水色の名
常識と倫理は教えてもらった。普通とルールも教えてもらった。色々な概念を学んだ。
人を殺しちゃいけない。暴力を振るってはならない。自分よりも弱いものを守る。
人の生き方も知ってる。生まれたら名前をもらい、子どものうちは学校に行き、大人になり働いて、結婚して子どもを作り名前をつけ、歳衰えて死んでいく。これが人生らしい。
けれど、と思った。おれはいつ殺されるかわからない。昨日だろうか、それともその前の日か忘れたが、オーナーお気に入りの猛獣を試合中にうっかり殺してしまって、殴られて死にそうになった。あ、3日前だ。多分。3度、鉄格子の外に陽を見た気がする。何もしない一日が長すぎるのか短すぎるのかさえわからない。いつになったら出ていいのだろう。出たってまた何かわからない大きいものと戦わされるだけだけど、ここよりはいい。
改めて室内を見る。打ちっぱなしのコンクリート造りの狭い部屋。簡易式のトイレはあるがその他は何もない。トイレを除けば、丸まって寝るだけのスペースしかなく、常に漂う臭気と閉塞感に早々に気が狂う奴もおかしくないと聞く。おれもここは嫌いだが物心ついた時からいるから慣れた。きっと、人が生きるにはクソみたいな環境に身も心も慣れてしまったのだ。
みんなおれのことを闘技者と呼ぶ。与えられている番号はあるがたまに変わるから名前とか、自分を示す記号などはない。
殴られたところも、鞭打たれて裂けた背中も病むからまだいつものように動ける自信はないけれど、そろそろ訓練とか実践をしなければ体と勘が鈍ってしまう。ぼんやりと、罰を受けているのだろうかと思う。これが罰だとしたら、弱ったところをいきなり試合に出される。そうしたらおれは終わり。あいつみたく手足がばらばらになって、気まぐれに食べられて、最後はゴミと同じように清掃員に掃除される。いやだなあと思った。どんな奴が来ても勝つ自信がある。体が思い通りに動いてくれたらおれは何にも負けない。
だけど、これ以上ここにただ置かれたら負ける自信がある。
死にたくない。だっておれは、常識も倫理も、普通ということも社会のルールも知ってる。人の生き方も知ってる。人を殺したことはないから、おれはここから出られたらちゃんと人として生きていける。名前がないし、学校に行ったことがないから、そこが少し不安ではあるけれど。
体育座りをした膝に顔を埋め、目を閉じる。視界が真っ暗になった。そうしたら、円形の闘技場のほぼ中心に落っこちた手が鮮明な画像となって目に浮かんだ。あいつの手だ。とたんに気持ち悪くなる。強く目をつぶり、歯を食いしばる。トイレに吐いてしまいたかったが、わずかに与えられる食物を吐き出すのはもったいなく、我慢した。
言葉を交わしたことのある者の死。同じような境遇で、あいつもおれと同じように「先生」から常識とか、人の生き方を教えられた。いつか人として生きていくと言っていたのに、あいつの死に様はおれたちが教えられた普通の死とはかけ離れていた。今まで色々なものの死骸を見てきたが、あれはあまり慣れない。日常になっているが、生理的な嫌悪感がもたらされるのか、瞬間的に嫌なものがこみ上げる。
それに、少し、なんという感情かよくはわからないけれど、もう会って言葉を交わしたり動いている姿を見られないのだと思うと、変な気持ちになる。決して良くない気持ちだ。
「おい」
声が聞こえ、顔をあげたら眩しかった。窓を見上げると、太陽が丁度丸く見えるところまで上がっていた。
「おい、聞こえるか」
ひとつ遅れて声に脳が反応する。「先生」の声だ。
「先生」
「そうだ、よくわかったな」
声に、笑いが含まれて、おれも笑ってみる。困ったときに笑えばなんとかなる、と「先生」は言っていたから、おれは困ったとき以外はあまり笑わないようにしていた。笑うと、困っていなくても困った気になるのだ。
「先生、どこにいるの?」
めったに来ないけれど、彼はいつもならドアの外にいるのだ。たまに、ご飯を運ぶ係になった時に、ドアの下に少しだけある隙間からご飯と一緒に話をくれる。しかし、今はドアの向こうからではなく、他のところから声が聞こえる。
「窓の外だよ」
「外?」
普段ならば、外には見張りがいるはずだ。いないのはおかしい。でも、思えば今日は静かだった。風に草が凪ぐ音と、遠くで「普通」が出す音くらいしか聞こえていない。
