火の車
ここ数日間柊と共にいてわかったこと。柊は団長に怯えている。団長に対する不満などを言ってはいるけれど、団長の話をする柊の表情には恐れがあるように見える。怖い人なのだろうか。初日以来彼には会っていない。柊曰く、団長が誰かに暴力を振るったり、貶めることはないらしい。それなのに柊は確かに団長に怯えている。おれにはどうして彼が団長に怯えているのか、その理由がわからなかった。
「凌平」
一人で掃除をしている途中、背後から声をかけられた。振り向くと、あの美しい異人さん――団長が笑顔で立っていた。
祭りの夜から数日が経ち、おれは毎日柊と見世物小屋の掃除をしていた。なんでこんなことを――と、疑問に思うことも多いが、思考が何者かに盗まれるような感じで、最後には「まあ、いいか」と諦めてしまうのだ。
「凌平は掃除が上手だね。柊が一人でやっていた頃は怒ってばかりだったけれど、凌平が掃除したところには塵ひとつないよ! 本当に君と出会えてよかった」
美しい顔をくしゃりと歪めた団長はたまらなく嬉しそうだ。自然と生じた喜びに、おれはなんとなく、もうだめかもしれないと思った。ここに来てから、おれはどうして自分がこんなにもこの状況に馴染んでしまっているのだろうと、毎晩毎晩考える。反抗の気持ちだってあるはずなのに。自分のことなのになぜなのか全くわからなかった。だから、もうだめなのだと思う。おれの無意識が受け入れているのだ。引き返すことはできない。
「凌平、どうしたの?」
「なんでもない、です」
「そう?」
敬語を使ってしまう従順な自分が気持ち悪い。団長が目を細めておれを見詰める。白い頬に、きらきらと光る金色の髪の毛が一筋落ちた。本当に綺麗な人だ。ともすれば下品に見えそうなきらびやかなピンクの着物が、彼が着るとこれ以上ないくらい上等なものに見える。
前の方でことりと音がして、おれはいつの間にか俯かせていた顔を上げた。
音は、団長が出していた。彼は自慢気に口角を上げておれを見つめながら、ノックをするようにゆるく壁を叩いていた。壁とは箱の側面のことで、夜になるとそれぞれの箱の中に見世物が入る。
「凌平はなにか見たことあるの?」
すぐに、見世物のことだとわかった。
「ないです」
「見たくないの?」
団長の質問におれは言葉を詰まらせた。ここ数日間、日中を掃除の時間に充て、それ以外はずっと柊の部屋にいた。日中、箱の中の見世物たちがどこに行っているかはわからないが、掃除をしている間はただのひとりにさえ会うことはなかった。
だからおれにとっての提灯小屋は美しい団長と、柊しか無い。あとは、話に聞いただけの雅ちゃん。
見世物に興味がないわけではない。しかし、見るのが怖かった。ろくろ首に蛇女など、見世物小屋にはいくつかの定番がある。しかし、それはあくまでも偽物で、ろくろ首はからくりだし、蛇女にいたっては名ばかりの、蛇を生きたまま噛みちぎるという蛇食い女。
見世物小屋はニセモノだ。けれど、それがいいのだと思う。見物客は別に本物が見たいのではない。「本物かもしれない」という気持ちを持ちながら本物のような偽物が見たいのだ。偽物ならば誰も傷つかない。本物ならば救いようがない。
そういえば、前に舜が救いのない残酷な物語を読んでいたことがあった。趣味が悪いと言うと、よくあるような現実的な話を好んで読んでいる方が趣味が悪いと言われた。彼は、自分では想像すらできないような世界を探していた。だからといって、彼の読んでいた誰も幸せにならない話は読みたいと思わないが、想像がつかないようなものを求める気持ちは少しだけわかる。
おぞましい姿形をしていても、嘘だと思えば笑える。嫌悪できる。しかし、それが本物となるとどうだ。
おれは、首の異様に長い人間を見たくない。鱗を持つ女の醜い姿を見たくない。
「色々なものがあるよ」
おれの胸中など知らず、団長が満足気に話し始める。
「おれの今のお気に入りは、手男。手に足が生えてるんだよ。どうして手男かは見てのお楽しみ」
団長がむふ、と笑った。
「あとはね、人と犬のハーフ。あ。ありえないと思った? それがね、ここではありえるんだよ。何でもありだもの。ハザマだから。間なの。どことどこのって? それはおいおいわかるか、ずっとわからないかだね」
団長がうっとりとした表情で、まだ何も入っていないはずの箱に顔を近付け、覗き穴から中を覗いた。何もない空の箱を眺め独り笑いをする姿が、なんだか変態臭いと思った。きっと団長は危ないやつだ。
何もないを堪能したのか、箱から顔を離した団長は、誰もが見惚れるであろう満面の笑みをおれに向けた。
「犬と人とのハーフはね、失敗作って感じで結構エグイんだ。けど、物好きたちには人気だよ。ねえ、見てみる?」
「見ないです」
きっぱりと断ると、団長があからさまに残念そうな顔をした。
「なんだ。つまらない。けど、まあいいや。凌平、よく働いてくれてるし。少々チキンだけど、俺は個性を尊重したいというすばらしき個性の持ち主だから。残念だけど。コレクションを見せたい、いや、見せびらかしたいっていうのは人間誰にでもあると思うんだ、どの時代でも。だから大層残念だけど、仕方ないね。あ、さっき俺、個性を尊重するって言ったけど、大抵の場合ね。尊重したくない、むしろ破棄したい人とかいるから。しかも近くの遠くに!」
よく喋るな、と思った。本当によく喋る。
一刻一刻、おれは状況に適応していた。日常へ戻りたいという気持ちはない。思えば、初めからなかったかもしれない。数日間で一番初めに感じたどこかに売り飛ばされるんじゃないかとか、ひどい目に遭うかも知れないという憶測はすっかり消えてなくなった。
痛いのやら苦しいのは嫌いだ。だが、それがないならいい。元々、どこにも居場所なんてなかったのだから。もうあまり覚えていないが、帰る家も心休まる場所もなかったような気がする。ぽっかりと穴の空いた寂しい心が、おれにそう告げた。
それならば、つまらない、現実感しか無い日常から抜けだして、リアリティのない、おかしな世界に生きるほうがいい。
そうだ、現実より、よほど良い。
とある少年の顔がちらりと脳裏によぎるが、一瞬で記憶の彼方に飛んでいく。その記憶を惜しいと思う隙もなく、未だしゃべり続ける団長の声を遠くに聞きながら、おれはまた一つ現実を捨てた。