愛
ネクタイをしたのはいつぶりだろう。できるか不安だったけれど、体が覚えていたようでとくに悩まずにできた。勉強道具が入っている鞄は見るからに重そうで、制服も相まっておれはただの進学校の生徒に見えるはずだ。
和音さんのいる東町の北側の外れ。その手前には寂しい公園があり、公衆トイレも付いている、不良、変態御用達の場所。そこに入り、自分の姿を再確認する。
真っ黒に染めたばかりの髪の毛は染めたてだからか真っ黒でなんだか不自然だけど、きっと真っ赤なトマトみたいな髪の毛を見続けたからおかしいと思うのだろうとひとりで納得する。
おれの髪の毛を染めてくれた航平が、一気に中学生になったとからかって来たが、今までは派手な髪の毛の色だけで目立っていたから、だれもおれが和音さんの仲間だとは気づかない。もしかしたら和音さんもおれに気が付かないかも。髪型は普通だし、朝は一応無造作に見えるように頑張ったけど、今は染めてかわかしたまんま来たからただのストレート。毛先が真面目。どこも遊んでいない。毛すら優等生だから、全身優等生に見えているはず。
大丈夫。
そう言い聞かせてトイレから出る。高校生になってからは制服を着てケンカもしてないし、着ててもいつも上にはパーカーを着てたからおれがどこの高校に通っているかバレていない。同じ高校には鬼が島の鳥居がいるからもしかしたら鬼が島の総長あたりは知っているかもしれないが、ただの雑魚であるおれを鳥居が話題に出すとも思えない。
時計を見ると、午後3時半。航平から無理やり借りた自転車にまたがり、おれはひとりジョンソンのたまり場へと向かった。
通り過ぎるだけだ。あまりにも和音さんが不利そうだったら警察を呼ぼうと最低なことは考えているけれど、そのような状況に陥り警察を呼んだ犯人探しをジョンソンがしたとしても出てくるのは真面目そうな高校生(若しくは中学生……)という目撃証言だけ。和音さんや、倉庫の奴らに迷惑は掛からない。だけど、なんとなくもう倉庫には近づけなくなるなと思った。
ジョンソンのたまり場である廃工場の手前で自転車から降り、ガリ勉らしく英単語帳を片手に自転車を押す。廃工場に近づいても、物音は聞こえてこず不審に思う。通り過ぎるだけだと決めていた足はダメだと思う気持ちを置いて工場内に入っていく。
途中、傷を負って仲間に肩を担がれた不良とすれ違った。焦ったが、支えている方の男がふと笑みを浮かべ、ここは危ないから離れな、と言ってくれた。傷だらけの不良がガキは帰って寝てろと吐き捨てる。まじか。本当におれ、中学生と思われてるっぽい。怯えたふりをして、帰りますと言いながら単語帳を自転車のかごに投げ入れて自転車にまたがる。
「そっち危ないよ」
不良の声に聞こえない振りをして爆走する。工場敷地内の奥に行くにつれて怪我をした不良が増えているようで、おれはとある倉庫の陰に自転車を隠し、見つからないように和音さんを探すことにした。もし自転車があることがバレて盗まれでもしたらその時は正直に航平に謝ろう。多分怒られて殴られるけどまあいいや。
カモメのジョンソンがたまり場にしている廃工場は無駄に広く、細々とした倉庫がいたるところに建てられている。廃材も置きっぱなしになっているから隠れながら進むにはとっておきだ。廃材を隠れ蓑に、慎重に奥へと進む。しばらく進むと、徐々に人のいる気配は強くなり、話し声も聞こえるようになっていた。
小さな倉庫の陰に隠れた時、明瞭に話し声が聞こえた。
「やっぱ和音って強えな」
「後2人か?」
「ああ。けどまじで和音って綺麗な顔してるからさあ、こう、正々堂々じゃなくても取り押さえてさー、一回みんなで何かしらやってみたかったよなあ」
「何かしらってなんだよ! ガチかよ!」
「だって女より綺麗じゃん?」
「でもんなことカナメさんが許さねえよ。あの人正々堂々厨だもん」
「あの人の月計画に沿ってればストレスも溜まんねえしなあ……。やっぱ従うのが一番か」
「ヤるならチーム関係なく個人的に行くしかねえだろうな。まあ、俺もお前も勝てねえだろうけど」
