早寝記録

 異変を感じたのは、全ての授業が終わりホームルームが始まる頃だった。なんだか教室内が騒がしい。
 物理の講習のため教室を離れていたおれは、ここで授業をしていたと思われる女子に声を掛けた。
 今、クラス中の女の子たちが窓に張り付き、浮き足立っているのだ。

「外になんかあるの?」
「あるよ、ある! 今門のとこに隠れちゃったけど、超格好良い男の子がうろうろしてるの!」
「ほんと、モデルさんより格好良いよね!」
「でもあれきっと背そんなに高くねーよ」
「バランスよけりゃ良いの!」
「そうだよ! 背だけで判断されてると思ってたら大間違いよ!」
「そうよ!」
「そうよ!」
「なんだよ……そんな一斉に……」

 しゅんとした深山に近づき、詳しく話を聞く。野次馬根性と好奇心は人並みにある。

「あれ、氷塔だよ。氷高の制服だった」

 深山が言うには、10分くらい前にその人は現れたらしい。苦々しい表情をしながらも、深山は詳細にその人がどんな感じで格好良いのかを教えてくれた。

「殴りこみかなあ」
「彼女じゃない?」
「けどあんなに格好良い彼氏いたらとっくに噂になってるって」

 口々に思い思いの推理をするクラスメイトらの会話を聞きながら、ふと朝の和音さんとの会話を思い出した。

『良い? 静。まっすぐだよ。何、迎えに行ってほしいの?』
『え?』
『良いよ、行くよ』

 良いよ、行くよ。それにおれはなんて答えたっけ。
 考えても出てこない。答えた気がしない。多分答えてない。あわあわしているうちにまなちゃんが現れた、と思う。

 深山に聞いたその人の格好良さは和音さんに合っている。極めつけが高校だ。不良の巣窟氷塔高校の生徒が優等生ばかりがいるおれたちの学校に来ることはない。離れているし、用もない。

「先生! おれ帰ります!」
「え?」

 女子たちの熱気に呑まれ教壇でぼーっとしていた担任に告げる。

「おれ、命の危機にさらされてんの。今から外でたら助かるんで、それでは先生また明日元気で会いましょう!」
「は、早川……!」

 おれは走った。空いた弁当箱だけは忘れず大急ぎで校門へと向かう。

「あ、チャリンコ」

 玄関を出たところで大急ぎで自転車置き場に方向転換。

「静」

 の前に、玄関から出てきたおれに気付いた和音さんが門を越えて校舎の中に入ってきた。駆け寄ってくる和音さんと自転車ならば完璧自転車のほうが後回しになる。

「迎えに来た」
「和音さん……!」
「まだ、学校終わってないんじゃないの」
「終わりました! 終了です!」
「だって、静しか出てこないし、窓にすごい数の顔が張り付いてるよ。あれ、何してんの」
「ホラーです! お化けです! 気にしないでください! おれ、チャリンコ持ってくる」

 和音さんを待たせてはならんと校舎脇の自転車置き場をめがけて走る。おれの足音と、うしろからもうひとつパタパタと駆けてくる音がする。
 振り向くと和音さんも走ってきている。制服を着て校舎脇を走っている和音さんはちゃんと高校生に見える。
 今まで学校の和音さんを見ることはなかった。制服を着ていても、倉庫だとか薄汚れた路地裏とか、まるで高校生らしくない場所でばかり会っていた。
 
(おれも、和音さんと同じ学校が良かった)

 胸が軋む。音階が崩れてく。
 おれにとっての幸せを、中3の時のおれはきっと選び損なった。
 あの時も、おれを捨てた奴らに後悔させたかったから。進学校に入って、いい大学に行って、金持ちになるのが復讐だと思った。
 だけど、そこにおれの幸せはあるのか?

 走っているうちに自転車置き場に着いた。和音さんから借りた自転車はひときわ光を放ってそこに存在している。和音さんの輝かしいオーラが自転車に映っているのだ。すごい!
 それから、おれと和音さんは裏口から学校を出た。
 木漏れ日の落ちる細い道を抜け、住宅街へと出る。

「暑いね」

 和音さんが眩しそうに空を見上げた。

「和音さんって、暑いと溶けそうだもんね」
「暑さにはどうしても勝てない。寒いほうがまだ良いよ……」

 こめかみに浮かぶ汗を、和音さんは彼の白い手で乱暴に拭った。ケンカの時は涼しい顔をして汗一つかかないイメージがある分、太陽に負けている和音さんが可愛く思える。でも、よくよく考えると人間に負けるよりも太陽に負ける方遥かに壮大だ。人類では誰一人として太陽に敵うものはいない。

 未だに目を細めている和音さんに倣い、おれも空を見上げてみた。
 雲ひとつない空はやっぱり手抜きの作り物のようで、なんだかうそくさく見えた。