続・遠野さん
「なんか、もう嫌になっちゃった」
強がるのも不自然で、曖昧なことを言ってその場を濁そうとするが、遠野さんは他の人とは違って同情はせず不満そうに眉をひそめるだけだ。そのくせ、おれの肩を抱く腕は力強い。おれが和音さんを好きじゃなくて、根っからのゲイだったら多分惚れてた。
「笑ってる」
遠野さんが言う。
「え?」
「顔。泣いてても笑ってるってなんだよ」
「はは。よくわか、んね」
敬語がないことに気がついたが、口を開けば嗚咽が漏れそうで長い文章は言えそうにない。気づけば和音さんと出会ってからもう3,4回は泣いている。実は、泣き虫だったのだろうか。止めようと思っても止まるものではなく、笑っているのに気付いたらもう笑えなくて、遠野さんが逃げないのをいいことに仕方なく繕わない顔で遠野さんに身を任せる。おれを守るようにして回してくれている腕に安心感を覚えた。こんな感覚は初めてだ。父親がいたらこんな感じなのだろうかと、まだ30代前半の遠野さんに失礼なことを思った。
「好きなだけ喋って泣いて、寝てくれ」
遠野さんが困ったように言った。
「慰め方がわからない」
遠野さんを困らせていることはわかっているが、どうすることも出来なかった。遠野さんは優しいが、思ってることを好きなだけしゃべるのなんて無理だし、泣きつかれて眠るなんてガキじゃあるまいし絶対にありえない。
離れたほうが良いだろう。でも、今のおれに遠野さんの体温はまるで麻薬で手放したくない。
「そういや、何で泣いてんだ、お前」
「知らない」
今更な遠野さんの疑問に答えて鼻をすする。
「嫌になっちゃったから泣いてんのか?」
「嫌だよ」
「何が?」
遠野さんはおれの肩を抱き、手でポンポンとリズムよく叩いている。規則正しく優しい手の動きに、涙は出るが嗚咽は止んだ。慰め方がわからないといったくせに、彼の手はおれを慰めるために動いている。
「遠野さんには関係ない」
右手で遠野さんの服の裾をつまみながら生意気なことを言うが、遠野さんは短く笑っただけだった。
「関係あるだろ」
「ないよ」
「ねえか?」
「うん」
「じゃあしょうがねえなぁ。関係ある和音くんにでも言って、慰めてもらえよ」
「そんなこと、できない」
「関係あるだろ、和音くんは」
「……ない」
「じゃあ、逃げる必要なんてあったのか?」
尋ねられて考える。
おれは、和音さんに心の中を見せたくなくて逃げ出した。だから、逃げる必要はあった。だけど、こんなこと遠野さんにはまさか言えない。言って、和音さんにおれがこう言ってたって話されてもいやだ。泣いたことも誰かに言われるのは嫌だったが泣いてしまったから仕方ない。
おれは、人間不信がちっとも治っていないのだ。
自分では深く考えたことがなかったけど、人に話したことは絶対に誰かに伝わると思っているらしい。
遠野さんはもしおれがこれから遠野さんに何かを相談したとしても誰にも言わないだろう。そうは思う。だけど、面白がって誰かに話すんじゃないかなんて信じられない想像をおれはするのだ。
和音さんは大丈夫。
遠野さんも大丈夫。
でも、どうしておれは信じ切れないんだろう。
信じてしまえば楽だ。ひとりぼっちだという思いも消えて、楽になる。
どうして信じられないのだろう。
どうして……。
「別に、しゃべんなくてもいいけどよ」
「――っ」
正面から抱きしめられ、背中をぽんぽんと叩かれる。優しくするのはやめて欲しかった。遠野さんも、遠野さんのたいせつな和音さんのことも信じられないおれに彼が優しくする義理はない。
それなのに、おれはいやしくも遠野さんにしがみついた。自分よりも大きな男の人の腕の中は心地よく、おれはまたはらはらと涙を流したのだ。
おれは狡く、最低だ。遠野さんの熱を感じながら目を閉じた。
***
信じられないことにいつの間にか眠ったのか、気がついたらふかふかのベッドに横たわっていた。目の前は暗い。夢だろうか。そもそもが夢だったのか。でも、どこからどこまで?