「なあ、お前、外に出たいか?」
「え?外?出たいけど、いつも」
「そうじゃねえよ。普通になりたいかって聞いてんの」
「普通に?なりたい」
即答すると、「先生」が楽しそうに声を上げて笑った。
「そうか、じゃあ、出してやる」
「ほんと?どうやって?」
「その前に、出たら一つあることに協力するって約束するか?」
「それって、死ぬ?死ぬならおれ、出ないよ」
「死なねえよ。お前、強いだろ。ちょっと戦うことになるかもしんねえが、もしかしたら戦わなくてすむかもしれねえ」
「よくわからないけど、死なないなら良いよ」
そうか、と「先生」が言った直後、窓とは反対側にあるドアがいきなり開いた。窓に寄って話していたおれは何事かと思い、振り向いた。ここの従業員の制服を来て、ベレー帽を斜めに深く被った男がおれに銃を構えている。
殺されるなら殺さないと、と思ったが、人殺しになってはならない。人殺しになると普通に生きられないから。
「俺は先生の仲間だ。一応両手を出せ」
偉そうに男が言った。後ろから、言うこと聞いとけ、という「先生」の楽しげな声が聞こえ、おれはおとなしく従った。出された手に、闘技場に連れて行かれる時に付けられる鉄製の手錠が掛けられる。
来いという男に従い、牢の廊下を歩き、驚いた。閑散としている。いつもなら、見える位置に銃を持った職員が立っているのに、前にも後ろにもいないのだ。
「誰もいないね」
「ああ」
男は、それ以外は何も言わなかった。人気のない廊下を歩き続け、不気味なほど静かなロビーを通りぬけ、建物の外に来た。ここにも誰も見えない。門を出て、車とかいうものの後ろに乗り込むと、「先生」がいた。
麦わらの帽子をかぶり、派手なシャツを着て、いつもと同じ無精髭を顎に散らしている。清潔な印象は受けないが、おれも人のことは言えない。髭とか毛が薄いから汚く見えないだけで、シャワーに突っ込まれたのはもう何日も前だ。そういえば、死んだあいつが言っていた。髪とまつげに全部栄養が行ったのかもなって。先生のひげとか半ズボンから出た足に生えるすね毛を見て、そうかもしれないと今更思った。
「なあ」
じっと「先生」の足を見ているおれに、彼の真剣な声が降りかかる。男は前の座席に座りじっと前を向いていた。初めて劇場の外に出れていろいろ外の景色を見たかったが、どうやらそんな場合ではないらしい。大人しく「先生」を正面から見る。やけに真剣な目だ。先生の目は鉄格子の窓から見える澄んだ日の空の色をしている。それが翳った。雲が太陽を隠したのだ。
「おれがやることって何?」
なあ、と言ったきり何も話さない「先生」を促す。この時、すでに嫌な予感はしていた。試合でたくさんの死線をくぐり抜けて来たけれど、おれの勘は鈍い。戦いにおいての判断は悪くないと思うが、たぶん、おれは「先生」についてくるべきではなかった。
「言う通りに行動して欲しい」
「するよ」
でも、もう外に出てしまったから言うことを聞く他はない。
そのあと、「先生」はおれに指示を出した。チカガイの底にある何かを壊して欲しいとかなんとか。とにかく、示された場所に行って示されたものを壊すだけだ。そこにたどり着くまでに苦労するかもしれないということを言っていたが、実際やってみるとそんなに苦労はしなかった。人も、ひとり殺すまでは大変だったが、そのあとはどうということもなかった。
チカガイとは、地下に作られた巨大な町のことだった。行って驚いたが、かなりたくさんの人がそこにいて、生活しているようだった。「先生」たちとこのチカガイに来るために何時間も地上を走ったが、地上よりもチカガイの方がたくさんの人がいるように見えた。
おれが「先生」に言われた地下の底にある物体を壊した瞬間、警報機が鳴り響いた。けたたましい音で、試合を開始するときのファンファーレよりもやかましく、不快な音だった。それから、振動とともに遠くから轟音がして、おれはわけがわからないまま逃げ惑う人々と共に地上に上がった。その直後、おれが出てきた階段から水と、たくさんの人が吹き出して来て、はじめておれが壊したものの正体がわかった。
これから、どうしよう。
