早寝記録

惚気

 情報通の主婦からタイムセールの情報を得たのは、陽も傾きかけた頃だった。
「3番街シシトウ屋で売れ残った高級食材のタイムセールをやるわ。肉よ。肉があるわ」
 この言葉を聞いた瀬戸は、聞いてしまったから仕方ないとひとつ控えめなため息をこぼし、3番街シシトウ屋へと向かった。
 一週間前、同居人が寝言で「ステーキ、美味しいステーキ」と切なげな声を出していたのだ。美味しいステーキを振る舞えば彼が喜ぶのではないかとふと思った。
 瀬戸は一ヶ月前から大型スーパーマーケットすら来ない錆びれた田舎町に住んでいる。そこで、専業主婦まがいのことをしているのだ。
 職ならば選ばなければそこら中に転がっている。金を得るためならば瀬戸は達成感などなくてもいいと思っているし、出来ることならすぐにでも職を探したかった。
 横を向けば、視界いっぱいにきらきらと輝く田んぼが見える。その向こうには街を守るように大きな山がそびえていた。
 まだ住んで一ヶ月だが、瀬戸はこの街を気に入っている。田んぼがあり畑があり、海だってある。山に入ればすぐにかごいっぱいの山菜が採れるだろう。
 なんだか、働かなくても生きていけそうだな……と思うことがある。世の中から隔離されて物々交換の時代に戻ったとしても、きっとこの街ならばやっていける。
「あ、居候の兄ちゃんだ」
 すれ違う小学生に指を差され、瀬戸は振り向いた。
 黒いランドセルが一つ、赤いランドセルが二つ、興味深げに瀬戸を見ている。
「瀬戸だよ」
 瀬戸は、自分が小学生の時はどんな子供だったか考えながら言った。
「違うよ。居候の兄ちゃんだ。タキが言ってたもん」
「拾ったって、言ってたよねー」
「ねー」
「そういうのって、居候って言うんだよって先生が言ってたよ!」
 子どもたちが教えてくれる。瀬戸は、居候という単語に少しだけ憤りを覚え、それを自覚して照れくさい気持ちになった。

 タイムセールという現代の戦争に敗北した瀬戸が自宅――居候先に戻ったのと、ボロアパートの主が戻ったのはほぼ同時刻のことだった。瀬戸が居間の電気を付けた時、多喜がちょうど玄関を開けた。
「……おかえり」
「ただいまー」
 相変わらずふにゃふにゃとした調子で多喜が入ってくる。いつものことだが、飲んでもいないくせに彼の足取りはどこかふわふわしていた。
「あれ? 瀬戸君もしかして機嫌悪い?」
「別に。今日、夕飯これだから」
 瀬戸は言って、多喜に買い物袋ごと戦利品を突きつけた。多喜が買い物袋の中を覗き込む。
「……高級キャベツ」
 そしてつぶやいた。
「これだけ?」
 しゅんと肩を落とす多喜に瀬戸は無言で背を向けて冷蔵庫の中から納豆を取り出した。
「悪かったと思ってる」
「ええ?」
 瀬戸の謝罪に多喜が目を丸くした。
 瀬戸は多喜の後ろに回り彼のコートを脱がしながら、
「もう、タイムセールには行かないから」と小さく言う。
「タイムセール……」
「俺には向いてない」
 それだけ言って、多喜のコートを手に瀬戸はクローゼットのある寝室に向かった。多喜が後ろからついてくる。
「ねえ、食べたいものあったの?」
「別に、ない」
 言ってから、瀬戸は多喜の声に笑いが含まれていることに気が付き、振り向いて多喜を見た。多喜は意地悪くにやにやしている。
「……なんだよ」
「君があのケダモノのようなおばさんたちの群れに入っていったのを想像したら、なんだか面白くて」
 スーツを脱ぎながら、多喜が言った。
 スーツを脱いでスウェット姿になった多喜は、もうすぐ26になるというのにまだハタチくらいに見える。ふわふわしているからだろうか。ちらほらと出てくる過去を思えば苦労を背負っていそうなものなのに、彼はいつも幸せそうにへらへらしている。彼が幸せそうじゃなかったのなんて、出会った日くらいだ。
 俺とは大違いだと瀬戸は思った。また、自分が多喜のようだったら、人生はもう少しいいものだったのではないかとも思った。
「やっぱり機嫌悪いの? 瀬戸君」
「悪くない」
 落ち込んでいるのだ。でも。
「……そんなに悪そうなのか」
「え?」
「笑えばいいのか」
 瀬戸はひとりごとのようにつぶやき、軽く頬を叩いた。そして――
「さあ、ご飯にしようか」
 と、多喜に負けぬくらい幼い笑みで笑った。