暗闇の中ゆっくりと起き上がる。おれが覚えていることが夢でないならば、ここは遠野さんの寝室だろう。ベッドがあるから。なんかもう消えたい。
ひとりで寝るには大きすぎるクイーンサイズのベッドと、クローゼット以外に物がなく、時計は壁に設置されているが、まるで壁の一部のように部屋に溶け込んでいた。
「2時……」
無意識につぶやいていた。見ると、おれはぶかぶかのパジャマを着せられ、着ていた制服は綺麗に畳まれて枕元にある。遠野さんでもパジャマを着るのか……とすこし驚く。
長い時間泣いたからか頭が痛い。ずきんずきんと病む頭を抑えながらドアへと向かう。逃げるわけではない。疲れたし、逃げたってきっとまた捕まってしまう。どうせ行くとこなんかないのだ。学校を辞める勇気も理由もないから高校には通い続けるし……。
それに、おれは逃げたっていずれ和音さんの所に戻る。今だって、会いたい。
ドアを開けると、広いリビングに出た。暗いからよく見えないが、遠野さんがソファで窮屈そうに眠っているのが目に入る。服装はパジャマではなく長袖のシャツに薄いスウェットのようなものだ。音を立てていないはずなのに、遠野さんが起きたのがわかった。
「ごめんなさい」
「……何が?」
「……起こして」
「別に良い」
遠野さんが起き上がる。眠い、と言って髪をかき混ぜている姿がなんか男らしく見えた。
「何か食べるか?」
「2時だし……良いです」
「2時? まだそんなもんか。風呂は?」
「2時だし……良いです」
「……俺がお前くらいの頃の2時っていったらなあ……まあ、この話は良いか。じゃあ寝ろ。和音君からは学校に連れてってやってくれと頼まれてるが、明日は無理しないで休んでもいい」
「やっぱり和音さんから連絡行ったんですね」
ドアの近くに立っていたが、少し迷って遠野さんのいるソファに近づく。暗がりの中の遠野さんの影が頼りだ。
「いて!」
途中でテーブルらしきものに脛をぶつけた。暗順応にはまだ時間が足りないのだ。
「バカじゃねえの」
遠野さんに腕を引かれ、ソファに座らされる。そう思うなら電気を付けてくれればいいのに遠野さんにその様子はなく、彼は暗闇の中手探りでテーブルの上にあるタバコを探し出し火を付けた。ぼっという音とともに遠野さんの顔が照らされる。普段はオールバックにしている前髪は目にかかるくらいに伸びており、後ろに流している髪の毛も自然に降りている。顔の造りも男らしく整っているし、煙草をつける所作も格好良い。
「過保護すぎって少し説教した」
心のなかで褒めた時、遠野さんが面白そうに切り出した。
「え?」
「和音君。事情は全然わかんねえけど、だから逃げられるんだぞ、と。囲いすぎるとどんな奴でも逃げていく」
遠野さんが、は、と掠れた声で笑う。
「睨むなよ」
「……睨んでないです」
「そうか」
「すいません……」
謝ると、遠野さんにタバコの煙を顔に吹きかけられた。慣れない煙におもいきりむせる。周りがどれだけ吸っていても、タバコと酒は飲んだことがない。勉強を頑張って生きてきたのに、脳あたりに悪影響を及ぼすかもしれないと思ったから。
遠野さんの手からタバコを奪い、吸ってみる。遠野さんは特に抵抗もせず手を放した。
少し吸って、肺に収め、煙を口から出してみる。細く白い、頼りない煙が空気にまじり消えてゆく。
「まずい」
「そうか? 慣れるぞ」
「慣れなくていいや」
遠野さんの口にタバコを突っ込む。
「お前、明日はサボれ。進学校だか知らねえが、俺が親なら今日のお前みたいな顔した子供を学校にはやらねえ」
「……どんな顔?」
「放っといたらどっか行きそうな顔。憔悴っつうの? 17,8のガキには似合わねえ顔だな」
「和音さんが迎えに来てくれるんです。おれなんかを毎日送ってくれる」
「和音君には言っておく」
「明日行かないって?」
「しばらく預かるって」
遠野さんがなんでもないことのように言って灰皿に短くなったたばこを押し付けた。
「……は?」
「しばらくお前は家にいろ。ここから学校通え。和音君には俺から言うから」
「……どうして」
「和音君は優しいが、優しすぎる。大事だと思ったら箱入り娘もびっくりするほど箱に入れて、鍵を掛けて外に出さない」
「和音さんが優しいのはおれもそう思うけど、それだけ聞いたら和音さん危ない人みたいだ」
「ガキの面倒をガキが見ることはできねえ。少しでも間違えたらふたりともだめになる」
言うべき言葉を探しているおれがおかしいのか、遠野さんが短く笑って続ける。
「一回和音くんと距離を置いて、普通の生活をしてみろ」
「え……」
「んな不安そうな顔すんなよ。学校帰りとかに普通に会って遊べばいい。逃げてもいいが、捕まえる。仲間だけは多いんだ」
「でも……」
「常識的な行動したいんだろ。この前言ってたよな」
「それは……」
以前遠野さんにご飯をごちそうしてもらった時に言った記憶があった。友達の家に何日も続けて泊まるのはいけないことだと言ったおれに、遠野さんはなんて言ったっけ?
「普通の友達になりてえんなら、そりゃ毎日いないほうが良いとは思うよ」
遠野さんは普通を強調して言うと、たばこをまた一本取り出した。
「ほら、見てろ」
そうして、両手の親指と人差指でタバコの両端を摘むと、むにむにとタバコを端から手に収めていく。
ぱっと、遠野さんが手を開いた。タバコはない。
「どうだ、すげえだろ、覚えてえだろ。教えてやるよ、時間かけて」
「……いらない」
種知ってるし、と興ざめなことを言うと、遠野さんが子供みたいに笑った。
「なんだよ、つれねえなあ」
遠野さんが役目を果たしたたばこを箱に収める。
「……和音さん、怒ってました?」
聞いてみると、遠野さんはまさか、と首を横に振った。
「全然怒っちゃいなかった。安心しな」
弱く頭を叩かれる。
「もう寝ろ。ベッド使っていいから」
「遠野さんが使ってください。……おれ、ここで良い」
「逃げそうだからなあ」
「逃げない」
「ベッドでけえから一緒に寝るか」
「え?」
そう言って立った遠野さんに引っ張りあげられ手を引かれる。
「俺ピュアだから襲うなよ」
遠野さんがおやじくさく笑った。