早寝記録

叶う

 外は、夕暮れと夜のほんのわずかな時間の中にあった。
 歩いているとどんどんと周囲が暗くなっていく。もしかしたら1分後に夜がやってくるかもしれない。

 和音さんはのんびりと歩いていた。
 やはりすぐに夜はやって来て、さっきまでわずかに存在していた夕暮れの橙は完全に消えてしまった。
 和音さんは、暗い町を照らすために誇らしげに灯っている街灯を眺めながら、唐突に切り出した。

「卒業したいんだよね」

 おれは、意味を考えるより先に「そうですね」と反射的に答えた。そんなおれが不満だったのか和音さんに睨まれる。

「静はしたくなくてもできるじゃん」
「……卒業?」
「今日担任に言われたんだ。明後日の追追試で赤点取ったら留年だって」
「ツイツイシ」
「追試の追試だよ。知らないの? 頭いいくせに」
「すいません」
「ばかにしてんの?」

 拗ねる和音さんに言い訳をしようと口を開いた時、和音さんが珍しく沈んだ声色で何かをつぶやいた。

「え?」
「……ばかだからばかにされても良いけどって言った」
「ばかにしないっす!」
「ばかにしてくれた方が精神的には良いかも」
「い、一緒に勉強しましょう!」

 ここまで人に弱みを見せる和音さんは珍しく、思わず提案してしまっていた。おれで間に合うのなら、ぜひ使ってほしい。和音さんの役に立てるのならこれほどうれしいことはない。

「……無理」

 だが、おれの提案はあっけなく却下された。

「なんでっすか!」
「……レベルが違いすぎる」
「大丈夫ですよ! 死ぬ気で詰め込めば大丈夫!」

 本気だった。和音さんの学力を詳しく知らないが、ふりがなのない漫画だって普通に読んでるし、昔一緒にふざけて作った果たし状でもきちんとした文章を書けていた。
 日本語が苦手でないなら、頑張ればどの教科もほどほどにできる。おれはこう思う!

「……死ぬ気で勉強……か」
「死ぬ気っす! ドリンク買って行きましょう!」
「ドリンク……」
「栄養ドリンクかな。おれあんま飲んだことないけど、目が覚める! とか、そういうの」
「あ、前に誰かがマムシが効くって言ってたよ」
「それは……どうでしょう」
「買ってみる? コンビニに売ってるのかな」
「……栄養ドリンクの方がいいと思いますけど」
「え? 栄養ドリンクじゃないの? すごい元気になるって言ってたし」
「まあ、けど徹夜はおれの主義に反するんで、ドリンクはなしで行きましょう!」
「なんだよ。別にどっちでもいいけど」

 おれに呆れた目をくれてから和音さんは星の出ていない空を見上げた。

「もう真っ暗っすね」
「そうだね」

 会話が途切れる。ちらりと和音さんを窺うと、彼はまるで満天の星空を眺めているかのようにじっくりと闇を見ていた。

「もうすぐ夏休みだね」

 繁華街に差し掛かろうという頃、和音さんがおもむろに口を開いた。

「そうっすね」
「……静は、勉強するの? なんか、受験生の勝負所は夏休みだってさっき綾音が言ってた」

「んー……」

 和音さんの質問に、すぐには答えを返せなかった。
 正直決めかねているのだ。勉強したら良い大学に行けると思う。それを確信できる自分がいる。勉強に関しては努力したらそれだけ結果がついてくることを、これまで歩んできた道のりの中で知った。

 だけど、ここで必死で勉強して進学して、また頑張って就職して、その先に何があるのだろうか。

 道の先にあるのは一つでいい。
 和音さんがあればおれは満足する。

「んーってことは、悩んでんの?」

 前を見ていた和音さんがおれに目線をくれる。中3の時のおれのガリ勉を見ていたから意外に思っているのかもしれない。

「悩んでます」
「頑張らなくても行けるとこにするの? そこ、遠い?」
「いや、進学か就職か悩んでます」

 おれの答えに、和音さんの目が落ちそうなほど見開かれた。

「なんで? 大学行く気満々だったじゃないか」

 和音さんはおれに理由を求めるが、理由を言ったら告白になる。だって理由は「和音さんと離れたくないから」なのだから。
 しかも、進学せずに卒業したって一緒にいれるわけじゃない。
 和音さんが命のない人形だったらおれの好きなようにずっと手元においておけるけど、和音さんは命のある人間だ。
 おれがいっしょにいたいと望んだところで和音さんが受け入れてくれなかったらどうにもならない。

(けど、言ってみようかな)

 ふと、今までだったら考えもできなかったことを思った。一緒にいたいからって答えたら、和音さんはすこしでも考えてくれるだろうか。考えてくれるだろうな。だって、和音さんは優しい。

「……まずは金稼がないと」

 言っちゃえ、大丈夫だって思うのに、何を怖がっているんだかわからないが、おれの口は思ったとおりに動いてくれなかった。

 何か言いたそうに和音さんも口を開くが、何も言わずに閉じられた。