早寝記録

鳥居君

 早々に終わらせた課題を机の中にしまい、机に突っ伏す。昨日の花火大会に興奮しすぎて昨夜は寝られなかった。和音さんはすやすやと眠っていたけれど。本当ならサボって寝たいが、和音さんが送ってくれたこともあってサボるのは気が咎める。休み時間でさえも勉強をしている周りの空気を感じながら、そろそろこの赤い髪をなんとかしないと、と考えた。特待生から外れる前に、黒くして、ああ、着やすいようにちょっと改造した制服も元に戻さなきゃ。見た目をまじめちゃんにして、落ちる成績をカバーしなければ。

「余裕だねえ」

 まじめちゃんへの変身大作戦を真剣に考えてるおれの上から、皮肉げで聞きなれない声がして顔を上げる。色の白い普通の、だけど底意地の悪そうな男が立っていた。左目の下にある泣きぼくろが印象的だった。見たことはあるが、話したこともなければ名前も知らない。

「誰」

 尋ねてみる。

「ひどい」

 少年が笑う。まあ、見たことはあるのだ。学校で。そして、鬼が島のたまり場で。でも――

「名前知らん」
「そう? ひどいなあ。俺は知ってるのに。ってことで、ちょっと付き合ってくれない?」

 鬼が島の少年がおれに何の用なんだろう。不思議に思ったが、好奇心もありおれはすぐに立ち上がった。

「静、サボりは良くない。せっかく来たのに、サボりは」

 後ろの席から春の声。夏休みは大体模試やテスト形式の勉強だから休み前の選択授業よりも同じクラスの春と一緒になることが多い。

「サボんないよ。すぐに帰すから。俺、早川君にちょっと用があんの」

 おれの代わりに泣きぼくろが答え、そそくさと教室から出て行く。すぐ戻るよと春に言っておれも彼の後に続いた。そいつは廊下の果てで止まった。なんとなく、すぐ傍にある窓から外を眺める。いい天気だ。

「用って何」

 ゆっくりと漂う雲から少年に目を移し、尋ねる。心なしか、意地の悪そうな少年はもじもじしていた。

「連絡網でさあ、あんたんとこの和音ちゃんが戦いもせず警察に助けを求めたって噂が出回ってるんだ」
「え?」
「ってのは、ついでの話で――」
「いや、ついでじゃねえよ、すっげー重要な……」
「俺に、化学教えて!」

 パン! と、目の前で合わされた手。顔が見えないほどに下げられた頭。

「皆自分のことに必死で、誰にも頼めねえんだよ! 得意科目でカバーすればいいって思ってたけど、下がりに下がってもうどうしようもねえの!」
「お、教えるのは別に良いけど、噂――」
「まじ!?」

 少年の顔がキラキラと輝く。意地の悪さは消え、子供っぽい、親しみやすい笑顔だ。

「俺、鳥居! 鳥居和紗! あんたんとこの和音ちゃんとちょっと名前被ってるから親しみやすいと思うよ!」
「いや、それはなんか意味わかんない……」

 意味わかんないなんて、和音さんの口癖を盗んでしまった気になった。

「あー、良かったあ。テスト順位表で名前知って、こっそり盗み見して、あんたんとことのケンカの時に見かけてからずっと機会を伺ってたんだよねー。頼めるのは早川くんしかいねえって! 不良だからさあ、断ってきても殴れば済むじゃん?」
「済むじゃん? じゃないよ……。それより」

 和音さんの噂について聞こうとした時、丁度良くチャイムが鳴ってしまった。鳥居がはっとしておれに背を向ける。

「やっべ! 俺、文系クラスだから別棟なんだよ! ちなみにCクラス!  じゃあもう行くから! あとで携帯の番号聞きに行く!」
「え? おれ、持って――」

 ないから、と言おうとした時にはもう遅く、鳥居はすでに走り去っていた。

「ほら、行くぞ」
「わ」

 数学の教師がおれの頭を後ろから叩き教室に向かっていく。おれは悶々としたまま、教室へと戻った。
 机の中から授業に必要な道具を取り出す。教師が何か話しているが、何も頭に入ってこない。鳥居がおそらく緊張を解すために言ったであろう連絡網の内容から頭が離れなかった。
 『戦わずに、警察に助けを求めた』
 不良の世界ではしちゃいけないことだろう。それも、本人がなんて思おうとも和音さんは総長だ。
 ――不良っていうか、一応みんな総長って思ってくれてるのに、あんなの、ダメだよ
 和音さんの言葉。だけど、これを言った時の和音さんは穏やかだった。和音さんは普通の人。みんなが思っているよりもずっとずっと普通の人。だけど、みんなはそう思わない。和音さんは寡黙な不良で、とにかく強くてケンカ好きだと思われている。そんな和音さんが戦わずに警察に助けを求めたのだ。これをネタにからかってくるバカどもはきっとおれが今考えた以上に多いだろう。
 鳥居に勉強を教えるどころじゃない。まずこの噂をどう処理するか考えないといけない。今の倉庫のメンバーだったら、気持ちの悪い絆も芽生えたし、こんな噂が流れたって和音さんを糾弾したりはしないだろう。むしろ、和音さんが「ゆっくり花火が見たかった」と本当のことを言えばみんなほっこりしてさらに和音さんを好きになる。倉庫に集まってくるやつらはみんな寂しさを抱えているから、春までのギスギスしていた頃の面影がないくらい今は仲が良い。人間不信が人間を信用すると、危ないくらい密になる。今和音さんが他のチームにからかわれたら、でかいケンカになりそうだ。

