早寝記録

初掃除

 深夜零時に見世物小屋は開店する。客は異形、夢の世界から拐かされた哀れな人間など。客が入っていない時は静かでほんのりと暗い空間が、零時になった途端生き物のように変わってしまう。暖かさと言い知れぬ不気味さを醸し出す橙の灯は、客の盛り上がりと同調するかのように様々な色に変化し、耳を澄まさなければ聞こえもしない陰鬱な祭り囃子は、愉しい祭りを飾り付けるほど愉快な旋律に変わっていた。それに客の出す騒々しい音や、激しい演目を披露する見世物の箱から届く爆発音などが加わり、好きでここにいるのではないおれにとっては全てが毒で、耳を塞いでも尚届く不快な光や音に神経をやられる。
「大体二時まで。時と場合によっては少し長くなるけど、二時半には終わってるよ」
 柊はおれの手を引きながら、異形や人がごった返している狭い通路をするすると通り抜けていく。柊から借りた狐面を付けているから視界は狭いが、それでも一度見たら忘れられないようなおぞましい化け物の気配はわかる。面を付け、手を引かれているのを良いことに、おれは目を閉じた。何も見たくないからだ。
「二人になったら楽になるなあ。認めたくないけど俺、本当に掃除って苦手だし。でも汚れてると気になるから無駄に時間が掛かるんだよねえ。……あ。そういえば凌平学ランじゃん。掃除向きじゃなくない? 稲様の甚平あるっけ。お祭りっぽいし動きやすいけど、ああ、サイズが合わない」
 返事もしないし口出しもしないが、柊の声に意識を集中させていた。化け物じみた異形たちの声は恐ろしく、人間たちの声は不快極まりない。それなら、柊の声を聞いていたほうがずっと良い。おれは彼に連れてこられたけれど、おれには柊しか頼れる存在がいないのもまた事実。それに、嫌おう、恨もうと思っても、どうしても心から嫌いにはなれない。
 ふと、火事のような焦げた臭いが鼻について目を開ける。一つの箱の前に黒山の人だかりができており、無数に開けられた覗き穴から黒煙が漏れ出てきている。覗き穴から中を覗いている異形や人間たちは、この場に似合わぬ純粋な歓声を上げていた。
「何、あそこ」
 おれの質問に、柊が足を止めた。
「火野兄弟の箱。火吹き芸だよ。双子なんだけど、兄のほうが火を吹いて、弟がその炎を吸い込むんだ。派手だから、人気がある」
「そういう普通のもあるんだ」
「気持ち悪いばかりじゃないよ」
 柊が振り向いた。ずらされた狐面から覗く口元には、やはり笑みが浮かんでいる。
「凌平もそのうち分かる。受け入れた方が楽だっていうこと」
 どんな気持ちで彼は俺にこの言葉を告げたのだろう。笑顔が彼の心を隠している。
「何か見てみる? ここにいることが許されたからには、ここがどんなところなのかを知る義務がある。だから連れて来たんだけど」
「……見ない。でも掃除はやるよ。いいだろ、これで」
 柊が黙る。彼の周りだけ時間が止まってしまったようだったが、火野兄弟の箱からはさらに大量の黒煙が立ち上がり、それと同じだけ大きな歓声も上がっている。
「帰ろっか」
 ぽんと柊が言った。
「俺達の部屋にさ」
 時が止まっていた間に彼が何を考えたのかなんてさっぱりわからない。だけど、なんとなく今の柊は本当に笑った気がした。
「おれはあんたの部屋に住み着いた覚えはないよ」
 なんとなくもう戻れないことはわかっていたが、戯れのように口にする。手だってずっと繋いだまま。けれど、振りでも反抗しなければ、おそらくおれはいなくなってしまう。
 声を出さずに柊が笑った。おれはそれに何も言わず、来たばかりの道を引き返す彼の背を追った。

