出発
陰口を言われていた。
倉庫に来る奴、他の集団、色々なところから、自然と、どこからともなく聞こえてきたのだった。ひくてあまた、みんなが欲しがる和音さんと厄介者であるおれとの組み合わせに納得出来ない奴が多いようだった。
そのうちに陰口に暴力がついてくるようになった。誰にやられたの? 静は弱いな。懲らしめてこようか? 傷だらけのおれを見て和音さんが言った。知らないやつ。歩いてたらケンカふっかけられた。
おれはいつも嘘をついた。
高校に入る頃、段々と倉庫に人が集まってくるようになった。人嫌いの和音さんらしからぬ行為。和音さんは人を拒絶すると思っていたから。
おれといるのに飽きたのだろうかと不安になった。
陰口は依然としてある。
どうしたら和音さんのそばにいられるだろう。
おれの頭の中はこれでいっぱいになった。
人が増えても和音さんがおれを疎んじる気配はない。おれしかいなくても和音さんはふらっとやってきてまっすぐに倉庫の一番奥の部屋に入り眠る。
おれはいつの間にか和音さんの考えていることがさっぱりわからなくなっていた。
ずっとわかっていなかったようにも思う。どうだったろうか。
出会った頃、おれは和音さんを友達だと思っていた。理解しようとしなくたって、和音さんの感情が見えた。引き出せていたともいえるかもしれない。それが、どうしたら和音さんと一緒にいられるか考えているうちに和音さんの気持ちになど一切思いを馳せなくなったのだ。
『和音さーん、おはようございます』
『もう夜だけど』
『良いじゃないっすか! おれ学校で寝ちゃってて今さっき起きたんです!』
『……しゃべりかた変』
『変じゃないっす!』
『変だよ』
『だってさあ、和音さんなんかオトナだもん。落ち着き払ってるし、おれよりでっかいし! それなのに敬意を捨ててどうするって話っすよ!』
『……意味分かんない』
おれが和音さんに敬語を使い始めた日。
この時の和音さんの表情をおれは思い出せないでいる。
窓の外、空の海を漂う白い雲に答えを探しても得られるのは眠気だけ。
和音さんの卒業が掛かるテストは果たしてどうだったのだろう。そういえば、授業中にやるのか、それとも追追試だから放課後やるのか聞かなかった。和音さんはもしかしたら今まさにテスト中かもしれない。
昨晩、あれから和音さんは勉強していることを除いてもいつもより無口になってしまったが、おれに愛想を尽かすことはなかった。朝、別れる前に一言「また迎えに行く」と言った。
黒板に目を移すと、冴えない中年担任ののりおくんがのんびりとプリントを配っていた。前の席から順に流れてきたプリントは、先週行われた校内模試の順位発表だ。そこそこの位置。なんとなくため息が出た。
「結果、悪かったの?」
ホームルームが終わり、すっかり帰り支度を整えた春が声をかけてきた。
「そこそこ」
「嘘だ。すっごい浮かない顔してる」
訝しがる春が配られたプリントを見る。その眉間には皺が寄っていた。そういえば、春は最近勉強のしすぎで眼精疲労が凄まじいなんて話をしていた、ような気がする。
3年生になってできたあまり気を使わなくてもいい友だち。
こんな関係は随分と久しぶりで大切にして行きたいと思っているが、最近、特にここ数日は春と会話をしている最中も絶えず和音さんがおれの頭の中全部を支配しているのだ。
「げ。静きもい」
「何が?」
「理系きもい。文系ちょっとがんばればそこそこのとこでも特待生で行けるじゃんか」
「どこも遠くだよ」
おれの言葉に春が顔を上げる。ハトマメ。まるで鳩が豆鉄砲を食ったような表情だった。
「遠く行くんじゃなかったの?」
「……たぶん、行かない」
「うっそ! もったいない」
「もったいなくないよ。じゃあね!」
できるだけ明るく言って足早に教室から出る。後ろから春の声が聞こえたが、聞こえないふりをした。
実際はまだ迷っているが、和音さんのそばから離れられないということもわかりきっているから、悩む必要はないのだ。
続々と下校を始める生徒たちの波をかきわけて玄関を抜ける。門の所にも和音さんの姿は見えない。
少しだけ残念な気持ちで校舎脇にある自転車置き場へと向かった。おれは今日も和音さんにピンクの自転車を渡されていた。
今日も和音さんから借りた自転車は光り輝いてそこにある。チェーンを外し、早速またがる。走り出す前に一つ息を吐いた。
これからおれはまっすぐ和音さんを迎えに行く。そして、和音さんに会ったら――
よし。
ハンドルを強く握りしめ、思い切りペダルを漕ぐ。
「静」
ところが、裏口を抜けてすぐに声がかかった。
急ブレーキをかけると甲高い音を立てて自転車が止まる。
「和音さん!」
声の主は和音さんだった。
裏口の小さな門に寄りかかっていた和音さんがおれを見つけ走り寄ってくる。
「わ!」
そしてそのまま抱きつかれた。和音さんがいたことだけでも驚きなのに、思いもよらない和音さんの奇行に慌てふためく。自転車にまたがっているがどうやって立っているかもはやわからない。すさまじいバランスで自転車は倒れずにいるのだと思ったが、無意識のうちに閉じていた目を開けて確認すると、おれはしっかりとハンドルを握りしめているままだった。手の感覚だとかがなくなるほど今のおれは和音さんの熱で占められているのだ。
「静、すごいよ、ありがと」
「な、なにが――」
ですか、と咄嗟に言おうとしてすんでのところで口を閉じた。
和音さんがおれの肩に手をおいたまま顔を離す。頬がわずかに上気している。
「静の作ってくれたノート! 俺、このまま赤点回避し続けたら卒業できそう」
和音さんの目が輝くのと同時におれの胸が騒ぎ出す。いそいそと自転車から降り、丁寧にスタンドを下ろした。
「おれ、次も、その次も作る、よ」
すこしぎこちなくなってしまったが、数年ぶりに意図して敬語を外した。一瞬和音さんの動きが止まったような気がしたが、そのあとすぐに和音さんがふわりと笑ってくれて、どうしてかはわからないが目が熱くなる。
「ありがとう」
和音さんの呟きを聞いて、なんとも言えない気持ちに包まれる。胸のあたりにじわりと熱が広がった。どうしてこんなにやさしい顔をしてお礼を言ってくれるんだろう。
いつもお礼を言うべきなのはおれの方なのに。
和音さんがカバンをかごに入れて、スタンドを上げ、自転車にまたがる。
「乗って。気分が良いから特別」
口を開けばいつもの癖で全力で遠慮しそうだったから、おれは無言で荷台に腰掛けた。和音さんの広くはないけれど均整のよくとれた綺麗な背中と、昨日ちょっと欲情してしまった白い項がおれの前にある。
「落ちたら置いていくよ」
「……追いかける」
和音さんがペダルに足を掛けるのをじっと見る。ひどくドキドキしていた。なんだか世界がやけに明るい。和音さんが足にぐっと力を入れる。
おれたちはゆっくりと走り始めた。