早寝記録

ご挨拶

「ハートフル化学……」

 昨日、おれが買ってやった参考書を手にした鳥居が呟く。いや、買ってやった、は間違っている。

「540円。やっすいでしょ」

 そう言って手を出せば、鳥居が「一緒に行くっつったのに……」と文句を言いながらポケットから財布を出した。540円ちょっきり受け取り、胸ポケットへとお金を放る。

 人気の無い一階用務倉庫前で、おれは鳥居と昼食を摂っている。食べているのはもちろん和音さんのお手製弁当だ。最初こそ否定していた和音さんも今では弁当を作っていることを隠していない。「料理に興味があるだけ」とふくれながら、照れたように弁当を渡してきた和音さんに死ぬほどのトキメキを覚えたのはつい最近のことだ。鳥居のことは変なやつということしかわからないが、コンビニのパンを食べている鳥居に勝手に勝った気になる。

「それ、化学の基本の基本が載ってるから、明日までに50回読んできて。問題載ってるから、問いてね」

 コーヒー牛乳を啜る。口の中が甘ったるくなった。

「えー……」

 鳥居がぺらぺらとハートフル化学を流している。

「今日は付き合えないから」
「ふうん。用事?」
「うん」
「電話は?」
「ほんとに解約したばっかなんだって。多分持たないけど、買ったら教えるよ」
「絶対ね」
「うん……」

 またコーヒー牛乳を啜る。和音さんは、今何をしてるのかな。町に出ていたとしたら、襲われていないだろうか。おれがいたって大した戦力にはならないけど、自分の弱さを棚に上げて、自分が和音さんのそばにいられないことが不安だった。

「……ずーずーしてるけど。もう、入ってないよ、それ」
「へ?」
「コーヒー牛乳。入ってねえ」
「あ。ほんとだ……」

 和音さんのことを考えているうちにすっかりコーヒー牛乳は尽きていた。

「……何? 進藤君のこと考えてんの?」
「え? あ、まあね」

 鳥居が尋ねてくる。こいつは鬼が島のメンバーだ、と思うが、どうも調子が狂う。全く不良と話している感じがしないのだ。どちらかと言えば、春と話している感じに近い。ただの友達……。だけど敵対しているグループの一員という思いもあるから気も遣わない。結果、なんだか素になってしまう。

「桃は、どうせ花火が見たかったんだろって言ってたけど」

 鳥居から出てきた言葉に驚き顔を上げる。目が合った鳥居が笑いかけてきた。

「俺らのとこは和音ちゃんに理解があるから、売られたケンカを買わずに警察に助け求めたくらいで変わらない」
「か、和音ちゃん……?」
「そ。桃と進藤君が幼馴染って、知ってた?」

 そういえば……。

「昔、空手教室で一緒だったって聞いたことあるかも」
「それだけじゃないよ。小学校も一緒だった」
「そうなんだ」
「気が合わないみたいで、ケンカばっかりしてたけど」
「なんか、見てきたように言うね」
「ずっと聞かされてたから。俺、桃と従兄弟だから」

 衝撃の事実。でも、これでようやくわかった。だからこいつは鬼が島に入っているのか。親戚のつながりでもないと不良と出会う機会がなさそうだから。

「桃原って、どういうやつなの?」
「桃?」
「ただ興味があるだけ。和音さんが昔、桃原とやるのが好きって言ってたから、それ思い出した」

 段々と桃原に興味が出てきて尋ねてみる。今まではただ鬼が島のリーダーということしか知らなかったし、興味もなかったが、和音さんとつながりがあるとわかった途端気になってくる。我ながら、気持ち悪いほど和音さん中心に物事を考えていると思う。
 鳥居は、三日月形に食べ進めたアンパンの端をちぎった。

