雨
何を言うつもりだったのか、おれは知っているけれど考えないようにした。走って走ってとにかく走る。街中を全力疾走するおれを町の人が不審な目で見ている。
どこに行こう。
どうしよう。
和音さんは倉庫の中でまずは手当をされるだろう。急にいなくなって、もしかしたら追いかけてきてくれるかもしれないと思ったが、自意識過剰だ。
いつの間にこんなに自己評価があがったのかと、反吐が出る思いだった。
急に全てが色あせて見えた。
息が切れ、心臓がもう無理だと叫びを上げたところで、ようやく止まる。となり町の海沿いの道。振り返ると、海の向こうにおれがさっきまでいた繁華街が見える。やっと暗くなったというのに町は色とりどりのネオンによって輝いて見えた。和音さんの家からも随分と離れてしまった。
海の向こうのけばけばしい町とは異なり、今おれのいるところは随分と暗い。その道をとぼとぼと歩く。勉強道具がたくさん入った鞄が重かった。
今日はどこで寝ようか。寝ないで学校に行って、そこで寝ても良いかもしれない。金はあるからどこかに泊まることもできるが、どこにも行きたくなかった。
それからはあてもなくふらふらと色々なところを歩いた。同じ道も何度も通った。学校からもかなり離れてしまい、どこにも繋がらない電話で時刻を確認すると夜の10時。ただもくもくと5時間近く歩き続けられた自分にちょっと引く。
特に空腹は感じないが、コンビニでパンでも買おうと思った時だった。
住宅街の真ん中で何者かに後ろから拘束され口を塞がれた。すぐに路肩に車が寄り、後部座席に突っ込まれた。窓は黒いスモークが貼られ、外からは見えないようになっている。運転席からおれを覗き薄く笑っている軽薄そうな男も、おれを車に突っ込んだスキンヘッドの強面にも見覚えはない。どくんどくんと心臓が激しく脈打つ。内臓が口から出てきそうだ。
「早川静だな」
獣の唸り声みたいだと思ったのは恐怖のせいか。
「そうだよ」
恐怖で冷える頭に気づかぬ振りをしてなるべく普通に返すと、強面がほっとしたように息を吐き出す。
「良かった。誘拐犯になるところだった」
「もうなってんじゃん」
運転席の男が愉快な声を上げた。状況について行けず、おれは固まるばかりで男らを見つめる。はっとしたように強面の男がおれを見て、光る頭を下げた。
「悪い。遠野に言われてお前を探していたんだ」
「……遠野さん?」
「知っているだろう」
「知ってるけど……」
遠野さん。和音さんの家の使用人だ。趣味で使用人をやるほど暇で余裕があり、進藤家の人々のことが大好きな見た目ヤクザな男の人。
きっと逃げ出したおれを心配してか不審に思ってか、和音さんが遠野さんにおれを探すように頼んだんだ。それ以外で遠野さんが動く理由が考えられなかった。
「じゃ、出発しまーす」
運転席の男が軽快に言って、おれの知らない町から車を出発させる。
「どこいくの?」
和音さんの家だと言われたら、隙を見て逃げ出そうと思ったが、おれの考えていることがわかるはずもないのに、男は謝った後強い力でまたおれを取り押さえ、おれの手首に手錠を嵌めた。
自分の手首に光る手錠に言葉を失う。ずっしりとした重さ。形状。もう本物の手錠がどんなものか細部は忘れてしまったが、以前見た本物の手錠はこんな感じだったように思う。
「遠野の家にお前を連れて行く。逃げるかもしれないと言われているから、しばらく我慢してくれ。暴れるようならしかるべき――」
「暴れない」
「そうか……」
遠野さんの家ならまあ、いいか。そこに和音さんが来たら逃げるかもしれないけど、どうして自分があんなに大好きな和音さんから逃げるような真似をしているのか、自分でもあまり理解していない。今だって和音さんに会いたいのだ。ずっと一緒にいたいという気持ちはずっとある。だけど、会えない。口から出しちゃいけない言葉とかが出てしまうのを危惧してというのはわかるが、優しい和音さんに言っちゃいけない言葉があるとはやはり思えないのだ。
ガラス越しに流れゆく景色を眺める。暗い街だ。街灯とぽつらぽつらついている家の灯り以外に光はない。それ以外といえば、たまに設置されている自動販売機くらいか。窓の反射で、強面がおれを見ているのがわかり、強面を見ると、顔を逸らされた後、バツが悪そうな表情で強面がまたおれに目を向けた。
「大丈夫か?」
「何が?」
強面が何故かおれを心配するが、別に調子の悪いところもない。精神的には良い状態とは言えないが、悪くもないと思う。ひどく懐かしいような気持ち。ひとりでいた頃のような感じだ。
「いや……」
強面を困らせてしまった。