「何唸ってんの」

 前からプリントが配られてくる。

「年頃だから」

 適当に流してそれを受け取り、後ろの春に渡す。彼は頗る頭の良い親友と同じ大学にいくために猛勉強中で、おれが見た限りだともう限界が近そうだ。頭から煙が出ている。……気がする。
 それからは無心で問題を解いた。数学だから、邪心が入り込む隙はない。ただただ問題を読んで頭の中にある公式を当てはめていく作業を続ける。今おれに出来ることはないから、とにかく休み時間まで心を無にして問題を解いた。
 休み時間になった途端おれは走り出した。もちろん鳥居に会いにいくためだ。友達もおらず普段は全く文系クラスに用がないから完全アウェー。H型の校舎の真ん中を渡りきり、文系の棟へと足を踏み込んだ時、多くの視線を感じた。赤い赤いという声が多く聞こえる。緩くはない進学校でおれの赤髪は結構目立つのだ。なんだか、急に少しだけだけど恥ずかしくなった。

「あ。早川くん」

 穴があったら隠れたい、それより引き返したいと思ったが、D組の前で目を丸くしている鳥居とばったりと会った。

「今から行くとこだった。何? 来てくれたん?」

 鳥居はもちろんおれの恥ずかしさなんて考慮もしないでへらへらと笑っている。

「あんたが気になること言うから!」
「気になること?」
「和音さんのことだよ! 噂、詳しく教えてよ」

 問い詰めると、鳥居はバツが悪そうに頭をかく。

「教えることもねえよ。さっき言った文面が回ってきたってだけだからさ。それでどうこうしようとか、桃原も何も言ってないし、他はなんにも知らねー」

 そういう鳥居が嘘を吐いているようには見えない。というか、大体真実はそれだけなのだ。売られたケンカを買わなかった。仲裁を警察に頼んだ。ただこれだけ。
 鬼が島の総長の桃原が何も言っていないということだけが強いて言える収穫か。

 鳥居が歩き出す。それに落ちる肩を上げもせずに続く。好きなのか、鳥居はまた廊下の端で止まった。今度は文系棟の廊下の果てだ。窓から見える景色にそれほど違いはなく体育館の屋根が見えるくらいだった。やはり天気が良い。快晴だ。なんとなく、自分から話を切り出す。

「おれ、携帯解約したから持ってねえ」
「まじで!? じゃあさあ、どうやって連絡とればいい? 家電?」
「今、家もない」
「はあ?」

 ため息混じりに告げると、鳥居が顔をしかめた。

「嘘じゃないよ。……靴箱にメモでも入れといてよ」
「やだよ。人の靴箱とか開けたくねえし」
「……じゃあ連絡手段はありません」
「ええちょっと早川くん!」
「その早川くんってやめてよ。なんか、もやもやする」
「静君?」
「君がいらねえの! 一応さあ、敵対してるじゃんか。それなのに君付けとか、気恥ずかしいって」
「じゃあ静でいいの? やべーまじ友達っぽーい」

 鳥居はへらへらと笑っていた。

「解約したんならさあ、もっかい契約してよ。講習終わったら図書室こもって教えてほしいと思ってたけど、夜とかもさー、わかんなくなったらその都度電話で勉強教えてもらおうと思ってるんだよね」
「随分勝手な」
「良いじゃんいいじゃん、今の時代電話は必要よ? 毎月五百円ならカンパしてやってもいいからさ」
「微妙に良い値段……」
「コツコツためた小遣いがあるのよ、俺ってば」

 ははは、と鳥居が笑う。勝手だけれど、雰囲気は意地悪そうだけど、憎めないやつだ。でも、これは第一印象だからまだ信用はできない。裏切られる心構えはしておこう。

「鳥居、講習終わったらって言ってたけど、今日はだめ」
「うん。まず明日さ、良い参考書見に行こうよ。選んでー。俺化学本当にだめだから参考書もどれ選んでいいかわかんないんだよねー」
「受験に化学必要なの?」

 そんなに苦手で大丈夫か、と他人ごとながら少し心配になった。

「え? うん。生物と化学、物理に地学からふたつ選ぶんだけど、物理は生理的にもう無理だし、地学にも全く興味ねえし地層とか美味しそうだし、習ったこともないから無理でしょ? 残るは生物と化学じゃん? 生物は別に苦手じゃないんだけど、化学はどうしてもダメでさー。嫌いってわけじゃないけど。なんか、化学記号とか格好いいし」
「あ、そ……」

 変なやつだ。なんで不良グループにいるんだかわからない。色白で目がまあまあぱっちりしてるから地味ではないが、黒髪だし服の着崩しもみんながやる程度。ピアスの穴も見えなければ装飾品のたぐいも身につけていなない。
 ああ、でもケンカの時にはよく楽しそうにバットを振っているか……。ていうか――

「おれ、一応和音さんの仲間なんだけど……。仲良くしちゃっていいの?」

 そもそも他グループのやつとはつるまないという暗黙のルールがあるはずだ。鳥居はそれを笑顔で破ろうとしている。何を考えてるんだろう。受験のことを考えているんだろう、なんてひとりで疑問に思い勝手に解決した時だった。鳥居は爽やかな笑顔とともにとんでもないことを言った。

「大丈夫! お前もう抜けたって思われてるから!」