早寝記録

さよなら現世

 真っ暗闇を抜けた先にはだだっ広い空間が広がっていた。そこにはたくさんの大きな箱が等間隔で並んでいる。箱は2、3メートル程の正方形だろうか。見るだけでは構造を知ることができなかったが、おそらく広い部屋に幾数もの箱が置かれ、箱と箱との間が通路になっている。天井は暗くて見えないが、それぞれの箱から漏れ出る光がこの空間を照らす光源となっているようだ。
 一つの箱を通り過ぎたらたちまちまた別の箱が現れる。全くと行っていいほど変化のない景色だが、おれはきょろきょろと、変化を探すように視線を巡らせていた。
「なんか見てみる?」
前を行く柊に訊かれた。しかし、彼は返事を待たずにおれをひとつの箱の前へと促した。どれも一緒に見えるが、彼は敢えてこの箱の前におれを導いた気がした。彼には中に何が入っているのかわかるのだろうか。
それでも、そんな疑問はどうでも良い。この環境下の疑問を解決する必要などおれにはないのだ。おれは柊の強引な振る舞いに異議を唱えようとした。
だけどなぜか、不満を声に出す前におれは自分の目線あたりに小さな穴が開けられていることに気が付き、そこから目が離せなくなってしまった。
「覗き穴だよ。この中に見世物がいるんだ。今の時間は生きてるけど死んでるやつらしかいないけどね。こいつらは意思も何もないからずっと箱の中にいるんだよ」
「どうでもいいけど。……何が入ってんの?」
 おれの質問に、柊が覗き穴からちらりと中を覗く。顔と顔とがくっつきそうなほど近くに柊の顔がある。狐面に開けられている目の穴から彼の顔が少しだけ見えた。見間違いじゃなければ眉間に皺が刻まれている。
「……大百足。きもちわるい。見てみてよ」
「見たくねえ」
「そうだよね。俺も後悔しちゃった」
 虫嫌いなんだよね、と言いながら柊は箱と箱との間を縫うようにして進んでいく。薄暗い室内。箱の中の光が、覗き穴と箱のわずかな隙間から漏れ出る以外、灯りになるものはなかった。
「何か見る? 虫じゃないのもたくさんいるよ。足の化け物とか、なんか知らないけれどおぞましいものとか」
「いい」
「綺麗なものもいるけど」
「見たくない」
 茶化されるかと思ったが、意外にも、柊はばかにするでもなくすぐに引き下がった。
「じゃあいいや。団長のところに行こう。俺としては会いたくないけど、やっぱり一応挨拶しないとね」
 柊が笑う。団長か……と想像を巡らせてはっとした。何をおれは普通に話しているんだ。そもそも、いつからこんなふうに話すようになっていたっけ?
 感じているものは不安だった。おれはここ数十分―数時間かも知れないが―記憶力がとても悪くなっているのを認識していた。記憶力といえばいいのか、自分が自分じゃなくなるような、自分で自分をコントロールできない状態だ。
 なにを馴染んでいるんだ。お前はそんなに素直な男だったか。自らを叱咤するが、効果があるとは思えない。色々な考えが浮かんではすぐに違うものに変わってしまう。ひとつの思考が頭に留まることはなかった。そんなおれの葛藤を感じ取ったのか、柊が笑みを引っ込めて、同情するような、わずかに切なげな声色で言う。
「大丈夫、すぐに慣れるよ。そういうふうにできてるから」
「……できてる?」
「ま、気にしないこと。ね!」
 柊の口調に軽さが復活した。彼は飄々としている。出会ってすぐは陽気でうるさい奴という印象を受けたが、今では笑っていても、その時感じた子供らしさがすっかりなくなっている。まさか演技だったのだろうか。一旦そう思うとそうとしか思えなくなる。会ってすぐの柊のあの子供っぽさはおれを騙すための演技だったのだ。しかし、結局は強引に引っ張って来られたのだから演技だとしても成功とは言えない。おれは自らの意思で来たのではないのだから。
「あれ?」
 おれは、山道で感じたあの浮くような感覚に襲われた。足元が覚束ない。立っているだけなのに地に足がついていない気がして踏ん張るが、よろけてしまい、柊に支えられる。そしてまた記憶が抜け落ちたように少し前の過去があやふやになった。
「どうしたの?」
 柊が口元に笑みをこしらえて尋ねてくる。狐面から覗く彼の目は笑っていない。きっと、笑みを浮かべた状態が彼の普段の状態なのだろう。ぼんやりとする意識の中でちらりと思った。
「大丈夫? 何かあった?」
「わからなくなった。何がわからなくなったんだろう……」
「何だろうねえ」
 何かがあやふやになった。わかることを考える。
「……舜」
 舜。舜だ。あいつは今どこにいるのだろう。祭りに一緒に来たのだ。そうだ。おれは祭りに来ていた。そうして柊と出会って、ここに連れて来られたんだ。会いたい。寂しい。心細い。いつも一緒にいてくれたのに、なぜ今いないんだろう。寂しかった。泣きそうになるのを、わずかな理性でなんとか堪える。
「舜?」
「そうだよ。舜。おれ、はぐれたんだ。探さないと」
 口に出すと、一瞬恐怖が消えた。舜もひとりだとしたら、おれを探しているはずだ。それならば、戻って探さないと。舜と合流できるなら、あの暗い山に戻るのも厭わない。
「探し人なら尚更団長に会わなきゃね」
「でも、山に……」
「死ぬだけだよ」
 彼ははっきりと言い切った。常に口元を飾っていた笑みも消えている。
「考えてみて。君はどこから来たの?」
「え……?」
 問われて考えるが、出てこない。祭りに来ていた。しかしおれはその神社の名前すら知らない。
「一体どこからあの山に来たのか。それもわからず戻ったって死ぬだけだと思わない?」
 柊の口元に笑みが復活する。
「行こうか」
 柊に手を取られ、そのまま引っ張られる。おれは抵抗せずに足を進めた。柊と箱と箱との間を進んでいく。さっき覚えた寂しさが消えてしまいそうで、それがどうしようもなく恐ろしい。
気を紛らわせようと外に意識を向けたが、基本的には静かな空間に、箱の中から人か獣の呻き声みたいなものが聞こえてきて、余計気分が塞いだ。
やがて箱が途切れ、大きめの扉が現れた。扉の上には錆びた看板がかけられ『団長の部屋』と書かれた可愛らしい文字が踊っている。
「団長が待ってる」
 柊に促され、一歩だけ進んだ。目の前に扉がある。おれは何も考えていなかった。ただ、扉に視線を彷徨わせたら把手があったから、いつまでたっても扉を開けようとしない柊の代わりに自分で把手に手をかけたのだ。これが当然の行動だろう。扉は開くためにあるのだから。ひんやりとした把手を掴んだ時に我に返り、しっかりしろ、と心の中で叫ぶ。こんなの普通じゃない。しかし、普通じゃないという意識は確かにあるのに、自分の意思に反して、思考が止まり体が動く。掴んだ把手がやけに冷たかった。じんわりとした暑さに辟易していたのに、背筋に悪寒が走る。開けてはいけないと思いながらも、おれの手は団長の室内へ入るため冷たい扉を開けていた。