早寝記録

ネジと鉄塔

死んで欲しくないから殺すんだと言われた。
冗談じゃない。
矛盾している。
しかし矛盾点を突きつける前に彼は俺を追ってきた。
追われたら逃げるしかない。彼は俺を殺すために追っているのだから当たり前だろう。目的がはっきりしている。知りたくなかったが明確だ。
そもそもの話、思い返して気がついたが彼は俺が死ぬことを異常に恐れていた。
俺が前に風邪を引いた時、あいつは死なないで死なないでと懇願し俺のお茶を買いに店まで走って血まみれになって帰ってきた。その時はぎょっとした。車に轢かれたそうだ。
彼はただの風邪の俺よりもずっと重症になってしまって、むしろ重体で、俺は俺にお茶を届けてぶっ倒れたバカを救急車に乗せて病院まで付き添い、無断で病院に泊まりこんで三日三晩狂っている彼の心配をしなければならなかった。
生きていて欲しいのはお互い様だ。いや違う。あいつは俺に死んで欲しくないだけで俺を殺したいのだから。

今は稼動していない廃れた工場にやってきた。
ごちゃごちゃとしたここなら身を隠すのにもってこいだ。
潮が風に乗って届くのか、廃工場は昔稼働していたのが嘘であるかのように錆びれていた。
空は雲ひとつなく、夜の闇にまぎれようという俺の目論見をあざ笑うかのように月が明るくあたりを照らしている。
そのおかげで街灯ひとつない工場内を俺は何不自由なく歩けている。彼もじきに来るだろう。
そういえばあいつは何も持っていなかった。狂気以外は何も持っていない。どうやって俺を殺すつもりかは知らないが、のんびりと浮かぶ月を眺めているとどうでも良くなってくる。
取っ組み合いのケンカをしたことはないがそれはあいつも同じだ。勝てなくても負けない。

彼が俺に追いついたのは工場見学にと鉄塔に昇った時のことだった。
明るいこの男になぜか夜がとてもよく似合っていた。
夜、似合うねえ、と意味のわからないくさい台詞を心のなかで投げかける。
バカじゃねえの、と返ってきた気がした。
いつも明るい彼は夜を背負っているからか翳っているように見えた。さっき俺を殺すと宣言したときの烈々とした気魄はすっかりなくなっていた。しょんぼりとしている。
なんだかかわいそうだと思っているうちにも彼はまるで世界が終わりそうな顔つきで一段一段鉄塔の梯子を登ってきている。鉄を打つ靴の音が夜に響く。
鳥の声も虫の声も人が生み出す音も何もなかった。
だからかひどく非現実的だった。
時が止まった世界ではもちろん俺も止まっていて、しかし彼一人だけが音を生み出せるのだ。
こんな空想をしたがつまらずやめた。
せっかく時が動いているのだから声をだそうと彼に向けて「早かったね」と言った。あまりにも芸のない言葉。閉口した。
言葉なんて考えて出るものなのに考えると出なくなる。他にもっと言うべきことはあったはずなのに。

夜の真ん中で彼は無表情を貫いていた。
本当に世界が終わってしまうのだろうか。
彼の時は止まっているようだった。不安になりはっとする。気づいてしまった。自分の心に気がついた。
さっきは彼だけが生きていた。今は彼だけが止まっている。
今生きている俺はまるで生きた心地がしなかった。
夜に彼の時間がさらわれてしまった。どうしよう。何か言って時を動かさなければいけないけれど俺はこれがただの頭のいかれた妄想であることをわかっている。
わかっていてもなお不安におしつぶされそうだったのだ。時が止まるのと一緒だ。
時は再び動き出すかもしれないが、今彼の時間はまだ止まっていないから、なんとしてでも止めないようにしなければならない。
「死んで欲しくないから殺すんだ。」さっき言われた物騒な言葉が音声付きで蘇る。
ふつうじゃない。普段は絶対にこんなことを言わない明るいやつだ。
そういえばミニチュアガーデンに凝っていた。明るいか? 暗くはないだろう。

