窓の中
箱の中を掃除していたら人形が話しかけてきた。
そんなことはあるはずなく、しかし一瞬だけ本気で思ってしまった自分が悔しい。
実際は、箱の外から誰かが話しかけてきたのだ。おれは、足元に転がるうさぎの人形を避けて、小さな小窓へと顔を近づけた。
目線の高さくらいにある小さな窓。見世物が入ると窓が閉められ、代わりに覗き穴が取り付けられる。
「や。はじめまして」
窓の向こうには、道化師のような格好をした青年がいた。格好のせいか作り物のような笑顔に思え、なんとなく柊を彷彿とさせる。
帽子こそあのにわとりの鶏冠のようなとげとげしたものではなく、大きめのベレー帽だったが、服装はまるでトランプに描かれているジョーカーだ。奇抜な化粧はしていないが、彼の目の下には控えめな雫型の黒いペイントが施されている。綺麗な男だと思った。もしかしたら思ったよりもずっと若いかもしれない。
「……はじめまして」
「君、柊がどこにいるか知らない?」
青年がさっきと同じことを同じ口調で尋ねた。
「知らない」
答えながら、なんとなく、ここに来てからはじめて柊と団長以外と言葉を交わしたということを意識した。それなのに、見世物小屋での生活に慣れてしまっていたこともあり、元々持っていた警戒心や反抗心がまたにょきにょきと顔を出したことに気が付き、しまったと思ったが、一度出てしまった態度はもう変えられない。
「知らないか、残念。オレは今会いたかったんだけどな」
青年は全然残念ではなさそうに言った後、顔をぐっと窓に顔を近づけた。箱の中の小さな窓から外を見ていたおれにとっては、青年が突然迫ってきたように感じられ、驚きに一歩後退さる。にんまりと笑う青年はさっきよりも人間らしい人の良さそうな表情ではあるが、感情さえも自在に操られそうな、独特な雰囲気を持っていた。
「君、今柊と一緒の部屋でしょ? それならさ、柊が帰ったら伝えといて。愉快が呼んでたよって」
「……愉快?」
謎掛のような言葉。愉快が呼ぶってなんだよ、と不思議に思い声に出す。おれの怪訝そうな声の理由がわかったのか、青年がけらけらと笑った。笑った拍子に彼の耳たぶからぶら下がった大きな円形のピアスが激しく揺れる。
「言えばわかるよ」
青年はそう言うと、おれにすっかり背を向けてひらりと手を降った。
「掃除、頑張って」
青年が去った後、なんだか頑張る気になれず、小窓のある壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。目に入ったうさぎのぬいぐるみ。子供のおもちゃのようなかわいらしくデフォルメされたもの。
それを手にとってしげしげと眺める。
汚れは一見するとなさそうだが、最後に洗われたのはいつなのだろう。箱の中にあるということはこの人形も見世物なのだろうか。誰かが使う人形なのだとしたら、持ち帰らないのは薄情だ。団長は、人と異形との間に何の違いもないような言い振りだった。それなら人形だって一人前として扱って欲しい。箱の中にずっと入れられて、必要な時だけ使われるなんて不公平だ。
心臓はなくても、心はあるかもしれないのに。
そこまで考え、おれは深いため息を吐いて、人形を丁寧に床においた。こんな綺麗なうさぎのぬいぐるみに、心があるはずない。
異形を見たことで自分はおかしくなっている。作り物に命なんてあるわけがないのに。しかし、もしもこの可愛らしい目をしたうさぎのぬいぐるみが動き出したとしても、おれはすんなりと受け入れるのだろう。火の車でさえ受け入れたのだ。
一気に疲れを感じ、グッと伸びをした。色々な所がぱきぱきと弾けた音を出す。ほんの少しだけだがすっとした。単純な自らの身体に感謝する。
まだ掃除したりないところがあったが、やる気がなくなり箱の外へと出る。そして、箱の脇に置いていた提灯を手に取り、柊の部屋へと向かった。
本当は、柊の居場所に心当たりがあった。
灯の箱――そこにいる気がしていた。
真っ暗闇の廊下へ出て、灯の燃えるような瞳を思い出しながらクラヤミ6号へと戻る。
わずかに開いた扉の隙間から、少しだけ光が漏れている。
「柊」
扉の外で立ち止まり、なんとなく声を掛ける。おれが掃除のために柊の部屋を出たときにはすでに柊はいなかった。しかししっかりと中の提灯を消し扉を閉めて来たから、おれが掃除をしている間に柊は部屋へと戻ったのだろう。
案の定、すぐに中から柊の返事が返ってきた。
「凌平? どうしたの? 入んないの?」
扉が開き、そこからひょっこりと柊が顔を出す。いつものTシャツと短パン姿だ。お面もつけていない。彼の部屋の名前のように黒い瞳は、眠そうに潤んでいる。
「ねむそ」
言いながら、柊を軽く押して室内へと入る。
――伝えといて。愉快が呼んでたよって
柊を押す手から彼の熱が伝わってくる。それほど温かくはないが、それでも人間の温かさを感じた。あの死んでいる雅ちゃんを思い出す。死んでいるなんて言われなきゃわからない、いや、死んでいると言われてもまるで生きているような雅ちゃん。
「柊」
「なに」
「異形もあったかいの?」
聞いた時、柊の体がぴくりと跳ねた気がした。わずかな変化だったが、彼の背に触れていることで感じられたのかもしれない。
振り向いた柊の口元には、相変わらず消えない笑みが浮かんでいる。
「何それ」
「え?」
柊が疑問を口にしたことに驚き、反射的に聞き返す。柊の顔から笑みが消える。
「ねえ、どっちのいぎょう?」
「どっちのって何だよ。異形は異形じゃねえの? おばけと異形が一緒かは知らねえけど」
沈黙が降りる。ほのかな笑みを復活させた柊と何もわかっていないおれがいる静寂な室内で、自分の鼓動が喚く音だけが聞こえている気がした。きっと、無音なんてことはありえないのだ。生きているうちは必ず音がある。
扉を閉め切ると、廊下の物音は一切しなくなる。尤も、廊下で自分と柊以外の誰かを見たことがないから、実際のところは不明だが。
静かな室内には自分の心臓が脈打つ音と、提灯にともされた火が燃えるちりちりというかすかな音以外何も無い。居辛さを感じ、すこしだけ身じろぐ。ふ、と柊が微笑んだ。
「異形によるよ。火の車はもちろん熱いし、人間の形をしたのは温かいのが多いし。氷みたいのもいるけど」
「は、初めっからそう言えよ」
すこしどもってしまった。
「凌平、慣れたんだ」
「……何だよ」
「だんだん口調が荒くなってきたもん」
「全っ然慣れてねえし、おれ、はじめっからこんなんだし」
「ええ、ちがったよ」
からかいまじりの話しぶりの中に、ひとかけらの安堵が含まれていたように思えたのは、おれの思い込みだろうか。