後悔
ひとつ間違えると、人生は大きく変わる。
おれが進学を捨てたって和音さんと一緒にいれなければきっとこの汚い繁華街の一部として呑み込まれてしまうだろう。
和音さんがおれのそばからいなくなったら、おれの生きる意味も生きてる価値も消えてしまう。死人のように生きるくらいなら死人になったほうが潔い。
だから安易に自分の思いを口に出せない。嫌われたらそこで終わる。
和音さんならおれが一回失敗したくらいで嫌いにならないかもしれないけど━━
(怖いな……)
隣に誰も━━和音さんがいなくなった時のことを考えたら言葉にできない感覚に身が犯された。暗い暗い谷底にひとり取り残されるような絶望。
静かな恐怖を感じる。
和音さんを見ると、彼は人生で初めて死ぬ気で勉強したらしく机に突っ伏している。
和音さんは自分でばかだと卑下するが、言い方は悪いが、彼はばかではない。飲み込みだって悪くないし、説明すればわかってくれる。ただ三分が限界だった。まるでウ○ルトラマン。三分経ったら瞼が落ちる。今日は特別調子が悪いのかもしれないけれど。
その度おれは和音さんの肩を叩いたり揺すったり失礼ながら頬をぺちぺちしたり……和音さんの頬っぺたすごいもちもちしてた……まるで粉のついたお餅だった。
(きれいだな)
しばらくの間、目を閉じて寝入っている和音さんをじっと眺めた。おれは今笑っていないけど、きっとすごくしあわせな顔をしていると思う。だけど、少しだけ悲しかった。どうしてかはわからない。人の感情は宇宙よりも大きく、どんなに考えても完全に理解することは不可能だ。自分のだってわからないのだから、人の感情なんて考えるだけばかばかしいのかもしれない。
机の上に置かれた昔懐かしい目覚まし時計を見ると深夜1時だった。
おれの絶対当たるヤマカンノートも出来上がったし、これを明日一日かけて和音さんの頭のなかに突っ込めばいいだけだから、今日はもう終わりでいいだろう。
和音さんがもっとひどい状況だったらどんな方法を使ってでも今夜はがんばってもらうつもりだったが、彼ならば明日一日あれば追々試を乗りきれるはずだ。
「和音さん、和音さん」
名前を呼びながら肩を叩く。綺麗な曲線を描いている双眸がわずかに震え、彼の意識が戻りかけていることを知らせる。
「今日はもう寝ちゃいましょう」
和音さんの肩を揺すると、閉じられていた瞼がゆっくりと開かれる。長い睫毛に彩られた灰色の瞳はほんのすこし潤んでおり、一瞬どきりとした。
「明日がんばれば絶対大丈夫です!」
「そうかな……」
夢と現実を行ったり来たりしている和音さんに立ってもらい、ベッドへと促す。
半分寝ながらベッドへ収まった和音さんに腕を引かれ、驚いて彼を見ると意外にしっかりとした目と目が合った。
「おいで」
そして、破壊力のある一言でベッドへと招かれた。
「電気消してね」
和音さんの言うとおり電気を消し、緊張しながら和音さんの隣へお邪魔すると、和音さんが満足気に微笑んだ。暗い中でも表情がはっきりとわかるくらい近づいている。気づけば和音さんの目はぱちりと開いていた。
「勉強すると眠くなるのって、なんでなんだろうね」
「……眠気吹っ飛んだんですか?」
「うん。今はずっと起きていられる気がする」
「さっきまであやふやだったのに」
「そうだね」
ふっと笑う和音さんの手はいつの間にか布団から出てきて、昨日の夜のようにまたぽとりとおれの前へとおとされる。
それを今日はなんの迷いもなく手に取った。そのような雰囲気だったのだ。和音さんは柔らかく、今ならおれがどんなことをしてもふわふわとした雰囲気に呑み込まれ、すべてが許されるだろう。
ケンカばかりするくせに綺麗で柔らかい和音さんの手を見つめながら、ふと昔のことを思い出す。
「なんか、懐かしいね」
思い出にひたる前に、和音さんが静かに言った。おれが昔のことを思い出した時、和音さんも思い出してくれたのだろうか。
和音さんと倉庫にふたりきりだった頃は、よくこうして一緒に寝ていた。
当時はそれがふつうのことで、おれもあたり前のこととして受け入れていた。
「眉間に皺、寄ってる」
「わっ」
和音さんがおれに掴まれていない方の手を伸ばし、おれの眉間をぐるぐると揉みしだく。
「静」
「なんですか!」
だんだんと激しくなるぐりぐりをなすすべもなく受けていると、和音さんが場に似つかわしくない沈んだ声を出した。
「タイムマシーンが欲しい」
そして突拍子もないことを言う。
ぐりぐりがやんだ。
「リセットボタンでもいいけど」
「いきなりどうしたんですか。あれ? 時巻き戻して勉強する的なことっすか」
「……ま、それもあるね」
そう言って和音さんが目を閉じる。
「今度作ってよ」
「……ムリですよ」
「だろうね」
なんなんですか、と言おうとしたが、なんとなく和音さんの本意が暗いもののような気がしておれは何かを言うことが出来なかった。
和音さんは何を考えているのだろう。
柔らかい空気は変わっていないのに、おれは確かな拒絶を感じている。
不安と疑問を感じながら目を閉じた。このままではいけない気がするが、どうして良いかわからない。今だけじゃなくて、和音さんと一緒にいさせてもらうためには何かを変えなければいけない。
今晩それを考えよう。
そう決めて目を閉じる。
和音さんの寝息がいつまで経っても聞こえないことに、おれはいつのまにか眠りに落ちて朝が来てもなお気づかなかった。