拒絶
今なら突っ込んでいける気がする。
テンション。
かつてのテンションを思い出せ!
「和音さん!」
「何?」
和音さんは手元から目をはなさない。うつむき、一心不乱におれの作ったノートを読んでいる。
そんな和音さんの勉強の邪魔をするなんて死でもって償うほどの重罪だろうが、今を逃したらきっともう行けない。なんだかそんな気がしている。
だって最近おかしい。
空気のように和音さんの近くにいさせてもらおうと思っていたのに、それが全くできていない。
昨日の晩だってなんだか変な感じになってしまったし、それこそ春に鬼が島に打ちのめされたあたりから少しずつ少しずつ何かが崩れてしまった気がする。それは崩れたあとじゃなきゃ多分分からないが、おれのなけなしのアイデンティティさえ崩される予感がしている。
だめだ、かつてのおれに戻らないといけない。
静かに和音さんの背後へと回る。
勉強の邪魔だとゆるくひとつにまとめられた和音さんの髪の毛が、むき出しのうなじにかかっている。
適当に結ばれた髪の毛はなんていうかエロい。素敵。すき。
いやいや落ち着け静。
お前は今とんでもないことを考えようとしている。
とにかく落ち着け!
大丈夫。今のいきおいなら行ける!
和音さんが良いといってくれるうちはそばに置いておいてほしい。だけどこのままだったらきっとそのうちにおれが和音さんを好きなことがバレてしまうし、なんか大事なものが壊れる気がする。
大好き! と冗談めかして抱きつけば、前みたいに戻れるはずだ。
「和音さん!」
「何?」
集中したままでも和音さんは律儀に返事をしてくれて嬉しくなった。しかし申し訳ない!
おれは今から突撃します!
「和音さん! だい」
「え?」
行けない! はずかしい! その上和音さんが振り向いてしまった。上目遣いの和音さん美しいです好きです。乱れてぼさぼさしてる髪の毛の和音さんも美人です好きですなんかえろい。
「だい、何?」
はぐらかしてトイレにでも逃げようとしたが、和音さんはきっちりと聞き返してくれる。勉強に集中していたはずなのにおれみたいな者の言葉を逃さずにいてくれるなんて素晴らしいです迷惑です好きです。
「だい?」
和音さんが首をかしげる。すこし目が赤い。勉強なんてしたことがない和音さんにとって勉強をするということは何より苦痛だろう。それによほどの危機感を覚えているのか今日は3分以上が経っても寝ずに頑張っている。可哀想だ。おれが代わりに受けられたらいいのに。
もしかしたら和音さんの頭は普段しないことをしすぎて少しおかしくなっているのかもしれない。
そういえば今日の和音さんは表情も口調もやけに子供っぽい萌えます好きです。
「だい……だいぶ覚えられました?」
渾身のはぐらかしに和音さんがしゅんとする。弱気な和音さんが愛おしい。
この瞬間和音さんへの愛おしさが限界値を超えた。
「か、か」
「静?」
「和音さん大好き!」
叫んで、突撃する。和音さんが受け止めてくれるが受け止めきれずに床に倒れこむ。
自然と和音さんを押し倒してしまう形となり、慌てて起き上がろうとしたが、和音さんに腕を掴まれた。和音さんが下からおれを見上げている。
なんかエロい。押し倒したい。いや、すでに押し倒してる。なんてこった。
「和音さん、おれ、どく」
「なんで?」
和音さんが小さく尋ね、右手をおれの肩に置いた。そして滑らかな手つきで頬にそっと触れてくる。
「和音さん……」
どうして良いかわからなかった。
大好きだといって突っ込めたのに、当初の目的はなにひとつ達成されていない。
立場が逆ならこのくらいのスキンシップなんて前までだったら普通だったけど、最近は全くといっていいほどなくなった。それこそ、春先が最後かもしれない。和音さんにピアノの発表会に出たいと言った日以来。
「大好きなんでしょ?」
和音さんが聞いてくる。彼は無表情で、顔からは感情や意図がまるで読み取れない。
「じゃあいいじゃん。このままでも。もう、頭が変になりそう」
「だって、め、め、迷惑じゃないですか」
「……いつからだろうね」
おれの腕を取ったまま和音さんが呆れたようにため息をついた。
「和音さん?」
「……はじめは、敬語じゃなかった」
「え……?」
「こういうふうにビクビクもしてなかった」
「……和音さん」
和音さんが目線を下げた。少し、悲しんでいるような表情。
「俺と静は、いつから対等じゃなくなったんだろう」
問いかけではないと感じた。和音さんは自分に疑問を投げつけている。心の声を聞いているようだった。
ふいに和音さんが俺に視線をくれる。戻ってきたのだ。
「……勉強する」
「え?」
「どいてよ。俺、卒業したいんだ」
和音さんが起き上がり、おれの肩を押す。
和音さんからどくとき、正体不明のとてつもなくでかい喪失感を覚えた。
おれは何も言えなかった。
さっき何かを言うべきだということはわかっていたのに。
ただひとつはっきりしたのは、おれは今まで和音さんの気持ちを何一つ考えていなかったということ。和音さんをずっと追いかけて、見ていたつもりだけど、実はなんにも見ようとしていなかった。
おれは和音さんを自分の都合の良いように設定づけて、おれが生きるための理由にした。
初めは違ったと思う。
それこそ、ふたりでいたときはおれは何も設定づけていない、本物の和音さんを見ていた。
(ごめんなさい)
よほど謝りたい気持ちだったが、この言葉は今一番言ってはならない言葉だろう。
だけど、おれは心の中で謝り続けた。
これからおれは本当の和音さんを見ることができるだろうか。