遠野さんの家は和音さんの家から離れているようで、車は和音さんの家とは逆を走っているらしかった。しばらく走り、馴染みのない地域までやってきた。
強面が電話を取り出し、どこかへと掛けている。
「遠野か。そろそろ着く。……ああ、出ていてくれ」
短い通話で目的地へと近づいたことを知った。車からの景色は先ほどと一変し、金持ちたちがこぞって住む高級住宅地へと来ていた。そういえば、前に和音さんが遠野さんを金持ちだと言っていたっけ。
車がおれには縁のない高級マンションの前で停車した。ぶかぶかのパーカーが肩からかけられたが、手錠を隠すためだろう。
「降りていいぞ」
運転手によって後部座席が開けられ、強面によって車から降ろされる。何階まであるかわからない高層マンションが目の前にあった。エントランスまでも結構遠そうで、そこに行くまでに家が何件か建ちそうだ。土地の無駄。金持ちは無駄が好きだけど、これは無駄すぎる……。
「静!」
無駄に思いを馳せていると、低い、もう聞き馴染んだ声が聞こえた。エントランスから歳相応の遠野さんが駆けて来る。今日は髪もオールバックじゃないし服装もカジュアルな普段着だから、老けては見えない。
「ほら。連れてきたぞ」
「ああ。ありがとう」
「別に、暇だからいいよ」
軽薄な運転手が笑い、強面を引き連れてまた車で帰っていく。
「……あの人達は?」
「仕事の仲間だ」
「そうだったんですか」
「寒いだろ、行くぞ」
「……寒くないです。夏だし」
「……良いから行くぞ」
遠野さんの眉間には皺がある。おれは遠野さんに抱きかかえられるようにして歩かされマンション内へと入った。いくつかのセキュリティを突破し、フロアへと進入する。最上階に住んでいそうな遠野さんのフロアは2階だった。それを指摘すると、高いところは苦手だという答えが返って来た。
初めて入った遠野さんの部屋は予想通りシックな感じで、黒を基調とした部屋はかなり落ち着いた雰囲気だ。まずはリビングに通され、ソファに座るように言われる。おとなしく座ると、ここで手錠を外された。
「二階だからって、逃げるなよ」
「……逃げないです。ていうか、何で逃げるって思うんですか」
遠野さんが疲れたようにおれの隣に腰をおろした。
「静が和音君から逃げるなんて余程のことがあったのだろうと思って」
「別に、なんにもなかった……」
「なかった?」
怪訝そうに遠野さんが訊いてくる。
だけど、言葉を見つけられずにおれは黙った。遠野さんには申し訳ないけれど、ここで頭を整理することにした。
おれが逃げ出した理由。和音さんから離れたわけ。
じっと考えると、鍵を掛けて奥の奥へと仕舞いこんだ自分の心が段々と見えてきた。
さっき和音さんに寂しい、と言ってしまいそうだったから、おれは走り出したのだ。
春に和音さんがピアノを倉庫に持ってきてくれてから、徐々に和音さんとの距離が近くなっていった。和音さんが家に招いてくれてからは本当の友達のようになったと思う。
自分の都合の良い幻想を和音さんに当てはめて、和音さんのことを何も知ろうとしなかったことにも気がついたし、自分の気持ちも見つめられた。
だけど今思えばおれは盲目だった。和音さんの傍は居心地が良すぎて幸せすぎて、何も見えていないことに気がついていなかった。
それがふいに崩れた。
さっき、きっと和音さんはおれの心に迫ろうとしてくれた。おれがずっと前からひとりで抱えているものを共有してくれようとした。
おれは、怖気づいて逃げ出したのだ。心の中を見せるのが怖くて、逃げ出した。おれは昔、人を信じられていなかった頃から全然変わっていない。おれの全てだと言っても過言ではない和音さんからも逃げたのだから。
和音さんなら受け止めてくれる。
本当に?
和音さんならおれの話を聞いてくれる。最後まで真剣に聞いてくれる。
でも、もし失望したような顔をされたら?
和音さんを、本当に信じていいの?
和音さんだって人間だ。心が見えない人間だ。
人間は、裏切る――
溢れだした疑問はおれの偽りなき気持ちで嫌気がさした。こんなことを思ってしまう自分が嫌いだ。だいっきらいだ。死ねばいいのに。どうせ生きてたって誰にも喜ばれない。おれは自分が嫌いだ。面倒だから、静かな子でいてほしいという適当な気持ちで名付けられた名前も、ネガティブな性格も、嘘つきなところも、顔も体も全部大嫌いだ。
肩を抱かれる感覚。見上げると、少し困ったような複雑な表情をしている遠野さんが目に入り、すぐに消える。ぼやけた視界が不思議だったが、なんてことはない。おれはただ、よくわからない感情で泣いているだけだ。