 瀬戸が笑った。
 何を考えているかわからない黒目がちの目を細め、めったに見えない尖った犬歯を惜しげもなく出して笑った。自分と同い年の瀬戸だが、今は少年に見える。いつもは瀬戸の笑った顔が見たいと思っている多喜だが、瀬戸の笑顔を目の当たりにしても少しも嬉しくない。それは、彼が「笑おう」と思って表情を作ったからだ。
「作り笑いできるんだね」
 多喜の言葉に、一瞬で瀬戸が表情をなくす。何を考えているのかわからないそれは、笑顔の瀬戸よりもはるかに人間らしく、多喜を安心させた。
「営業スマイルって、生きていく上で必要なものだから」
 抑揚なく瀬戸が言う。
「別に、不機嫌なわけじゃないんだけど」
 その後にぽつりと付けられた言葉を理解した瞬間、多喜は
「悪かったよ!」と大きな声で謝っていた。そして、恥ずかしそうに付け加える。
「俺、愛想だけはいいんだけど、なんていうのかなあ。昔から、人の顔色読むのが本当に下手でさあ。笑ってたら嬉しいのかなと思うし、怒った顔してたら怒ってるんだと思うし、もう、そのくらいのレベルなんだよ」
「じゃあ、難しいな」
 瀬戸が言う。
「え」
 言葉の意図がわからず、多喜の表情が翳る。しかし、考える間もなく瀬戸は続けた。
「普段は俺、あんまり表情筋動かないし。嬉しくても、悲しくても、あまり顔に出ない」
「う、嬉しくなくても笑われるより良いよ」
「そうかな」と瀬戸がつぶやく。多喜は、瀬戸を取り巻く空気がわずかに和らいだ気がした。
「そうだよ。キャベツ、食べよう」


 瀬戸がタイムセールで得たものは、「戦利品」と呼べるシロモノだった。
「おいしい……!」
 多喜の目が輝く。「すごい」と瀬戸も感嘆の声を上げた。
「やばいなあ、俺、こんなの食べちゃったらもう普通のキャベツなんて食べれないよ」
「タイムセール……」
「ああ! いいよ、もうタイムセールは! ボーナス出たらまた買おうよ。このキャベツ」
「……そろそろ俺、働こうと思うんだけど」
 最近毎日のように繰り返される瀬戸の言葉に、やはり多喜はいい顔をしなかった。
「もうちょっと……」
「俺は、都会じゃなくて、ここでもいいと思う」
「でもなあ……」
「でも?」
 キャベツを口に入れ、少し咀嚼してから多喜が口を開く。
「ここ、うるさいんだよ。近所のおばちゃんたちは結構みんな良い人たちなんだけど、がんがん突っ込んでくるんだ」
「突っ込む?」
「彼女はいるの? 結婚は? 子供は? 仕事はどうなの? ちゃんとご飯食べてるの? 彼女いるの? 結婚は? 子供は早いうちがいいわよ」
「ああ……」
「彼女いるの、結婚は、子供は早いうち。もう、耳にタコだよ」
「聞き流せばいい」
 軽く言う瀬戸に、多喜が首を振る。
「もし瀬戸君がそのうちその気になっちゃったら困るでしょ」
「その気?」
「ああ、彼女作って結婚して子供作ろう! ってさ」
 多喜に言われ、瀬戸は想像した。彼女作って、結婚して、子供を作る――家庭を築くこと。
「あ! だめだよ瀬戸君想像しないで!」
 しかし想像する前に多喜に邪魔される。自分の言葉を受けてころころと表情を変える多喜を、瀬戸は犬のようだと思った。犬がどのようなものかはあまりわからないが。
(ていうか、こいつ、小学生に俺を拾ったって言ってるんだよな)
 そして、子どもたちは先生に言ったのだ。おそらく「タキが人間を拾った」とか、「タキが男を拾った」とか言ったのだろう。そういうのは居候っていうんだよ、と教師はどんな気持ちで言ったのだろうか。
「あんた、人に俺を拾ったって言ってるんだな」
 瀬戸は、なんとなく反応が見たくなって多喜に言ってみた。
「え? ああ、うん。だって、いいもの見つけたと思ったし、拾った以外言い方ないじゃん」
「色々あるんじゃねえの」
「ええ? ねえ、瀬戸君、誰から聞いたの?」
「小学生。生意気そうだった」
「だったらしょうがないって。だってさ、俺、あの男の人と住んでんの? って聞かれたんだもん」
「へえ」
「そうだよって言ったらなんで? って。男のふたり暮らしが不思議みたいだよ。友達だからって言おうかと思ったけど、友達ではないしなあって」
 じゃあなんなんだ、と瀬戸は思ったが、考えてみると確かに友達ではない。
「ホモか! じゃあホモか! ってからかわれたけど、瀬戸君は違うしねえ」
 さらりと多喜が言った。瀬戸君はということはあんたはどうなんだ、という問いを瀬戸は自分にもよくわからない理由で飲み込んだ。
「だからって、拾うになるのか」
「……俺、嘘も苦手だからさ。罪悪感とかはないんだけど、誰にどんな嘘を吐いたかよく忘れるからのちのち話が合わなくなるんだよ」
 バカなのか。
「だから、はぐらかしても本当のことを言おうと思って生きてる」
 少しだけ多喜が胸を張る。威張ることではないだろうが、彼なりに考えて生きてきたのだろう。
 瀬戸は口いっぱいにキャベツを放った。
 多喜は、どうやら俺のことを「拾った」と思っているらしい。おそらく彼は捨て猫や捨て犬を大事にするタイプだろう。だったら、自分のことも大事に飼うのだろうか。
 ――飼われるのか、俺は。
 こう思ったら、おかしくなった。
 多喜といるのはなんだか楽だ。意識しなくても呼吸ができることを、多喜は瀬戸に思い出させたのだった。


