あっ!
あっ! という間に夜が来た。本当にあっという間。
和音さんがベッドの上でぼんやりして、おれはベッドの下でそわそわしていた。そのうちに夜が来てしまったのだ。
和音さんに借りた進藤家の乙女趣味満開のお風呂もなんだか今は昔の出来事のように霞がかっている。
「あ」
「はい!」
急な和音さんのつぶやきにおれの研ぎ澄まされていた神経は食い気味に反応した。
「暗い。夜か」
「19時です和音さん!」
「7時か……。ご飯、行こうか」
「は、はい」
そういうと和音さんがよいしょ、と年寄りくさい掛け声を出し、緩慢に立ち上がる。そして机の上にあった長財布をポッケに入れ、おれについてくるように促した。おれもからからの財布を持って駆け足で後を追う。
和音さんの部屋の前の長めの廊下を通過し、その先にある階段を下りきったところで見たことがないおじさんがいた。おじさんというには若いだろうか。しかしその男性を一言でいうとこれしかない。ダンディ! 男性的で、端正な顔立ち。オールバックの黒髪はハードボイルドさを演出している。スパイっぽい。ていうか、スパイだったら嬉しい。しかしおれが昔ちょっとの間世話になったヤクザのおじさんにも似た雰囲気がある。カタギじゃない雰囲気。
格好良いこの人は和音さんのお父さんだろうか。だけど、和音さんにもさっき初めて見た綾音にも似ていない。この人はもっとごつくて、強そうだ。
「夕食、どうしますか?」
ハードボイルドダンディヤクザがおれたちに近づいてきた。和音さんの正面に立ったハードボイルドダンディヤクザの身長は高く、おそらく180センチ以上はあるだろう。スーツにエプロンというギャップがある出で立ちだが、それでもかなりスタイルが良いのがわかる。
そのハードボイルドダンディヤクザが和音さんを見下ろして尋ねる。丁寧な口調にもかかわらず凄まじい威圧感だ。
「外で食べてくる」
「おかえりは?」
「歩いて帰ってくる」
「そうじゃない。お時間のことです」
「……寄り道しないよ」
「そうですか。お父様お母様に伝えておきます」
「うん。っていうか母さん夜勤じゃん」
「和音君、今の時代メールというものがあるのです。それにあなたいつも遅く帰ってきたり朝まで帰って来なかったりしていつもお母様に心配をかけているじゃないですか」
ダンディヤクザは早口で言いながらどんどんと和音さんとの無い距離をさらに狭めてきている。和音さんも顔を上げず目だけでダンディヤクザの目を見返す。ダンディヤクザはさらなる威圧感を醸し出しながら続ける。
「お父様は若いからと言ってむしろあなたの現在の荒れ気味である生活を喜んでいる節がありますがわかっているんですか私はあまり差し出がましい真似など出来ませんがあなたが無傷で早く帰ってくるとお母様が安心する。あまり心配を掛けるな」
一息で言って、ただのヤクザが一礼してリビングに続くドアへと向かっていく。
「静?」
和音さんに呼ばれてはっとした。
おれってば、ダンディヤクザの雰囲気に圧倒されて、無意識の内に和音さんを盾にするように彼の後ろに隠れてしまっていた。しかも、和音さんの腕に手なんか掛けちゃってる!
「すいません!」
「は? 何? 別に良いよ。遠野さん、顔こわいし」
慌てて離れるおれを和音さんはかばってくれる。嬉しいが――
「けど、遠野さんにおれ失礼なことした」
正確に言えば、遠野さんへ申し訳なく思っているわけではなく、和音さんに申し訳なく思っているが、それは言わなかった。
畏れ多くもおれは和音さんの友達として進藤家に出入りさせてもらっているのだ。礼儀正しい良い子でありたい。
「別に良いよ。あれで怯えないほうがおかしい」
「でも……」
「静、あんまりでもとか言わないで」
なおも続けようとするおれに、和音さんが珍しくわかりやすいくらいに声に険を孕ませる。
「和音さん?」
「でもとか言って申し訳なさそうにする静、俺好きじゃない」
それだけ言って和音さんは玄関に行き、さっさと靴を履いてしまう。ごめんなさい、と言おうとする口を手で抑え、おれも和音さんの元へと向かう。
怒っているだろうかと不安になったが、和音さんはおれの靴をきっちりと揃えて待っていてくれていた。
「遅いよ。ケーキ買える時間に食べ終わらなきゃいけないから、早くしてよ」
「け、ケーキ屋さん?」
「……遠野さんが好きなんだよ。謝るんでしょ。別にコンビニでもいいけど」
「か、か」
「何さ。早くしてよ」
「和音さん優しい」
さっきと変わらず口調には険があったが、和音さんはやはり優しかった。心の声を漏らしながら慌てて靴を履く。
「何バカなこと言ってんの」
おれの心の声を聞いた和音さんがおれを置いて外へと出ていく。
いつもはどんな時でも和音さんがおれを置いて行くと焦りの気持ちが生まれるのに、今は沸かない。
普段消えることなく、まるで空気のように当然と存在している不安は姿を消しているのだ。
少しずつ自分の心が変化しているということに、おれはひとつも気づいていなかった。