早寝記録

 和音さんが向かったのは、家ではなく倉庫だった。曰く、こんな顔で帰れない、と。気にしていないふりをしながらいつも和音さんを心配して待っている和音さんのお母さんと、渋い顔で和音さんを怒る遠野さんが浮かぶ。確かに、この怪我で帰ったらふたりの心配は最高潮だろう。

 まだ夕焼けすらも遠い夏の時間帯。にもかかわらず、おれたちの繁華街に人が消えることはない。暗くなる頃には仕事終わりのサラリーマンや仕事始めのけばけばしい女で賑わうが、今はおれたちのような世の中をなめきっている不良たちが大きな顔をして街を歩く。
 
 和音さんが「もう大丈夫」と言っておれの前に出て、支えなしで歩いて行く。おれは後ろからついていくが、和音さんの足取りはやはり重く、彼の体のいたるところに血が飛び散っている。擦れ違う人がみな二度見してしまうほど和音さんはぼろぼろだった。

「ここまでありがとう。静は先に帰ってて」

 やっと辿り着いた倉庫のドアの前で和音さんがおれを振り返る。ありがとうと言う言葉が非情なものに聞こえた。見えない線を引かれた感じ。まるで、おれがもう仲間じゃないみたいに聞こえたのだ。

「なんで? おれも入る。みんなに報告するんでしょ?」

 焦燥感を持って尋ねる。自分の声なのに遠く、かぼそく、情けなく聞こえた。

「入れたくないんだよ」

 和音さんから出た言葉に、やはりという思いとともに胸が軋んだ。
 和音さんがおれを大事に思ってるということはこの3週間で理解したつもりだ。彼は友達というよりも年の離れた兄のようにおれの世話を焼いてくれた。だけど、おれだって仲間だ。ずっと和音さんと倉庫にいた。雪の降る中二の冬に出会ってからおれたちの上を何度も季節が通り過ぎていった。
 倉庫で、たくさんの時間を過ごした。

「ひどいよ。おれだって」

 仲間なのに――
 だけど、言おうとした言葉が喉の奥でつっかえてしまう。
 和音さんと出会ってからもう4年が経った。倉庫に人が集まりだしてからだって、もう3年。
 それなのに、おれだって仲間だ、という簡単な言葉が口から出せなかった。
 倉庫のみんなの顔を思い出す。ナオ君が来てからみんな「仲間」を意識するようになった。ナオ君が来る前は本当に自分勝手やっていて、外とのケンカよりも仲間内での争いのほうが多かったしみんな楽しげだった。しかし、楽しげとは言ってもそこに絆や親愛などはかけらもなく、みんなただ暴れるのが好きで和音さんに惹かれてやってきたのだ。新たに誰が来ても今までいた誰がいなくなっても興味すら示さないやつらばかりだった。
 でも、彼らは変わった。
 そしておれは変わらなかった。
 倉庫に集まるメンバーの内、航平のように普通に話すやつもいる。けれど、おれはほんとうの意味で彼らの仲間にはなれなかったように思う。
 おれにはいつも和音さんだけだった。おれがみんなと倉庫という空間にいる理由は、和音さんがいるから――これだけだ。それは、初めも今もずっと変わっていない。
 そんなおれが、仲間だと言って良いのだろうか。

 何も言えないおれに対してか、体が辛いのかわからないが、和音さんがため息を吐く。それにさえ今のおれはショックを受けて、そんな自分に対して失望と怒りを覚えた。

「……ぶり返すけどピアノの発表会の時、手に怪我したでしょ」

 和音さんの言葉に、知らず手首を抑える。

「あれは、静が弱いせい。言ったの覚えてる?」
「……覚えてる」
「でも、静は俺と会ってなかったらケンカなんかしなかった」
「してたよ。おれ、和音さんと会う前だって危ないことしてた」

