遠野さん
「君のおかげだ」
「は、や、いいえ。あの、おれは別に」
「はっきりしろ」
「……はい」
よろしい、と言って遠野さんが満足気に頷く。
おれは、全くと言っていいほど状況が飲み込めていなかった。周りからの視線も痛いほど感じる。雰囲気が、もしやあれなのだろうか。
いや、違うだろう。
ていうか格好いいけれどどこからどう見てもカタギじゃないおおよそ三十代後半の男と、学生服を着た赤髪の素行の良くなさそうな高校生が高級ホテルのレストラン(しかも夜景が見える)にふたりでいる状況は見ようによっては非常に怪しい。
過去に少しだけやましいところがあるおれとしたら、周りからは言葉を選ばずに言うと援交に見られてるんじゃないかと気が気じゃない。
和音さんの家の使用人さんが、おれのせいであらぬ噂を立てられてしまったら申し訳なさすぎる。
「俺は和音君が勉強しているところを初めて見た。あの子の知識のほとんどは漫画とアニメでできていたのに、そこに初めて教科書というものが入った」
「は、はじめては言い過ぎでは……」
「いや、初めてだ。少しはある、という言葉は俺は嫌いなんだ。そんなもん切り捨てちまえと思わないか?」
「思います」
援交じゃない。きっと、やくざと舎弟に思われている。
タバコ吸えるとこにすりゃ良かった、と遠野さんが舌打ちをした。
ことの起こりは昨日の夜。
おれが和音さんの家の風呂を借りている時のことだ。和音さんの家の使用人、遠野さんは和音さんに用があり部屋へと入っていったらしい。その時に彼は見たのだ。和音さんが勉強机に向かい、教科書を広げている姿を!
どうしたのか尋ねると、和音さんはひとこと「宿題」と言ったが、それを聞き遠野さんは感涙したとかしないとか。
それを和音さんのお父さんに報告した結果、感謝の気持ちを目に見える形で表そうと今日このような場所におれは連行――連れてきていただくことになったのだ。
学校に遠野さんが迎えに来てくれたのだが、和音さんが来た時とはまた違った騒ぎになった。遠野さんはちゃんと来客者用の駐車場で待っていたのに、駐車場はおれたちのクラスから見えるところにあり、おれがわかりやすいようにと思ったのか、車の外に出て待っていてくれたのだ。朝聞いていたとは言うものの、本当に来たんだ、という驚きがあった。
しかし遠野さんは優等生ばかりのおれたちの学校の生徒には刺激的すぎたらしく、数日前の和音さんのように窓から多数の視線にさらされていた。本人は気づかずにぼんやりとタバコを吹かしていたが。
「和音君は静に教えてもらってた、と言った。俺や綾音君、先生が教えようとすると窓から逃げ出す子がだ。見張っていなくても窓に栓をしなくても自分の意志で机に向かっていたんだ。これは本当にすごいことだ。俺は昨日の夜すぐに先生に電話をして喜びを伝えた。今日は先生も来る予定だったが生憎手術が入り来れなくなったんだ」
先生とは和音さんのお父さんのことだ。もう約一週間進藤家でお世話になっているが、おれはまだ和音さんのお父さんに会ったことがない。正しく言うと、おれは患者としては数回会ったことがあるが、その時は和音さんのお父さんだと気が付かなかった。
格好いいというよりも、優しそうな人だった。
正直にいうと顔はあまり覚えていないのだ。ただ、優しい人だと思ったことだけ覚えている。
姿勢が綺麗なウェイターが高そうな料理を運んできた。それを遠野さんとおれの前に置く。おいしそう、という感想よりもまず値段が気になっていた。おれの一日分の食事何日分に相当するのだろうか……。
「早川君、だったか」
「あの、静で良いです。……呼び捨てで」
「そうか、良かった」
遠野さんが初めて笑う。なんだかニヒルな笑みだったが、そこはさすが男前。格好良い。
「静、いっぱい食え。おしゃれな出し方はしないで、がっつり食えるように先生がしてくれたから、遠慮するなよ」
俺も食う、と言って遠野さんがフォークを握った。
帰りの車内、遠野さんは満足そうにタバコを燻らせながら運転している。向かう先は和音さんの家だ。
「気遣わなくても良いってさ」
黙ったまま前を向いて景色を見ているおれに何か感じたのか、遠野さんが優しげな声を出した。
