生が僕に気がついた。机の隅に、お膳を置く。

「ありがとう」

 先生が原稿を畳の上に下げ、お膳を自分の前にずらした。そして、斜め後ろに立っている僕を見上げた。

「高杉君も、ここで食べませんか」
「あ、あの、いいんですか」
「ええ。一緒に食べましょう」
「はい、僕、持ってきます」

 先生の提案に喜んで乗る。つい語気が強まった。
 僕は廊下を走り、風の早さで自分のお膳を用意し、先生の元へと戻る。
 廊下に明かりはないが、先生も明かりをつけないで原稿をするほど、今夜は月の光が明るいのだ。
 何せ、今日は月が二つ出る日だから。

「おまたせしました」
「早かったね」

 先生は、部屋の中央に、机と座布団を用意してくれていた。心遣いが嬉しい。
 先生の向かい側に自分のお膳を置く。そして、先生といっしょにいただきますをした。
 食事の最中は、静かなものだった。食器のこすれる音以外、何の音もない。
 だけど、僕は先生と食べているという事実だけで満足していた。いつもの何倍もおいしく感じられる。

「高杉君。私は……一応、己のことを物書きの端くれだと思っているのです」
「はい」

 僕が食べ終わった頃、先に食べ終え窓の外を眺めていた先生がおもむろに語りかけて来た。

「しかし、どうして私は物書きになったのか、思い出せません」

 先生の顔が曇る。眉間に線が出来、口が引き結ばれた。

「何か……書きたいものがあったのではないのですか」

 おそるおそる尋ねる。先生は窓にやっていた目を、僕にくれた。そうして、ふ、と微笑む。

「何か……あったのでしょうね」
「……はい」
「思い出せないのです。ですが、絶対に、今書いているのは違う。私は、いつからか食べるためだけに文字を綴っているのです。私の職業は、物書きの端くれ。物書きではないのに」

 違いがあまりわからなかったが、それをここで言うのは野暮だと思った。
 月の光が変わった。ふと外を見ると、隣同士仲良く並んでいた月が、縦にふたつ並んでいる。
 先生が顔を上げる。月の光によって青白く照らされたその顔はとても魅惑的だった。





 僕は、先生をお慕いしている。
 お慕いしている方と肌を合わせるのは健全である。心が繋がり、魂も繋がる。これは、全く健全なことである。

 しかし、僕は不健全な、ある思いを胸に燻らせている。

「駄目だって。ほら、こんなに埃が残ってる。先生はお身体が弱いんです。しっかりと埃を取らないと」

 僕がそう言うと、全体的に薄い女中は、じと目で雑巾を投げて寄越した。掃除も満足に出来ない女を、何故先生は雇っているのか。それは、先生の実家に頼まれたからなのだが、僕には甚だ疑問だった。
 しかも、美しさの欠片も無い。これならば、この前柱の隅から見えた、先生の父上が連れて来た先生の嫁候補の方がまだ綺麗だ。まだ、というか、あの人はとても綺麗だった。その綺麗な女の人を思い出し、さらに腹塩梅が悪くなる。胸の中がざわざわする。あの、長い髪を切り落として、みすぼらしくしてしまいたい。いやらしく塗られた頬紅を盗み出し、池に捨ててしまいたい。

「女中のくせに」

 だから、ついつい愚痴が口から零れ出てしまった。完全なるやつあたり。しかし、やつあたりを受けた女中の背中はもはや小さい。
 僕に背を向けて歩き出していた女中は、しかし耳だけは良いのか、凄い勢いでこちらを振り返ると、もう御免だわ、と怒鳴って走り寄り、僕に掴みかかった。

「先生と二人きりだと思ったら変な男が付いてくるし、しかも小姑よりも性質が悪いし、最悪よ。出ていくわ」

 薄い顔をした女中は、ぷりぷりと怒り、家から出て行った。それきり、僕はその女中の顔を見ていない。

 僕は、先生をお慕いしている。
 お慕いしている方と肌を合わせるのは健全である。心が繋がり、魂も繋がる。これは、全く健全なことである。

 しかし、僕は不健全な、ある思いを胸に燻らせている。
 その不健全な願いに、一歩近づいた。
 女中がまた一人消え、ついに屋敷には僕と先生の二人だけになった。
 別に、いじめたかったわけではない。先生が雇用したのだから、出ていかせようとしたわけでもない。現に、先生の嫁候補は、数年も前から先生の嫁候補だ。これは、僕が何もしていないという証拠である。
 僕は、ただ、先生に快適な生活を送っていただきたいだけだ。
 綺麗な環境で、おいしい食べ物を食べ、好きなだけ執筆活動に励んでいただきたいだけだ。それに、僕の独占欲を混同することはない。
 僕は一番の古株で、家事炊事を得意としているため、いつも先生から下女の指導を頼まれる。僕は先生の快適な生活の為に指導し、彼女らが勝手に出て行ってしまう。

 僕は先生を僕だけのものにしたい。これが、僕の不健全な願いだ。だけど、表には出さない。
 僕は先生が妻を娶るのが嫌だ。僕以外に他の男を囲うのも嫌だ。僕は、先生を独り占めしたい。心の中で思うだけなら許されるだろう。
 いつかは先生も妻を娶る。僕だってそうだろう。妻を娶っても僕らの関係性はずっと続いていくのかもしれないが、僕は先生を愛しているのだ。
 身分的世間的に許されないことだが、先生が僕以外を見なければ良いのにと思う。