 今度は、中学生の時に色々と世話になっていた男の顔が浮かんでくる。
 だけど、和音さんにはおれがその時代に何をしていたかは言っていない。和音さんだけではなく、誰にも言っていなかった。
 おれのしていたことを知っているのは、ひとりだけだ。
 思い出そうとしたわけではないのに、そいつのことを思い出した。中学1年生の時に出会った真(しん)さんという男だ。彼は高校生で、バカだった。勉強はできないわけではないのに、あまり物事を深く考えようとしない人だった。
『生きていきたいならあんま考えんな』
 いつか真さんに言われた言葉が蘇る。金儲けの道具として使われたり気まぐれに遊ばれたり殴られたりと、真さんに恨みはあっても良い感情は全くなかったが、きっと、この言葉だけはおれのために言ってくれた。真さんから受けた唯一の優しさ。一体どういう流れでこういう会話になったのかは覚えていないけれど、薄暗いボロアパートの一室で、真さんがまぶしそうに窓の外を眺めていたのを覚えている。窓の外には何があったっけ。きれいなものも、きれいな景色も何もなかった気がする。

「ケンカとか、どうでもいい」

 過去の情景から抜け出し、おれは顔を上げた。傷だらけの和音さんが、黙っておれのことを見ている。傷だらけなのに、綺麗だなと思った。その美しさはおれの目を眩ませる。もしかしたら、今のおれはいつか見た真さんのように眩しそうな顔をしているかもしれない。眩しいからか、冷静な思考も光に包まれて見えなくなった。

「おれ……」

 なんていうつもりなのだろう。考えてしゃべっているのではなく、ことばを音にするのとほぼ同時に考えているのだ。
 昔のことを思い出して、なんだかおかしな感じになってしまった。まるで心の中に冷たい風が入っていって、渦を巻いているようだった。もう忘れたと思っていた真さんの顔。当時の生活。和音さんと出会った頃のこと。ふたりでいた倉庫。

「静?」

 突然、胸が締め付けられたように苦しくなった。幸せなことを考えろと自分に命令する。過去は考えるなともう一人のおれが囁く。ここはどこか思い出さないと。ここは、倉庫の前。そして、和音さんは怪我をしてるし、先に家に戻れと言われてる。
 どうすべきかはわからないけれど、話し続けたらだめだ。
 段々と理性が戻ってくる。このままだと、おれは自分の想いを全て和音さんにぶつけてしまう。おれが持っている負の感情全てを。
 こんな場所で、傷だらけの和音さんを前にして心情を吐露する真似だけはみっともないから止めた方がいい。絶対に後悔するから。
 それでなくても心の中を見せるのは、どんな場所でどんな時間であっても必ず後悔する――

 こう考えて、ショックを受けた。
 おれは今、最低なことを考えた。心の中を見せるのは、後悔する?

(ばかじゃないの?)

 ここにいるのは和音さんなのに。和音さんは、全部聞いてくれる。おれがどんなに嫌なことを言っても、たとえ泣き喚いてもちゃんと受け止めてくれる。

 おれは和音さんを信用していないのか?

 そんなはずはない。おれは、和音さんが大好きだし、信用も信頼もしてる。
 自分の気持を奮い立たせる。心を貫く風が強くなる。

 今までおれは和音さんのことが好きだとずっと言い続けて来た。大好き! とぶつかっていったり、へらへらしながら和音さんの良いところを並べ立てたりもしていた。
 その頃の自分と、最近のおれは違いすぎやしないか。和音さんはおれを気に入ってくれている。倉庫に入れたくないのだって、おれが受験を控えていて危ないことからできるだけ遠ざけるためだということをわかってる。

 おれは、わかってる。

 大丈夫。信用しろ。大丈夫だから。
 和音さんはおれを気に入ってくれてる。

(だけど、気に入ってくれたのは、昔のおれだ……)

 最近比較的自分を肯定的に考えられていたおれはなりを潜め、ネガティブだった頃の自分が一気に台頭する。

 和音さんが気に入っているのは、今のおれじゃなくて、へらへらしながら和音さん大好き! と叫んでいた時の軽いおれじゃないのか。このままじゃ嫌われる。
 笑おう。
 でも、今唐突に笑ったって多分変だ。どうしよう。ここで、どうするのが正解なんだ?