逃げるのに成功した人々は、散り散りに散ってゆく。チカガイへと続く階段の周りには、人がきができているが、見回しても「先生」はどこにも見つからなかった。
おれは、常識を知っている。人の普通の人生も知っている。だけど、こういうときにどうすればいいかわからない。聞いただけの常識では、なんの役にも立たないらしい。笑ってみようか。困ったときには笑ったらなんとかなるって「先生」は言った。
いや、まずは「先生」を探そう。
人垣にまみれ、改めてあたりを見回すと、高くて長い建物が目に入った。けれど、あそこに上ったって高すぎて「先生」を探せない。そうして見ると、ちょうどいいような高さの建物が見つかった。そこの建物の人もみんなこの事態に建物の外に出て野次馬となっているようで、誰にも気付かれずに正面の玄関から建物の中に進入することに成功、そのまま階段を使い、おれは屋上へと上がった。屋上には鍵がかかっていたが、少し力を入れたら容易に壊れた。
「すごいな……」
今の状況も忘れ、屋上からの景色に目を奪われる。眼下に見える小さな人たち、まるで作り物のような小さな木や建物。上を見上げれば、いつも見ていた空とは違い、雲もなにもかも近く、吸い込まれそうな気がした。しばらくぼうっと上を見る。ゆっくりと雲が流れるのを見て、うらやましいと思った。
「こうしちゃいられない……」
名残惜しかったが、空から目を背ける。屋上の塀ギリギリのところまで寄り、野次馬たちを見下ろす。どこかに「先生」はいないだろうか。
おれは人を殺してしまったからもう普通には生きられない。
常識やルールは教えてもらったが、それを破ったらどうなるかを聞かなかった。だから教えて欲しいのだ。闘技場に戻されるのか、違うのか。
ただ、物を知らないおれでも自分の置かれた状況が自由とはかけ離れた所にあることはわかった。
闘技場でも、ルールを破れば罰がある。だから、おれにもなんらかの罰が待っているだろう。
しかも、人を殺したのだ。経験上、罰はやったこと以上の苦痛をもたらされるものだ。死ぬ以上の苦痛とはなんだろう。考えれば考えるほど気が滅入る。
「……はは」
塀に寄りかかり、笑ってみる。なんとかなるかな。
……ならないだろうな。
人を殺しちゃいけない。暴力を振るってはならない。自分よりも弱いものを守る。
人の生き方も知ってる。生まれたら名前をもらい、子どものうちは学校に行き、大人になり働いて、結婚して子どもを作り名前をつけ、歳衰えて死んでいく。これが人生らしい。
けれど、と思った。おれはいつ殺されるかわからない。昨日だろうか、それともその前の日か忘れたが、オーナーお気に入りの猛獣を試合中にうっかり殺してしまって、殴られて死にそうになった。あ、3日前だ。多分。3度、鉄格子の外に陽を見た気がする。何もしない一日が長すぎるのか短すぎるのかさえわからない。いつになったら出ていいのだろう。出たってまた何かわからない大きいものと戦わされるだけだけど、ここよりはいい。
改めて室内を見る。打ちっぱなしのコンクリート造りの狭い部屋。簡易式のトイレはあるがその他は何もない。トイレを除けば、丸まって寝るだけのスペースしかなく、常に漂う臭気と閉塞感に早々に気が狂う奴もおかしくないと聞く。おれもここは嫌いだが物心ついた時からいるから慣れた。きっと、人が生きるにはクソみたいな環境に身も心も慣れてしまったのだ。
みんなおれのことを闘技者と呼ぶ。与えられている番号はあるがたまに変わるから名前とか、自分を示す記号などはない。
殴られたところも、鞭打たれて裂けた背中も病むからまだいつものように動ける自信はないけれど、そろそろ訓練とか実践をしなければ体と勘が鈍ってしまう。ぼんやりと、罰を受けているのだろうかと思う。これが罰だとしたら、弱ったところをいきなり試合に出される。そうしたらおれは終わり。あいつみたく手足がばらばらになって、気まぐれに食べられて、最後はゴミと同じように清掃員に掃除される。いやだなあと思った。どんな奴が来ても勝つ自信がある。体が思い通りに動いてくれたらおれは何にも負けない。
だけど、これ以上ここにただ置かれたら負ける自信がある。