3時半から8時までずっとふたりきりだったせいもあってか、遠野さんとおれとの距離は結構近づいた。遠野さんが和音さんの家の使用人――趣味でやっているとのことだが――ということ抜きにしても、遠野さんからおれに近づこうとしてくれたからだと思う。
「先生も静のことを歓迎してるから、堂々と世話になってりゃいいんじゃねえの」
進藤家ではかなり言葉遣いと行動に気をつけているらしい遠野さんが、本来の話し方でおれを気遣う。
ちらりと遠野さんを見る。真顔じゃない遠野さんは彼が告白したとおりの33歳だった。少し前まで20代だったなんて信じたくないが、初めて見た時におじさんだと思ってごめんなさいと心の中で謝った。しかしやはり少しだけ老けている。
「なんだよ」
失礼な心の中を読まれたのだろうか。
「いや、普通に考えたら、何日も……友達、のとこに泊まるのは失礼だと思います。おれ、見た目も素行も悪いけど、一応常識的な行動したいんです。それが和音さんの家なら尚更」
友達、という言葉を使うことにすこしためらい、使ってみて嬉しくなった。でも、なんだかむず痒い。
「家ねえっつってたっけ」
「保護者はいるけど、頼れない」
「養子にでもなるか? 俺の」
「遠野さんの?」
遠野さんは愉快げに笑んでいて、おれも釣られて笑った。
「遠野静、中々良いんじゃねえの」
「今の名字よりはかなり」
「……和音君とどうやって仲良くなった?」
少し声を潜め、遠野さんが訊いてくる。どうやって、というのは出会いだろうか。
「どうやってって?」
「あの子は小さい頃から友達ができにくかった。小さな頃はそれなりにいても、小学校高学年あたりからは、人から逃げている節があった」
「格好良いって寄ってくるやつ、今でもすごい多いですよ。でも、友達いないわけじゃないです。みんな不良だけど……」
倉庫の面々の顔が浮かんでくる。そういえば一週間くらいみんなと会っていない。だけど寂しくなかった。やはり、おれは薄情なのか。
「だけど、和音君の口から出てくる名前は静だけだった。他の名前は一度も聞いたことがない」
「へ、へえ」
やばい。遠野さんの今の言葉がかなり嬉しい。にやけないようにと唇を引き結んでみたが、余計だらしない顔になってしまった。赤信号じゃなくて本当に良かった。
「だから、本当は俺も先生たちも興味津々なんだ。あの和音君の唯一の友達は一体どんな子なんだろうって。綾音が静に会えたのは偶然だったが、レアなもん見れた、と興奮してた」
「おれ、レアなもんなんですか」
「かなり。興味本位で聞いていいか?」
「何をですか?」
「出会いだとか和音君の様子とか。本人に聞いてもそっけなく面倒くさい、って言うだけだしよ」
その時おれは見た。遠野さんが気色悪いほど優しく微笑むのを。彼は本当に和音さんを大事にしているのだ。友達が作れない和音君を心配して、おれという友達ができたことを心から喜んでいる。ふと、和音さんが羨ましくなって、その感情に戸惑う。それは今まで和音さんに対して感じたことがない感情。
和音さんに大事にされているんだ、とナオ君に対して嫉妬心が芽生えたことはあったが、和音さんを羨ましいと思うことはなかった。
だって和音さんはおれにとって友達ではなく神様だったから。
少し前までの自分を振り返れば、おれの好きは信仰心とよく似ていた。今でもおれにとっての絶対は和音さんだが、和音さんがおれの態度に傷ついていたことを知ってから、上手く言えないけれどおれの中の和音さん像が変わったのだ。
今までおれが勝手に作り上げてきた金ピカの和音さん像が音を立てて崩壊した。そして、そこから出てきたのは色のある人間らしい和音さん。
「出会いは、おれ和音さんを引っ掛けようとしたんです。中二の時だから、約4年前」
自分で言って驚いた。まだ出会ってから4年も経っていないのか、という思いと、もうすぐ出会ってから4年も経つんだという相反する驚き。
「引っ掛ける?」
「そう。当時世話になってた人が結構なクズで、おれもなんですけど。で、その人にカモ探してこいって言われて、飛び出した先に綺麗なお兄さんがいたから声かけたんです。華奢に見えたし、強いとは思わなかったし、何より綺麗だったから!」
「カモか」
遠野さんがゆるく笑う。