 自分の感情がわからない。考えがまとまらない。言っていいことと悪いことの取捨選択ができない。

「静、ひどい顔してる」

 ふいに頬に何か冷たいものが触れた。
 和音さんが手を伸ばしている。和音さんが、おれの頬に触れている。

「言えば?」

 和音さんが短く言う。聞く人によっては冷たく感じられるだろう声色。その温度のなさがおれには穢れのないものに思えて、いつも心地よく感じるのに、今はその声を聞くのさえ辛い。最低なおれに優しくしないで欲しかった。
 気持ちが弱くなり優しい和音さんに縋りつきたくなる。手が和音さんに伸びてしまう。
 でもおれの気持ちは汚くて、いつまでたっても自分を肯定できずに貶して繕ってばかりのおれはみっともなくて、自分自身を晒してしまうと絶対に嫌われる。
 和音さんに嫌われたら生きていけない。好かれたい。できることなら、愛して欲しい。

「そんな顔するってことは、言いたいことあるんじゃないの?」
「い、今、言ってる場合じゃない。ここ、倉庫の前だし、和音さん、おれを入れたくないって言ったし、おれ、仲間はずれじゃん」

 考えようとしても嫌われたらどうしようという方向にしか思考が向かなくて、言葉が意識を介さずに口から出た。その声は震えていて、まとまりがなく情けなく、口に出してからこれも言わないほうが良かったと悟る。
 それなのに和音さんは、ふふ、と小さく笑った。

「静、今子供みたいだった」
「ひどい」
「そうだね。ひどかったかも」

 ごめんね、と和音さんがやけに大人っぽく言った。きかない子供を諭すみたいに。

「疲れちゃった。どうせ中に入ったらもっと疲れるし、少し休む」

 和音さんはそう言うと、扉と反対側の壁に背中を預けて座った。それをおれは上から見つめる。

「静の考えてること、俺何もわからない」
「……大体は、心の中でも和音さんを褒めてる」
「ああ、そうなの?」

 和音さんがふわりと微笑む。痣と傷だらけの顔で穏やかに微笑む様には妙な色気があった。

「褒めてくれてるだけ?」

 おれの考えていること。おれが表に出さずに考えてきたこと。
 色んなことを考えて生きてきた。『生きていきたいなら考えるな』こういった真さんの言葉は真理だと思う。考えて、深く考えすぎると死にたくなる。無の世界に逃げたくなるのだ。
 おれは、色々なことを考えて生きてきた。
 だけど、その根っこにあるものはたったひとつだ。自分でも見ないふりをして来たのに、和音さんが優しく促してくれるからそれに甘えそうになる。言ったら嫌われるかもしれないんだ。言うな。

 こう思っても、告白して、和音さんに優しくされたいと思う気持ちが理性を上回る。
 言葉が音になる、その時――

「和音さん!」

 階段を駆け下りる複数の足音におれは開きかけた口を開けたまま振り返った。

「と、静!?」
「お前誰だよレベルで違う人じゃん! 黒髪と制服まじやべー!」
「って言ってる場合かよ! 和音さん大丈夫っすか!? 傷だらけ!」
「早く倉庫入りましょう! 手当手当」

 嵐のようにやって来た2人の仲間が和音さんを連行していく。おれは、彼らに背を向けて階段を駆け上がっていた。

 言葉になる前に彼らが来てくれて良かった。

 懐かしいものが腹の中に溜まっていく。それは、まるで雨雲。だけど、水分を含んだ灰色の雲が薄く重なり空を隠すが、雨は降り出さない。永遠に消えない雨雲は雨を降らすこともなければ決して晴れることもないのだ。出口のない迷路に迷い込んだような感覚だった。

 和音さんがおれの名前を叫んだ気がした。それが願望か現実かなんてわからない。


 走り出したおれに、行くあては無い。