 暗い山道を照らす裸電球。いや、あれは提灯だったか。
 おれは確かに歩いてここに来たはずだ。それなのに、どうやって来たのか忘れてしまった。別に大事なことではないのかもしれない。おれが誰で、どうしてここに辿り着いたのか、もしかしたら知る必要がないから忘れてしまったのかも。
「適当に濡れたモップで床をこすって、乾いたモップでまたまたこすり、最後適当に掃きますー。それから各箱を箒とかで適当に掃除します。頑張ってやって、終了!」
 モップを担いだ柊が揚々と教えてくれる。モップの先からはぽたぽたと水が滴り床に水たまりを作っていた。
「短い説明の間に適当って言葉が何回かあったんだけど……」
「え?」
「え? って、どういう反応だよ」
 見世物の箱が置かれている空間の隅に、学校にあるような掃除用具が入ったロッカーが設置されていた。柊はそこからモップや箒など掃除用具一式を引っ張り出し、ロッカーの脇にある水道からバケツに水を汲んだのだった。それだけでも彼の適当さがわかってしまうくらい、ひとつひとつの動作が雑だった。しかも、彼は特別面倒臭がったり、敢えて粗暴にしている様子はなく、おそらく、ただひたすらに不器用なのだ。
 おれは溜め息を吐いて、柊が壁に立てかけた――と言っても床に転がってしまったけれど――一応立てかけようとした箒を拾い上げた。それから雑巾と水が入ったバケツを持って、彼に背を向ける。
「りょ、凌平?」
「柊は床やってろよ。おれは箱の中に行くから。今の時間って見世物入ってないんだろ」
「置物っぽいやつしか入ってないけど、やり方、初めは付きっきりでとかじゃなくていいの?」
「大丈夫」
 付いてもらわなくても、柊よりは上手にできる気がしていた。後ろから柊が寂しそうな声を上げるが、おれは構わず進んだ。
 見世物の入った箱はざっと三十はある。昨日火野兄弟の箱から上がった黒煙を見たが、派手なのは火野兄弟だけではないだろう。だとしたら、手早くやらなければ掃除にかなりの時間が掛かるはずだ。営業終了後見世物が出て行ってから再び戻って来るまでが掃除の期限。悠長にやっている時間はない。
 振り向くと、柊がモップで床を水浸しにしていた。たどたどしく手を動かしているから、掃除をしているつもりらしい。それがなんだかおかしくて、おれはひとりで笑ってしまった。
「って、笑ってんじゃねえよ……」
 笑ってから、自分が置かれた状況を思い出し、緩んだ顔を引き締める。おれは掃除なんかしたくない。祭りに戻る道を誰かから聞き出して、舜の所へ帰るんだ。
 現実感のない望みだった。確かにおれはこれを望んでいるはずなのに、決して届かぬ夢のような感覚で願っている。ひどい焦燥感を覚え舜の顔を思い出そうとするが、いつでも鮮明に思い出せるはずの彼の顔が、頭の中でぼやけて見えた。
「舜……」
 敢えて声に出してみる。そうしてようやく舜が実在する人間だと思えた。彼はおれの妄想なんかじゃない。今は混乱していて顔を忘れているだけで、再会できたらなんで忘れていたのだと笑えるはずだ。
 大丈夫。家族も家も学校も忘れてしまったが、舜だけはまだおれの中にいる。いつも一緒に居てくれた。ずっとおれなんかの傍にいてくれたあいつを忘れるはずがない。忘れられるわけがない。
(忘れたくねえ……)
 自然と手に力が入る。
「凌平? どうしたの? そんなとこで立ち止まって」
 声が掛かりはっとして振り向くと、すでに袴を水で濡らした柊が心配そうに立っていた。
「あ、か、考え事してただけだよ」
「……大丈夫?」
「何が」
「いや、素直だから……。弱ってんのかなあって」
「あ」
 言われて気が付く。
「戻ってから聞かせて。……俺で良かったらだけど」
 取り繕う前に、柊がか細い声で言ったからおれは何も言えなくなってしまった。
「本当は今聞きたいけど、今日初めての二人での掃除だからさ、汚かったり、時間に間に合わなかったらちょっとまずい。なんとかして、団長に気に入ってもらわないといけないんだ」
 柊は持っていたモップに縋るようにして立っていた。彼はいつものように口元に笑みを浮かべているけれど、面を付けていないからいつもは隠れている目元がよく見えた。
「お前……お面付けてた方が良いよ」
「え?」
 柊が勢いよく俯けていた顔を上げる。
「目は口ほどにものを言う、だっけ? そんな感じ」
 おれの言葉に、柊は笑みすら引っ込めて黙り込んだ。
「忘れたくない友達がいるんだよ。そいつのこと考えてた」
 柊が困ったような、不思議な顔でおれを見つめる。そして彼は、何かを言いかけてやめるような仕草を何度か繰り返した。
「……掃除しよう。柊、モップに水付けすぎだからそこ気をつけろよ」
 言って、おれは彼に背を向けた。