「カモですよ。まあ、当然のことながらそうはならなかったんですけど。おれ、いとも簡単にあしらわれた」
そうだろうな、と遠野さんが相槌を打つ。
おれは当時のことを思い出していた。そして、ちゃんと聞いてくれる遠野さんに気を良くして、あの時のことをすべて言いたくなった。
和音さんのことをこうして誰かに話したことはない。今まで話すような人がいなかったし、3年になって友達ができたが、春は過去のことを聞いてこない。
だけど、おれは心の何処かで和音さんの素晴らしさを誰かに聞いてほしいと思っていたらしい。心が踊っていた。
和音さんと出会った日のことはよく覚えている。あの日からおれの人生が一変したから。灰色だった世界に色がついた日。
その日のことを、遠野さんは楽しそうに聞いてくれた。
「で、おれ最後勢い余って抱きついちゃったんですよ! 真冬なのに、一瞬であったまりました!」
「……和音君、だまって抱きつかれてんの?」
「はい! それ以降調子に乗ったおれはことあるごとにぶつかってってたんですけど、和音さんに拒否られたことはないです。和音さん優しいから、時には受け止めきれずに吹っ飛んでも怒らねえの。すごくないですか? 心広い! っていうよりも、和音さん、おれには本当もったいないくらい優しくて、おれ、まじで……」
白熱し過ぎたとしゃべりながら思ったが、止まらなかった。話していると和音さんへの想いがとめどなく溢れてくるのだ。和音さんの素晴らしさをエピソードを交え人に話せる喜びをかみしめていた。だけど、最後の言葉は言えなかった。
「大好きなんです」なんて、恥ずかしくて言えなかった。
それに、言ってしまえばきっと遠野さんにおれの気持ちがばれてしまう。和音さんに友達ができたと喜んでいるのに、まさかその友達が和音さんのことをあらぬ意味で好きだなんて知ったらショックを受けるだろう。ショックを受けるし、男が好きなのかと、軽蔑されるかもしれない。
「ちょっと興奮し過ぎました」
気を落ち着けて言う。冷静に前を見ると、ちょうど信号が黄色になった。遠野さんが微笑み、ブレーキを踏んだ。
夢中で話しすぎて、おれたちの乗った車はもう和音さんの家のすぐそばまで来ている。遠くに見えている二本先の信号を右折して、その先にある坂を上ればもう和音さんの家だ。
「和音君の話、先生たちにも話せばすげえ喜ぶよ。和音君は怒るだろうけど」
信号が青に変わり、また車は夜の町を走り始める。閑静な住宅街にはもう人通りがない。
制限速度よりも少しだけ速い速度で車は進む。なんとなく、自転車に乗るおれと、後ろに乗る和音さんを道に置いてみる。
遠野さんがウィンカーを出し、すぐに右折する。
急斜面の坂。進んでるんだか進んでいないんだかわからない速度で必死にペダルを漕ぐおれと、楽しそうに揶揄する和音さんの姿。
きっとしんどい顔をしながらも、おれは幸せそうに笑っていただろう。
坂を上がり切り、遠野さんが車を和音さんの家の前へと止めた。
その瞬間、和音さんの家の玄関が開き、和音さんが出てきた。暗いし車を止めた場所から玄関までは結構距離があるが、シルエットだけで和音さんを判断することはおれにとっていともたやすいことだ。
近づいてくる影に胸が騒ぐ。遠野さんが走り寄ってくる和音さんに気付きふっと笑った。
「俺は帰る。また明日な、静」
「はい! ありがとうございました!」
礼を言い、車から飛び出す。
後ろで遠野さんがまたたくさん話を聞かせてくれ、と言うのにもちろんですと答える。
「静」
「和音さん! って、あ! 怪我してる!」
和音さんは頬を腫らしていた。静かに触ると、熱を感じる。
「痛そー」
「平気。ていうか、遠野さんなんなの。行くなら誘ってよ」
和音さんが遠野さんを睨む。
「今日はお父様と私と静との約束でしたから」
遠野さんが30代後半に戻る。ただの男前なガラの悪い兄さんではなく、真面目そうなヤクザになった。しかし、彼の和音さんを見る目はどこまでもどこまでも優しい。慈しみの表情があるのなら、今の遠野さんの表情だろう。
「ふうん。まあ、いいや、行こう」
じゃあね、と和音さんが遠野さんに言い、おれの手首を掴みそのまま玄関へと向かう。和音さんの手は少し冷たい。それなのに和音さんに触れられるとそこが燃えているみたいに熱くなった。