彼の時をつなぎとめるためには「早かったね」では到底効かぬ。
もし彼の時が止まらずに済むのなら死んでもいいと思った。

「なんで俺に死んで欲しくないの?」尋ねる。彼は金魚のように数回口をぱくぱくさせた。

「……好きだから」

意外ではないがこの質問の回答としてはほのぼのとした答えに若干拍子抜けした。
だって、そのあとに「だから殺す」がつくのだ。

「なんで死んで欲しくないから殺すの?」

今度の彼は金魚にはならずに小さな声でさっきと同様の答えを返した。
そしてさらに小さな声で続けた。眉はハの字に下がっている。情けないと思った。傍に行って抱きしめたいとも思った。けれどやめた。

「わかんねえよ。俺、あんたが人に盗られるのが嫌だ。ずっと一緒にいられるわけないから当然最後だってわからない。死んで欲しくない。俺の知らないところで死んで欲しくない」

彼の声は小さかったけれど風に乗りきちんと俺の元へ届いた。

「なんだ。俺のこと大好きじゃん」
「大好きだよ」

彼が沈んだ声で言ったその時、鉄塔の上にひときわ強く風が吹いた。

「わ、」

足元が自分のものではなくなる感覚がし、体がぐらりと揺れる。
反対側にいる彼の手が、届くはずもないのに俺へと伸ばされるのを見ておもしろくなって必死に踏ん張り体勢を立て直す。
落ちなかった俺を見て彼がほっとしたように息を吐く。
俺は彼の大事な頭のネジが1,2本ぶっ飛んでしまったのかと思ったが、どうやら彼はまだまだまともで、ぶっとんだのは彼のではなく俺のネジだったらしい。
俺は意地悪く彼に話しかける。

「俺、頑張ったよ。お前に殺される前に風に煽られて死ぬなんて最悪だから」

安心した彼をしっかりと見たのに本当に意地が悪い。だけど困らせたいのだ。
だって俺は彼に腹を立てている。
さっきの彼の言い分はまことに自分勝手である。
俺を好きなのは良い。俺だって大好きだ。
だけどなぜずっと一緒にいられないなんて決め付けるのか。

俺はこの鉄塔の上で時間が止まることをしらなかった。工場に音がないなんて知らなかった。
ここは俺の常識を簡単に飛び越えていったのだ。
だから、決め付けるということをするのはバカがやることだ。

俺はお前のものだと言うことは簡単だが、信じてもらうことはたやすいことではない。
彼がほんの10秒でも俺の心に入り込んで問いかけてくれたらいいのだがそんなことできるはずがない。
できたとしたらもう帰ってこられないだろう。
ずっと一緒にいれるよ、なんてなんて陳腐な言葉だろうか。薄っぺらい紙のような言葉。
態度で表そうって言ったってそれも無理だ。
俺がずっと彼と一緒に生きる証明は、彼が俺の心のなかを覗くかタイムマシンにでも乗って未来を、俺が死ぬ最後の時を見てもらうしかない。
しかしこんなことできるわけがない。決めつけるが、俺はもともとバカだからどうでもいい。

一歩、彼に向かって足を進める。彼の緊張した顔が目に入る。
何を緊張してるのかと思ったらまたおかしくなって少し笑った。
次第に彼と俺の距離は詰まっていき、ついに手を伸ばしたら届くところまで来た。

「手を引いて、俺を引っ張ったら俺は落ちるよ」

言ってみる。彼が「そうだね」と言う。

「やらないの?」
「……できないよ」
「さっきの勢いはなんだったんだよ」
「……離れたくないんだ」
「答えになってない」
「ごめんね」
「別にいいけど」

泣きそうに歪む彼の顔が俺を好きだということを雄弁に語っていた。
俺も彼のように表情でずっと一緒にいるということを語れたらいいのだけれど、それはしようと思っても無理なことらしく、しまいには変な顔になってしまったようで、今まで泣きそうに歪んでいた彼の顔に思わずといった笑みが浮かんだ。

俺は別に、このままふたりで鉄塔から落ちてもいいのだ。