「今なら弱ってるから明日とかなら……」
「だから、んなことしたらカナメさんによる拷問の刑だよ」
「……やめとこ」
なんとも物騒でのん気な会話だが、少し安心する。今回の和音さんの挨拶も要という副総長が統率を取っているらしい。それならば、怪我はしてもずっと治らないようなものではない。最後だからといって要が羽目を外すようなやつじゃなくて良かったと心底思った。
人は考えも変わることがあるから100%信用はできないが、今はおとなしく待っていよう。航平の自転車は、誰もいなくなる明け方にでも取りに来ようと腰を上げた。
「けど、和音、スサノオにも行くんかな……」
上げかけた腰をまた下し、耳をそばだてる。敵対チームだというのに声は暗い。
「行くんじゃねえの。ていうか、行かんくてもスサノオの方から行くだろ」
「だよねえ。きれいな顔、ぶっさくならんきゃいいけどな」
「……そうだな」
敵にまで心配されるほど、スサノオはやばい。
どうにか回避する方法を考えないと。
そう改めて思った。
東町の北側にある公園に戻ってきたおれは、おとなしく和音さんを待った。おそらく和音さんはここを通る。帰る道はまだあるけど、ここを通るのが一番近いから。
正々堂々厨らしい要がいるから大丈夫だとは思う。おれは友達としてもそうだけど、倉庫のチームの一員としても和音さんの強さを信用している。どんなに疲れたって、二本の足で立てているうちは和音さんは負けたりしない。仲間意識なんてものが全くなく、協力という言葉も知らないようなおれたちのグループが今まで壊滅しないでやってこれたのは和音さんの強さのおかげだ。どんな不利な状況でも最後に和音さんが相手チームの頭を倒すから今まで潰れないでやって来れた。
個人では負けることがあっても、和音さんはチームとしてのケンカで今まで負けたことはない。普通は倒れるくらいの怪我を負っても、倒れるのは全部終わってからだ。
(精神的に、強いんだろうな……)
和音さんって強いね、と出会った頃から幾度と無く褒め称えていたのに、和音さんの強さの本質さえおれはわかっていなかった。和音さんがどうして強いのか、なぜチームとしての戦いで負けないのか、そんなことに思いをはせたことはなかった。
やはりおれはずっと自分勝手だった。
和音さんと一緒にいたいといいながら、和音さんを本当に知ろうとしなかった。倉庫に人が増えてから、おれは和音さんの気持ちを考えたことがなかった。和音さんを好きだという自分の気持ちでさえ必死に否定していたのだ。気持ちを騙しながら生きるのなんて、死んでいるのと同じ。その証拠に、和音さんの家にお世話になって約3週間、途中1週間くらいは和音さんと倉庫で過ごしたけれど、人生の半分以上がこの3週間に集約されている。自分の心を振り返り、本当の和音さんを見ようとしているからだ。
和音さんは今日は勝って、歩いて帰ってくるだろう。こう思い込み、緊張を隠すために英単語帳を開くが、なんだか文字すら読めない。諦めて気持ちのまま心配することにする。ベンチから和音さんが歩くだろう歩道を眺め続ける。
おれの心配は、それほど長く続かなかった。和音さんが戻ってきたのだ。
ひと目でわかるくらい彼はぼろぼろだった。たまに、ヨロけている。駆け寄りたい気持ちを抑え、立ち上がった。誰に見られているかわからないのだ。知り合いのていで近づいたらダメだ。
ふと、和音さんが公園内を見た。おそらく偶然だろう。たまたま見たのだ。
「……静」
遠く、声は聞こえないが和音さんがおれの名前を呼んだのがわかった。遠いし、いつもと違う格好に髪型をしているにもかかわらずわかっってくれたのが嬉しかった。
「大丈夫?」
「なんで……」
近づいてみた和音さんは怪我をしていないところがないくらい痛々しかった。ひとりで何人相手にしたのかわからないが、綺麗な顔にも傷があり、その中でも左目と左頬の腫れが気になった。口の中も切ったようで、口から顎にかけて血がこびりついていた。こめかみ付近も切っており、そこからからわずかに流れ出ている血が頬を伝い顎を通り、地面に落ちた。