 重々しい心を携えて、先生に出て行った下女のことを知らせに行く。
 いつも先生は、たった三畳の書斎で原稿用紙に向かっている。
 先生、とふすま越しに声を掛けると、すぐに返事が返ってきた。
 少しだけ申し訳無い気持ちで部屋の中へと入る。先生は、丸窓の下、座卓に向かっていた。しかし、筆は手にしていない。

「高杉君、どうされましたか」

 先生がほのかに微笑む。

「……最後の女中が、また僕の所為で出て行ってしまいました。申し訳ありません」

 膝をつき、頭を下げる。
 空気で、先生が笑ったのが分かった。
 顔を上げる。

「とうとう広い屋敷に二人になってしまいましたね」
「……すみません」
「いえ。引っ越しましょうか」

 先生の提案に、僕は驚き、何を言うこともかなわなかった。

「小さな家ならば、今の私の稼ぎでも十分……細々とならば暮らして行けるでしょう」
「……ですが」
「いいのです。譲り受けたこの家は、私には広すぎる。結局、この三畳の書斎で、殆ど事足りるのですから」

 先生は僕の失態を少しも怒らずに、しかも神の慈悲にも似た優しい言葉を掛けてくれた。
 僕は、感動と胸の高鳴りと、切なさと情けなさが合わさったとても不思議な悲しい気持ちを抱え、その気持ちが先生に知られないよう、顔を下げてもう一度謝った。





 希望の話を書こうと思うんです。先生が言った。僕は驚いて、持っていた急須から茶碗に、机に、そして畳にまでお茶をついでしまった。

「先生が……希望の話ですか」

  暗く鬱々として、絶望しか無い話ばかりを書いて来た先生だから、僕は信じられず、懐疑的に尋ねてしまい、失礼だったろうか、と不安になったが、先生は優し気に微笑むばかりだ。それに安心するとともに、また、先生を独り占めしたいという烏滸がましくも畏れ多い欲求が沸き上がる。

「そうです。希望しかない話」

 先生はやおら立ち上がり、茶箪笥に向かうと、そこから一冊の本を取り出した。
「物書きの端くれのくせに、さっきは嘘を吐いてしまいました」

 先生が座って先生を見上げている僕に、まるで慈しむような視線を投げ掛ける。

「嘘、ですか」
「嘘です。実は、もう書き上げて、一冊だけ製本しているのです」

 そう言うと、先生は僕の傍にきちんと順を踏んで正座した。まず右の足を半歩引き、次いで膝を折り、正座の体勢を取る。僕は、先生の正座の仕方が好きだった。

「君に差し上げます」

 先生が、僕に、明るい夜の様な色をした表紙の本を差し出した。僕は、意味がわからないままに、差し出された本を手に取った。
 お礼もそこそこにしげしげと本を見つめる。題名はない。表紙には、ただ『高杉君へ』と言う言葉が書かれている。

「高杉君」
「はい」

 先生は、相変わらずの穏やかな口調で僕の名を呼んだ。本から先生に顔を映すと、先生は口調と同じように穏やかに微笑んでいる。その顔が優しくて、何故か涙が出そうだった。

「私は、妻を娶らないことにしたんです」
「え……」
「親にも、告げました」

 僕の頭には、あの、美しく若い娘の姿が映し出されている。ある時から見ることもしなくなったが、花が綻ぶように笑う娘だった。

「高杉君」
「はい」
「もし良ければ、私といきませんか」
「勿論です」

 間髪入れずに答える。
 生きるのか、行くのか、それとも逝くのかを判別するのは難しかったが、いずれにしても僕は先生と共に在りたいのだから、これ以外に答えは無い。
 いつか、先生が言った。物書きは、どうしてか自ら終わりを選ぶ。しかし、私の終わりは、自然が決めてくれるものと思っている。
 その時は言うことが出来なかったが、僕の終わりは自然ではなく先生に決めてほしいと思っている。

「ならば、用意をしましょう」

 先生が笑った。

「絶縁状を叩き付けられてしまいました」

 先生が、朗らかに笑った。

「え……。絶縁、状ですか」
「そうです。絶縁状です。どこの馬の骨ともわからぬ小僧にうつつを抜かして、と言うような感じです」
「うつつを……抜かしたのですか」
「ええ。うつつを抜かしたのです。君に」
「僕に……」

 先生が、僕の手を取った。包まれた右手が、信じられないくらいに熱を帯びている。

「希望の話を書いたのです」
「はい」
「君が、私の書いたその本を持ち続けている限り、私を傍に置いていてくれませんか」

 先生がゆっくりと尋ね、それから緩慢に首を傾げた。

「僕が、先生を」
「そうです。私は、君の傍にいたいんです。他は誰も要らない。居て欲しく無い。君が出て行く時は、その本を置いて出て行って下さい。そうしたら、私は物書きになります」
「そんなこと、有る筈無いです。僕は、先生のお傍に、ずっと居たかったのですから」

 震えてしまった僕の言葉に、先生は綺麗な、月が一つだけぽっかりと浮かぶ夜のような笑みを浮かべ、良かったです、と呟いた。