 情報通の主婦からタイムセールの情報を得たのは、陽も傾きかけた頃だった。
「3番街シシトウ屋で売れ残った高級食材のタイムセールをやるわ。随分続くわね。魚よ。今回は魚が狙いだわ」
 瀬戸は既視感を覚えたが、つい一週間前も同じような時間に同じようなことを同じ人から聞いたのだ。ただ、あの時と違うことがある。
「キャベツ、あると思います?」
 のんびりした調子で、情報通の背中に多喜が投げかける。
「あら、多喜さん」
「早いな」
「うん。今日は早く帰れた」
 多喜がにこりと笑う。
「この道歩いてたら瀬戸君いるかなって思ったんだ」
 あらまあ、と情報通が少女のような声を出す。その時、一週間前の小学生が通りかかった。
「タキと居候だ!」
 そう言って指をさす。
「こら! ハヤト! 人を指差しちゃいけないでしょ!」
 情報通が生意気な小学生を叱った。
「それに、年上を呼び捨てにして、失礼なことを、ああ、怒るのがおいつかないわ! って、ハヤト! こっち来て謝りなさい!」
 どうやら生意気な小学生は情報通の息子らしい。情報通がまるで自分が悪いかのように謝った。
「帰ったらきつく叱るから。次に会ったときはあの子きっと平伏すわ」
「いいんですよ。俺、ハヤトくんにたまに遊んでもらってるから」
 多喜がへらりと笑う。
「居候って言うのも本当だし」
 瀬戸が付け足すと、多喜は瀬戸を見てわずかに眉を寄せた。
「居候ではないよ」
「居候だろ」
「だって、居候って悪い意味じゃん。厄介者とかさ」
 情報通がいることを忘れているのか多喜は道の真中で憤っている。
 瀬戸は、思い出していた。一週間前にハヤトたちに居候だと言われ、憤っていた自分を。
 無一文でこの街にやってきたから瀬戸は現在多喜に全く金を渡していない。働くと言っても、引っ越すまで待ってて、と多喜が言うのだ。だから、瀬戸は今多喜の家に厄介になっている居候にほかならない。
 だけど、対等になりたいのだ。同じだけは無理でも、ちゃんと金を渡して、家事をして、ひとりぼっちの多喜と生きて行きたい。それがこの街でも他の街でもどこでもかまわない。
「田中さん、帰ったらハヤトくんに居候じゃなくて同居人だよって教えてくれますか?」
 多喜が情報通にお願いする。もちろんよ、ごめんなさいと彼女が謝るのを多喜は慌てて否定している。
「多喜さんと瀬戸君は、前から友達だったの?」
 しばらく多喜と世間話に興じたその流れで、情報通が尋ねた。どう答えるのだろうか。瀬戸は興味が湧いた。多喜を見ると、彼はううん、と少し困っている。
「一ヶ月と少し前に知り合ったんだよねえ」
 話す内に敬語が取れてしまった多喜が言う。
「そうなの。じゃあ余程気が合ったのね」
 穏やかに情報通が笑った。
「気が合ったのかなあ」
 多喜が首を傾げる。そういえば、彼は嘘は吐かないらしい。そのままそうですとでも言って場をやり過ごせばいいのに、と瀬戸は呆れた。世渡りの術は、瀬戸の方がよく知っているようだ。
 どう言えばいいのかなあ、と彼は頭を悩ませていた。そんな多喜を見て瀬戸が小さく笑みを漏らした。
「拾われたんです」と瀬戸がはっきりと言う。下を向き思案していた多喜は瀬戸を驚いたように見上げた。
 ――瀬戸が、笑ってる。
 この前見た作り笑いではない。彼はごく自然に微笑んでいる。
「拾われたの?」
 情報通がふふ、と優しい笑みをこぼす。
「金も行くとこもなかったから。困ってたのが出てたのか、声かけてもらったんですよ」
 嘘も混ぜつつ説明する。
「拾ったんです、俺」と嬉しそうに多喜が話に入ってきた。そんな多喜を見ると、瀬戸はもうどうでもいい気分になってくる。
 あ、と情報通が焦ったように腕時計を確認した。瀬戸と多喜もつられて時間を見る。
「行かないと、タイムセールに間に合わなくなるわね」
 そう言って情報通が早く行きましょうとふたりを急かした。
 早足で3番街へと向かう彼女のあとを、瀬戸と多喜は並んでゆっくりと追った。

 おそらく、先ほどの会話は瞬く間に街の主婦たちに広まるだろう。ハヤトは次に会った時、瀬戸をなんて呼ぶのだろうか。
 捨て犬とかは嫌だなあ、などと考えながら、瀬戸は多喜が隣を歩く幸福をかみしめた。