早寝記録

良い子は真似しちゃいけません

 花火大会の翌日から、学校の夏期講習が始まった。お盆も日曜祝日も関係なしの勉強会は夏休みの最終日まで続く。地獄の始まりだ。しかし、今おれのいるところは確実に天国。ヘブンでありユートピアだった。

 自転車の荷台に座るおれの目の前には和音さんの柔らかく艶のある髪。肩に届くくらいの彼の髪の毛は風になびき、太陽を受けて美しく輝いていた。実際がどうであるかに関わらず、和音さんの美しい髪は夜の空に浮かぶ月を連想させた。
 尤も、和音さん自身、太陽と月ならば月、朝と夜ならば夜といったように、派手で華やかというよりも静謐な美しさを持っている。
 今の和音さんの髪の色はちょうど出会った時の髪の色と同じだ。
 あの頃は冬で、とても寒かった。いつも凍えていた記憶がある。
 和音さんと知り合って、半ば強引に倉庫に引き込んだが、和音さんと眠る夜だけはなぜか暖かかった。
 その頃、おれは人間に心なんてものはなく、気持ちとかそういうものも全て科学で説明が付くと思っていた。優しい人もクソみたいなやつも、みんな作りは同じ。人間もその他の動物たちと一緒で種の保存のために存在し行動しているのだと思っていた。
 だから、和音さんと一緒にいるようになってから驚いた。
 数年に一度の大寒波の時も、寒いはずなのにおれは暖かさを感じたのだ。
 はじめは頭が壊れたと思った。
 脳のどこかの神経に異常が生じ、寒さが麻痺しているのだと。
 でも違った。逆に温かい日でも和音さんがいないと寒く感じることもあったから。

 そもそも、出会った初日からおれはおかしかった。
 和音さんを無理やり引き止めてしまったが、普段のおれは人を追いかけたりしない。追いかけたっておれに引き止める力なんてないことは理解していたし、誰かに期待することもなかった。
 寂しさを感じることもその頃はなくなっていたのに、和音さんがおれに背を向けた時に悲しいと感じたし、振り向いた時に嬉しさを覚えた。

 おれを、助けてくれたから?
 それとも、名前を教えてくれたから?

 わからないが、理由が必要だ。
 初対面の和音さんに拒絶されて、ショックを受けた理由。
 遠くなる和音さんの背中を見送っていた時に感じた、抗いきれない寂しさの理由。
 和音さんが振り返った時の嬉しさの理由。
 そして、和音さんがおれを受け入れてくれた時に自然と流れた、涙の理由……。

 理由の欠落は不安を生じさせる。
 確たる理由があると納得し、安心できるのだ。気持ちや心などという不確かなものをおれはまだ信じ切れないでいる。

 実を言うと、泣いたのはひどく久し振りだった。
 独りや拒絶が日常になると、「普通」の尺度が下がり、ちょっとやそっとのことじゃ動じなくなる。体の痛み同様、心の痛みもいずれ慣れ、麻痺するのだ。泣き方すら忘れたと思っていたのに、無意識に泣いてしまって、和音さんも驚いただろうけど多分おれの方が何倍もびっくりした。

 和音さんと出会って、おれは弱くなった。使い古された弦のように、いつ切れるかわからない感情に惑わされることが増えた。
 本当は、寂しさなんて感じたくなかったし、泣くことを忘れたままでいたかった。そのためなら幸せも喜びも、知らないままでよかった。
 
 だけど出会ってしまった。
 和音さんを知ってしまったら、たとえ不幸に愛されることになっても和音さんと歩む道を選ぶ。

 しかし未だに理由はわからぬままだ。和音さんが好きだということだけはわかっているけれど。

「講習って、何時に終わるの?」

 和音さんの声に、はっと顔を上げる。きらきらと輝く髪の毛が目に再び目に映った。

「そこの二人乗りの高校生、降りなさい」

 答えようとした時、拡張器を通した男の声が聞こえた。

「うざいな」

 和音さんがハンドルを切り、住宅街へと入っていく。振り向くと、いるはずのパトカーの姿はもうなかった。

「で、何時?」
「12時、の予定」
「ふうん。嘘ついて無いね。よかった」
「へ?」
「ツテを駆使して静の夏期講習の日程表を手に入れた。サボる気かと思ったけど、ちゃんと行くんだね」
「……そりゃあ、こうやって送られちゃったら、やるしかないじゃん」
「良い心がけ。終わった頃また迎えに行く。正門で待ってる」
「い、良いよ」
「電話、もうないんでしょ。連絡のしようないじゃん」
「ひ、ひとりで帰れる」
「どこに帰んの?」

