坂道
和音さんを自転車の後ろに乗せて河川敷を走る。向かうは和音さんの家だ。
風に背中を押されながら結構なスピードでひた走る。
「倉庫には行かなくていいんですか?」
ふと気になったことを尋ねてみると、「いいよ」という答えが返って来た。
「俺がいなくてもみんな来る」
和音さんが言う。確かにそうだと思った。去年までだったら和音さんがいなければみんな集まって来なかった。和音さんがいるからこそ彼らは倉庫に集っていたのだ。
倉庫に来ない時の彼らは本当に手のつけようがなく、ゲームの中の雑魚のように手当たり次第に突っかかっていっていた。
「寂しいですか?」
尋ねてから、失礼だったろうかと思った。風に声がかき消されればいいのに。
けれどそんな都合良く行くはずもなく、後ろで和音さんが小さく唸った。
「ほっとしてる」
そして、しばらく考えこんでから意外な言葉をつぶやく。
「ほっとしてる?」
どういう意図で彼がこの言葉を言ったのか疑問に思ったが、和音さんはついに答えなかった。
答えたくない、というよりもなんていえばいいのかがわからなかったのだと思う。
そのうちに、朝軽快に下ってきた坂に差し掛かる。結構な傾斜と距離がある。後ろで和音さんが小さく「がんばれ」と言った。
和音さんの応援にしあわせを噛み締めながらペダルを漕いでいくが、開始十秒で歩いたほうが確実に早いことに気がつく。
坂の中盤で杖をついたおじいちゃんに先を越された。それからすぐにふくらはぎと太ももが駄々をこねる子のように癇癪を起こしはじめる。
照りつける太陽によって余計体力を奪われているのだろうが、これはたとえ涼しくても和音さんを乗せていなくても辛い。この坂を和音さんは毎回登っているのだろうか。でも、和音さんならきっと汗一つかかずに登り切るだろう。
「限界?」
もうあと少し、というところで足が止まり、進まなくなる。車体が傾き絶対転ぶ! と覚悟したところで和音さんの足が地面についた。
「すいません」
振り返ると、おれを見た和音さんが顔をほころばせた。彼が笑うだけでもおれの心臓がすごいことになるのに、楽しそうな表情は歳相応どころか子供っぽく見えて死ぬんじゃないかと勘違いするほど心臓が高鳴る。
「すごい汗。心臓もここまで速くなるんだね」
和音さんが後ろからおれの左胸に手を当てる。不意打ちの密着に暑さを通り越して灼熱地獄に堕ちた心地がした。ありえないくらい熱いのにしあわせ。
心臓は速いし暑いし熱いし天気は良いし、何がなんだかわからなくなる。
「さ、行こ」
和音さんはおれの混乱には一切気づかずさっさと自転車を降りて歩き出した。
おれも自転車に縋りながら和音さんの背中を追う。華奢に見えて、しなやかな筋肉が付いていることをおれは知っている。
毎日のように抱きついていたからすぐに感触を思い出すことができるのだ。
だけど、思い出の中の感触に温度はなく、唯一の足りないものが一番大事なものなのだと痛感する。
後ろから、「和音さん大好き!」と叫んで抱きつきたい。
そうすれば彼の熱を思い出せる。
和音さんの家の前だけど、かまわない。
よし、自転車を置いて、走って行ってしまえ。そのためならこの足はまだ動くだろう。
(……無理だ)
だけど、最後の勇気が出ない。
前みたいに大好きだと言える自信が全くない。
きっと大好きだと言ったらおれの気持ちが伝わってしまう。嫌われてはいないけど、お弁当を作ってくれるくらい好きでいてくれていると思うけど、おれと和音さんの好きは種類が違う。
ラブリに行きます!? そこに男オッケーのホテルあるんすよー!
いつかの自分がフラッシュバック。あの時のおれ、よく言えたなと拍手喝采、そして殴り飛ばしたくなった。
けど思い起こしてみてぞっとする。こういうセリフ、おれ今までに結構言ってた。
とくに出会ってふたりでいた頃は怖いものなしで、冗談でキスしようとして殴られたこともある。和音さんに殴られたのはあれ一度きりだ。
「静?」
和音さんの家の前でつい足を止めて考えこんでしまっていたことに気付き、はっとして顔を上げる。
「和音さん……」
大好きです、と心のなかで告げて、想像の中で抱きつくが、おれは変わらず自転車に縋り和音さんも変わらずおれの正面に立っている。
「何? 入らないの? 俺、早く涼しいとこに行きたいんだけど」
和音さんが言って暑そうに髪をかき上げ太陽を睨みつける。
きっと今なら言える。勢いで言ってしまえ。だって今日はとても暑いから、全てを熱のせいにしてしまえる。
よし、言っちゃえ静!
「……お弁当、おいしかったです。どうもありがとう」
だけど、やっぱり言えなかった。
空を睨んでいた和音さんがおれの言葉を受けてぎょっとする。そして背を向けて家へと向かった。
「俺に言う意味わかんないんだけど。ほんと。暑いから早く来てよ」
少し慌てたように言う和音さんの背中を、おれは黙って追いかけた。