死にたくない。だっておれは、常識も倫理も、普通ということも社会のルールも知ってる。人の生き方も知ってる。人を殺したことはないから、おれはここから出られたらちゃんと人として生きていける。名前がないし、学校に行ったことがないから、そこが少し不安ではあるけれど。
体育座りをした膝に顔を埋め、目を閉じる。視界が真っ暗になった。そうしたら、円形の闘技場のほぼ中心に落っこちた手が鮮明な画像となって目に浮かんだ。あいつの手だ。とたんに気持ち悪くなる。強く目をつぶり、歯を食いしばる。トイレに吐いてしまいたかったが、わずかに与えられる食物を吐き出すのはもったいなく、我慢した。
言葉を交わしたことのある者の死。同じような境遇で、あいつもおれと同じように「先生」から常識とか、人の生き方を教えられた。いつか人として生きていくと言っていたのに、あいつの死に様はおれたちが教えられた普通の死とはかけ離れていた。今まで色々なものの死骸を見てきたが、あれはあまり慣れない。日常になっているが、生理的な嫌悪感がもたらされるのか、瞬間的に嫌なものがこみ上げる。
それに、少し、なんという感情かよくはわからないけれど、もう会って言葉を交わしたり動いている姿を見られないのだと思うと、変な気持ちになる。決して良くない気持ちだ。
「おい」
声が聞こえ、顔をあげたら眩しかった。窓を見上げると、太陽が丁度丸く見えるところまで上がっていた。
「おい、聞こえるか」
ひとつ遅れて声に脳が反応する。「先生」の声だ。
「先生」
「そうだ、よくわかったな」
声に、笑いが含まれて、おれも笑ってみる。困ったときに笑えばなんとかなる、と「先生」は言っていたから、おれは困ったとき以外はあまり笑わないようにしていた。笑うと、困っていなくても困った気になるのだ。
「先生、どこにいるの?」
めったに来ないけれど、彼はいつもならドアの外にいるのだ。たまに、ご飯を運ぶ係になった時に、ドアの下に少しだけある隙間からご飯と一緒に話をくれる。しかし、今はドアの向こうからではなく、他のところから声が聞こえる。
「窓の外だよ」
「外?」
普段ならば、外には見張りがいるはずだ。いないのはおかしい。でも、思えば今日は静かだった。風に草が凪ぐ音と、遠くで「普通」が出す音くらいしか聞こえていない。
「なあ、お前、外に出たいか?」
「え?外?出たいけど、いつも」
「そうじゃねえよ。普通になりたいかって聞いてんの」
「普通に?なりたい」
即答すると、「先生」が楽しそうに声を上げて笑った。
「そうか、じゃあ、出してやる」
「ほんと?どうやって?」
「その前に、出たら一つあることに協力するって約束するか?」
「それって、死ぬ?死ぬならおれ、出ないよ」
「死なねえよ。お前、強いだろ。ちょっと戦うことになるかもしんねえが、もしかしたら戦わなくてすむかもしれねえ」
「よくわからないけど、死なないなら良いよ」
そうか、と「先生」が言った直後、窓とは反対側にあるドアがいきなり開いた。窓に寄って話していたおれは何事かと思い、振り向いた。ここの従業員の制服を来て、ベレー帽を斜めに深く被った男がおれに銃を構えている。
殺されるなら殺さないと、と思ったが、人殺しになってはならない。人殺しになると普通に生きられないから。
「俺は先生の仲間だ。一応両手を出せ」
偉そうに男が言った。後ろから、言うこと聞いとけ、という「先生」の楽しげな声が聞こえ、おれはおとなしく従った。出された手に、闘技場に連れて行かれる時に付けられる鉄製の手錠が掛けられる。
来いという男に従い、牢の廊下を歩き、驚いた。閑散としている。いつもなら、見える位置に銃を持った職員が立っているのに、前にも後ろにもいないのだ。
「誰もいないね」
「ああ」
男は、それ以外は何も言わなかった。人気のない廊下を歩き続け、不気味なほど静かなロビーを通りぬけ、建物の外に来た。ここにも誰も見えない。門を出て、車とかいうものの後ろに乗り込むと、「先生」がいた。
麦わらの帽子をかぶり、派手なシャツを着て、いつもと同じ無精髭を顎に散らしている。清潔な印象は受けないが、おれも人のことは言えない。髭とか毛が薄いから汚く見えないだけで、シャワーに突っ込まれたのはもう何日も前だ。そういえば、死んだあいつが言っていた。髪とまつげに全部栄養が行ったのかもなって。先生のひげとか半ズボンから出た足に生えるすね毛を見て、そうかもしれないと今更思った。