 和音さんの質問に詰まる。何が正解かはわかっている。
 にゃー、と民家の塀に丸くなっているのん気な猫の鳴く声がして気が抜けた。

「和音さんの家。もう少しだけ、世話になる」
「わかってんじゃん」

 前から、和音さんの満足気な声が聞こえる。前から来る女の人が一瞬止まり、頬を染めた。
 声だけでなく、和音さんは笑ったのかもしれない。

「選択肢は、減らしちゃダメなんだってさ」

 前を向いたまま、和音さんが話し始める。平和な住宅街を、軽やかに自転車は進む。夏の爽やかな風が頬に当たり、気持よかった。

「選択肢?」
「そう。何かを決めるのは悩むけど、悩み終わった後、選択肢がなかったら何も出来ないでしょ。だから、勉強すべき」
「和音さんでも悩むの?」
「進路では悩んだこと無いよ。バカの道はそんなにない」
「考えればたくさんあるって」
「俺、働くし」
「もう決まってるの?」
「倉庫の近くの喫茶店。将来はあそこを乗っ取ろうと思ってる」
「え」
「静が高校受験してた時とか、暇な時、あそこのおっさんに酒の作り方とか教わってた。飲み物作るだけで金稼げるって楽。働きに来ていいって言われてる」
「けど、作るだけじゃなくて接客しなきゃだめじゃん」
「俺が店長になったら食券式にして、話しかけるなって貼り紙する」
「無理があるよ!」
「じゃあ、診療所」
「へ?」
「静が診療所作ってよ。俺、そこで店開くから。患者診ながら接客もして」
「もっと無理があるよ! 色々と」

 想像して、おかしさがこみ上げる。と、同時に楽しいだろうな、と思い、思わず吹き出す。

「それか、ピアノ弾きながら接客してよ。よくあるじゃん。言えばなんか弾いてくれる店」
「長調でも暗い曲ばっか流れる店ってレッテルはられるよ」
「ちょうちょー?」
「明るい響き」
「長調か。別に良いんじゃないの? 俺も暗い人間だし、暗い雰囲気の店にしよう」
「人来ないよ、それ」

 真面目に言う和音さんがおかしくて、今度こそ笑う。和音さんが、また一つ選択肢増えたね、と言った。

 学校が近づくに連れ、おれと同じ制服が増えていく。やはり和音さんの格好良さは自転車で通り過ぎる一瞬でもわかるらしく、女子が騒ぐのがわかった。
 学校に到着し、和音さんと別れる。正門で、真面目に勉強しろと和音さんに念を押される。自分は全くしないくせに、と文句のようなことをちらりと思ったが、そう思った自分に少し驚く。ちょっと前までは崇拝していたのに、文句まで思えるほど近づいてしまったのか、と。知らず知らずのうちににやけていたのか、変な顔と罵り和音さんが自転車に乗って颯爽と去っていく。
 校門を抜けたところで、クラスの女子数人に声をかけられた。無視するのもなんだから、足を止める。彼女たちの顔は輝いていた。

「あの人、超格好いいんだけど、なんなの?」「友達?」「何歳?」 「どこ高?」「もしや、前に早川を迎えに来てた人?」

 矢継ぎ早に質問を繰り返してくる女子に内心呆れるが、でも、和音さんの格好良さを直に見たのだ。おれが女子だったらこうなるか。
 ひとつめの質問から順番に答えてあげることにする。

「神、友達、同い年、氷高、前におれを迎えに来てた人」
「神ってなんだよー」「でもわかる! 神々しかった」「氷高って不良の巣窟じゃん! かっこいい!」
「格好いいでしょ」
「友達ならさあ、紹介して! みんなで遊ぼう!」
「嫌だ」
「なんで!」
「おれ、独り占めしたいから」
「ホモかよー」「まじかよー」「ずるいよー」

 へへ、と笑って校舎の中に入る。暑い外とは違い、涼しかった。和音さんは今頃暑さを感じながら、涼しい顔をして自転車を漕いでいるだろう。あまりにも顔に出ないのも困りものかもしれない。

 和音さんは帰り迎えに来るのだろうか。おれなんかのためにわざわざ申し訳ないと思うけれど、きっと門の前にいる和音さんを見つけたらおれの心は喜んでしまうだろう。いくら考えたって、反射的に湧き上がるものはどうすることもできないのだ。