早寝記録

懐く

 和音さんに会いたい。だけど怖い。

 逃げ出してしまったことが後ろめたく、会った時に弱くなってしまう自分が見えて恐ろしい。
 会いたいけれど、会うのが怖い。

 遠野さんに捕まった翌日、遠野さんに引き止められたけれどおれは学校に行った。学校に行って、勉強でもして気を紛らわせたかったのもあるし、夏休みに入ってから毎日送り迎えをしてくれた和音さんの顔が浮かんでしまったのもある。ここでおれが休んだら、さらに和音さんを裏切ってしまう気がしたのだ。

 遠野さんは、渋るおれを無理やり車に乗せて、学校へと送ってくれた。遠野さんが何を生業にしているかはわからないが、何が何でも送っていくと壁際まで追い詰められた時におれは敗北を悟った。何をしても逃げられないと思ったのだ。きっとそれは動物の本能。おれは温室育ちのリスで、遠野さんは海のずっと向こうにいる野生のライオン。そのくらい歴然とした力の差を感じた。

 そんなことを経て、また、なるべく和音さんのことを考えないようにしておれは学校に来た。髪の毛を黒くしたことでそんなつもりはないのに教師たちからは無駄に褒められ温かい目を向けられるし、クラスメイトからは騒がれてホームルームもそこそこに選択化学の模擬試験を受けるために、ひとり四階にある教室へと向かう。

 四階へ上がったところで後ろから肩を叩かれた。

「おはよー、あれれ? 元気ねえなあ」
「鳥居か……」
「顔色悪いよ? まさか勉強のしすぎ……!」

 大げさに仰け反る鳥居がうざったくて、腹に弱めのパンチをあげる。鳥居はまた大げさに痛がった。なんかほんとにうざい。

「ていうか、鳥居何でいんの? しかも、理系棟から来てんじゃん」
「えー! 静いるかなあと思って走って理系棟まで来て階段を駆け上がったんだよ! 髪変わっても後ろ姿でわかるとかこれって愛の力だと思う?」
「……はは」
「なんだよ! ノリ悪いんですけどー。俺すっげー走ったのに」
「理系棟の階段使わなくてもさ、普通に文系棟から来た方が早かったって」
「まあいいじゃねえの。はじきも苦手なんだよ、俺さあ。頭使うの嫌いでねえ、算数もあんま好きじゃねえの。英語とか国語は答え大体書いてあるから楽で好き」
「算数……」
「反比例で挫折したわ」

 ケラケラと笑う鳥居と並んで歩く。聞くと、今の自分の実力を知りたくて模試を受けることにしたらしい。朝一で教師に掛け合ったら受けられることになったとか。
 なんだか、普通に受験生をしている鳥居がキラキラと光って見えた。

「ところで、静学校終わった後ヒマ? ヒマなら化学教えて!」
「……いいよ」
「え!? まじ!?」
「なに。なんで驚いてんの?」
「進藤君迎えに来るから勉強なんて教えてらんねーとか言われるかなと思ってたからさー」
「約束したじゃん。教えるって」
「でも昨日帰ったー、何も言わずー」
「昨日は……」
「って、知ってるけどね。進藤君、ジョンソンのとこ行ったんでしょ?」
「うん」
「まあ、要君がいるからね、あそこは」

 話している内に目的の教室まで着いた。別に遅れたわけでもないのに教室はほぼ埋まっていて、空いている席は窓際のスポットライトかと突っ込みたいほど太陽光を一身に浴びている席と、教卓の真ん前数席くらいだった。

 悩んで、スポットライトに当たりに行くと、鳥居も当然の顔をして付いてきた。確かに長机で2人分空いてはいるが……。

「何? 何? 良いじゃん一緒に座ったってさー」
「ダメって言ってないよ」
「なんか言ってた、顔が。俺理系に友達すくねーのにさー。ひでえよー」
「一年の文系理系別れてない頃のとかいるじゃん」
「実を言うと、文系にも少ねえのフヒッ」
「フヒって何」
「照れ隠し。友達すくねえのって恥ずいじゃん」

 席に着く。鳥居に窓際を提供する。ブーブー言いながらも鳥居は笑顔で着席した。少しの罪悪感が生まれる。

「多そうだけどね、友達」
「まじ? そう見える?」
「明るいからね」
「俺暗いよ~超暗いの。家帰ったら部屋でおもちゃのクラゲばっか見てる。部屋暗くして」
「それは暗い」
「フヒヒ」

 また変に笑う鳥居を横目で眺め、筆記用具を用意する。

「静の買ってくれた参考書、100回は読んだよ」
「そう。わかったでしょ、化学の大体」
「わかんねーよ」

 笑顔のままで鳥居が言う。

「でも、暗記のとこは覚えたし、100回やって答え覚えたから問題も解ける」
「偉いね」
「でしょ」

 ここでチャイムが鳴り用紙を抱えた教師が入ってくる。鳥居が来たねとヒトコト言って黙った。そうだねと返しておれも黙る。おれは鳥居を邪険にしているようだけど、鳥居といるのは落ち着いた。もしかしたら他の人に対する時のようなテンションで初めから鳥居に接しなかった分楽なのかもしれない。彼は鬼が島だし、こんなこと恥ずかしくて本人には言えないけれど。
 鳥居自身は自分のことを暗いというが、おれには明るくみえた。だけど、やはり本当は鳥居の言うとおり暗くて、だから人付き合いが下手くそなおれでも普通にしていられるのかもしれないとも思った。

 テスト時間が終わり、解答を配り終えた教師が教室から出て行く。10分間の休み時間の間に自己採点を行うのだ。隣の鳥居はひどくげっそりしていた。
 各々自己採点を行っていくが、隣の鳥居がうわうわ言っていてうるさい。覗きこめば、うわうわ言う割には半分くらい丸が付いている。

「すごいじゃん。おれ教えなくてもよくねえ?」
「良くねえ。2次試験で化学8割行きたいんだよね」
「化学にどんだけ力注ぐの」
「絶対合格したいんだ。市内の国立」
「市内?」
「そう。実を言うと、理系の学部に行きたい」
「はあ。そりゃまたなんで」

 苦手なのに、と不思議な顔をして言うと、鳥居が恥ずかしそうに答えてくれる。

「だって、あそこの大学、文学部とか、文系の学部の生徒みんなちゃらいって噂なんだよ。で、この前オープンキャンパス行ってみたら、本気でちゃらいの」
「……別に、関わんなきゃいいじゃん」
「いやだよ。雰囲気が違った。俺、楽しく真面目に勉強したいの。理系はなんか黒髪多いし真面目っぽくてヲタっぽかったから、そっち行きてえって思って」
「おたっぽいって……」
「真面目な文系の学校ならこんなに悩まないんだけど」
「行けばいいじゃん。家出ちゃダメなの?」
「良いけど、俺が行きたくねえの」
「へえ」
「静は出んの?」
「出ねえよ。行く気ねえし、金もない」
「じゃあ俺と一緒?」
「行くとしたらそうかもね」

 それなら良いなと鳥居が笑う。純粋な好意に思え、なんだか照れる。この前毟り取りたいと思ったほくろを撫でてやりたくさえなった。でも想像してみて気持ち悪くなる。和音さんだったらいくらでも撫で回したいんだけど。

 和音さん、大丈夫かな。怪我酷かったし、今どこかにケンカふっかけられたらきっと勝てない。

 また和音さんのことを考え始める。しかし、おれのネガティブな思考を断ち切るように都合よくチャイムが鳴り、教師が教室に入ってきた。