「なあ」
じっと「先生」の足を見ているおれに、彼の真剣な声が降りかかる。男は前の座席に座りじっと前を向いていた。初めて劇場の外に出れていろいろ外の景色を見たかったが、どうやらそんな場合ではないらしい。大人しく「先生」を正面から見る。やけに真剣な目だ。先生の目は鉄格子の窓から見える澄んだ日の空の色をしている。それが翳った。雲が太陽を隠したのだ。
「おれがやることって何?」
なあ、と言ったきり何も話さない「先生」を促す。この時、すでに嫌な予感はしていた。試合でたくさんの死線をくぐり抜けて来たけれど、おれの勘は鈍い。戦いにおいての判断は悪くないと思うが、たぶん、おれは「先生」についてくるべきではなかった。
「言う通りに行動して欲しい」
「するよ」
でも、もう外に出てしまったから言うことを聞く他はない。
そのあと、「先生」はおれに指示を出した。チカガイの底にある何かを壊して欲しいとかなんとか。とにかく、示された場所に行って示されたものを壊すだけだ。そこにたどり着くまでに苦労するかもしれないということを言っていたが、実際やってみるとそんなに苦労はしなかった。人も、ひとり殺すまでは大変だったが、そのあとはどうということもなかった。
チカガイとは、地下に作られた巨大な町のことだった。行って驚いたが、かなりたくさんの人がそこにいて、生活しているようだった。「先生」たちとこのチカガイに来るために何時間も地上を走ったが、地上よりもチカガイの方がたくさんの人がいるように見えた。
おれが「先生」に言われた地下の底にある物体を壊した瞬間、警報機が鳴り響いた。けたたましい音で、試合を開始するときのファンファーレよりもやかましく、不快な音だった。それから、振動とともに遠くから轟音がして、おれはわけがわからないまま逃げ惑う人々と共に地上に上がった。その直後、おれが出てきた階段から水と、たくさんの人が吹き出して来て、はじめておれが壊したものの正体がわかった。
これから、どうしよう。
逃げるのに成功した人々は、散り散りに散ってゆく。チカガイへと続く階段の周りには、人がきができているが、見回しても「先生」はどこにも見つからなかった。
おれは、常識を知っている。人の普通の人生も知っている。だけど、こういうときにどうすればいいかわからない。聞いただけの常識では、なんの役にも立たないらしい。笑ってみようか。困ったときには笑ったらなんとかなるって「先生」は言った。
いや、まずは「先生」を探そう。
人垣にまみれ、改めてあたりを見回すと、高くて長い建物が目に入った。けれど、あそこに上ったって高すぎて「先生」を探せない。そうして見ると、ちょうどいいような高さの建物が見つかった。そこの建物の人もみんなこの事態に建物の外に出て野次馬となっているようで、誰にも気付かれずに正面の玄関から建物の中に進入することに成功、そのまま階段を使い、おれは屋上へと上がった。屋上には鍵がかかっていたが、少し力を入れたら容易に壊れた。
「すごいな……」
今の状況も忘れ、屋上からの景色に目を奪われる。眼下に見える小さな人たち、まるで作り物のような小さな木や建物。上を見上げれば、いつも見ていた空とは違い、雲もなにもかも近く、吸い込まれそうな気がした。しばらくぼうっと上を見る。ゆっくりと雲が流れるのを見て、うらやましいと思った。
「こうしちゃいられない……」
名残惜しかったが、空から目を背ける。屋上の塀ギリギリのところまで寄り、野次馬たちを見下ろす。どこかに「先生」はいないだろうか。
おれは人を殺してしまったからもう普通には生きられない。
常識やルールは教えてもらったが、それを破ったらどうなるかを聞かなかった。だから教えて欲しいのだ。闘技場に戻されるのか、違うのか。
ただ、物を知らないおれでも自分の置かれた状況が自由とはかけ離れた所にあることはわかった。
闘技場でも、ルールを破れば罰がある。だから、おれにもなんらかの罰が待っているだろう。
しかも、人を殺したのだ。経験上、罰はやったこと以上の苦痛をもたらされるものだ。死ぬ以上の苦痛とはなんだろう。考えれば考えるほど気が滅入る。
「……はは」
塀に寄りかかり、笑ってみる。なんとかなるかな。
……ならないだろうな。