「通りかかった真面目な高校生です、おれ。さあ、手当しましょ」
おれはそう言って、和音さんの背に手を回した。おれの意図を理解したのか、はは、と和音さんが呆れたように笑う。
おれたちはゆっくりと歩いた。自転車で全速力で走っても30分掛かる道をゆっくりと歩くから、おれたちの町に着くまでにはかなりの時間を要す。30分ほど歩いたところで、人気のない公園に立ち寄り、和音さんをベンチに座らせた。
倉庫から持ってきていたタオルを水道で濡らし、和音さんに渡す。
「どうも」
律儀に礼を言って、和音さんが顔を拭いた。タオルが血で染まる。
「気持ちいい」
「痛いの間違いでしょ」
「いや、久し振りに全力で運動したからすっきりしてる」
こほんこほんと咳をしながら言う和音さんは、強がっているのか本心を言っているのかわからない。体はかなりつらそうだ。
「よく歩けるね」
「戻ったら倒れるよ」
そういう和音さんは笑顔だけど目はうつろで、今はそれほど暑くないのに汗だくだ。熱が出たのかも。
「どっか骨折れてるんじゃない?」
「いや、俺、骨太だから大丈夫」
大丈夫じゃなさそうな和音さんが、俺へと寄りかかって来た。俺のシャツに和音さんに付いていた血が移り、どきりとする。
「ねえ、静」
「な、何」
「ちょっと、膝貸してよ」
「え!」
「ダメ?」
「だめじゃ、ないけど」
膝を貸している所を誰かに見られでもしたら、折角優等生に変装した意味がなくなると思った。でも、いいか。ケンカの最中に入っていって挨拶を邪魔するわけじゃないんだ。おれは「友達」をこっそり迎えに行っただけ。散々隠れてきたのに、髪まで真っ黒に染めたのに、おれはそれらを全て捨てて和音さんに膝を開放した。
「疲れた……」
和音さんが緩慢に体位を変え、寝るには短いベンチに横になり、おれの膝に頭を乗せた。膝が幸せすぎて自分のものなのに嫉妬する。やばい、おれ、おれの膝になりたい……。
もう一枚の濡らしたタオルで、和音さんの顔を拭く。
「傷にしみるんだけど」
「染みてなくても痛いでしょ」
「そうだね。結構、殴られた」
「避けるの上手なのに」
「数多すぎんだもん」
タオルを地面に置いたリュックの上に投げる。和音さんの額に掛かった前髪を上げると、頭突きでもされたのか、額まで青くなっている。なんとなく、撫でてみる。
「らぶらぶー」
「こ、こら、ジロジロ見ないの」
高い声にふと顔を上げると、公園を女の人と小さい子が通り過ぎるところだった。小さな女の子がおれたちを指さして母親に怒られている。
「ラブラブだって、静」
和音さんが笑う。
「だって、これ、膝枕っていうんだよ」
「知ってる。静肉がないからかあんまり気持ちよくない」
「そりゃあね」
「でも、体力回復にいい」
「……良くないって」
なんだか幸せそうにおれに撫でられている和音さんに不安が募る。和音さんの額を撫でながら、どうしようもないくらいの愛しさと、寂しさを感じる。
「今日、迎えに行けなかった」
「無理だよ。こんなことしてるなら」
「やっぱり、携帯持ってよ。不便」
「……次からはおれずっと校門のとこで待ってる。時間通りに来ないと、怒る」
「怒るの?」
「だから、挨拶なんてやめれば」
言っちゃいけないとわかっているのに、言った。和音さんが絶対に首を縦に振らないこともおれはわかっていたのに。
「もう無理だよ。だって、始めちゃったんだから。ジョンソンは俺の引退を認めた。形式的なケンカではあるけど、一応あっちの出した条件はクリアしたし」
「認めた……」
「今日のこと、すぐに広がるよ」
和音さんが引退するために挨拶回りを始めたという噂……。遅かれ早かれ鬼が島の桃原やスサノオの間宮の耳に届く。
「もう、始まったんだ」
和音さんが微笑む。顔の左側が腫れて崩れているけれど、それでも綺麗な笑みだ。だけど暗い笑み。この状況を楽しんでいるような、狂気的な感じも受けた。
何度目かの不安が体を突き抜けたが、和音さんの言うとおりもう始まってしまったんだ。それは、否定出来ない。