「桃ねえ……」

 鳥居がつぶやき目線を上げる。桃原について何を考えているのか、眉間にしわが刻まれた。

「逆に、どういう印象?」

 答えずに質問を返される。

「……黒髪にピンクのメッシュ入れてて。桃原っていう苗字にあやかっているとしたら結構なナルシストだと思う。失礼ながら」
「ひでえなあ」

 鳥居が笑う。

「だけど、ナルシストは良いことじゃん。自分が好きな方が幸せだよ」
「そうかもしんねえけど、あれは、ピンクは女にモテるだろ! ってアホみたいなこと言って入れてるだけだよ。アホすぎてモテねえけど。それに、進藤君を完膚なきまでに叩きのめすことに力入れすぎて、それもモテない理由かも」
「アホなんだ」
「アホだよ」
「そっか……」
「なんだよ、一応俺のとこの総長をそんな哀れむように言うなよ」
「ごめんね……」
「謝るなって!」

 鳥居が笑い声を上げた。それに釣られておれも笑う。こうしている時にもやはり和音さんのことが頭から離れなかった。

 14時までの講習が終わったが、1時間待っても和音さんは迎えに来なかった。心配が爆発寸前まで膨らむ。おれは約一週間ぶりの倉庫へと急いだ。倉庫には恋人を自慢しに帰ってきた綾音を見るために和音さんの家へと戻った日以来来ていなかった。何年も住み続けたおれの家とも言うべき場所のドアをくぐる時、やはりおれの居場所はここではないと思った。馴染みはあるが、自分のものではない、言うなれば学校のような場所になってしまっている。今、おれの家と言える場所はない。親戚の家は地獄だし、倉庫は学校みたい。和音さんの家は、おれの家ではなく、友達の家。

 ドアを抜けると、何人かメンバーが集まっていた。夏休みといえどさすがに真っ昼間からいるやつは少ない。いつも夕方頃に増えだして夜に賑わうのだ。

 倉庫には、航平という、初めに仲間になった同い年のやつがいた。割とクールでおとなしく、情報を聞き出すには良い相手でほっとする。

「航平」
「あ。静じゃん。久し振り。元気?」
「全く。超思い悩んでるから、おれ」
「まあ、どうでもいいけどさ」
「心配なくせに」

 笑いながら、航平の傍に行き彼の座っているソファに腰掛ける。

「和音さんは?」

 前置きもなく尋ねると、航平は目線だけよこし、一言「ジョンソンのとこ」と言った。

「ジョンソン? ケンカ?」
「いや。引退前の挨拶」
「……ひとりで行ったの?」
「当たり前。引退前の挨拶回りについていけるわけねえだろ」

 苦虫を噛み潰したように吐き捨てる航平を見て、一気に血の気が引く。

「昼過ぎに行って、まだ戻ってこない。二時に静を迎えに行かなきゃって言ってたから、ここには戻らずにお前のとこ行くのかとも思ったけど、その様子じゃ会ってねえみたいだな」
「うん……」
「俺らも止めたんだけどね」
「止めた?」
「そう。昼に全員招集されて、引退しますって和音が俺らに報告してきたんだ。その時、みんな止めたよ。ムダだったけど」
「……んで、みんなは?」
「西町ででかめのケンカしてる。ちょうど予定されてたから。和音、ジョンソンの挨拶をわざとぶつけたんだよ。俺達が加勢に行けないように」
「航平は留守番?」
「気分が乗んねえだけ」
「他も?」

 倉庫を見回すと、3,4人の仲間がいる。みんな床やイスに座りどことなくぼうっとしていた。

「多分ね」
「……挨拶に行ったのかあ」

 和音さんのことを考える。挨拶にいくなんて言われたらたとえ西町とのケンカが予定されていなかったとしても誰も手出しは出来ない。引退の挨拶に仲間を引き連れて行くのは総長として恥ずべきことだし、チームの汚点にもなる。

「あのさ、ちょっとお願いがあるんだけど」

 おれはそう言って、航平の返事を待たずに買ったままずっと鞄に入れっぱなしにしていたあるものを取り出した。