火野兄弟
> 絶対に忘れない自信があった。どこから沸き上がってきているのかはわからないが、絶対だと思えた。
兄が弟に向かって勢いよく火を吹く。まだすっかり体の出来上がっていない少年から、全てを焼き尽くしそうなくらい激しい炎が産み出される。炎は雲状へと姿を変え渦を巻きながら兄と同じ姿形をした弟へと向かって行く。一瞬、時がゆっくりと感じられた。火野兄弟を見物しているすべての者が同じように息を呑む。
炎が弟を覆い隠した。熱が箱を介して見物客へと伝わる。彼らの汗は、決して興奮のせいだけではない。
(また思いっきりやって……)
興奮する客たちを眺めながら、おれはこの後のことを思った。火野兄の吹き出した火は、そのほとんどを弟が飲み込む。
しかし、弟が飲みきれなかったものや、弟に至るまでの炎は壁を焼き、焼かれた壁からは破片が落ち、床は煤と破片だらけになる。そして、大事なところは、その床を掃除するのはおれだというところだ。
夜が明け、店仕舞いとなった。おれは、一番に火野兄弟の箱へと向かった。今日はいつもより激しかったから、疲れていない時に掃除をするためだ。
しかし、どうやら早すぎたようで、箱の扉はまだ閉め切られ、中から火野兄弟の声が聞こえている。
中から掃除するのは諦めて、あまり汚れてはいない壁から始めることにする。もうすっかり手に馴染んだモップにバケツに用意した水を付け、箱の上側から綺麗にしていく。
「凌平!」
開始早々、内側からドアが開き、満足げな表情をした火野兄が顔を覗かせた。
「掃除始めてたよ」
「いつもどうも! 凌平が掃除に入って思いっきりできるようになった」
「それまで自分らだったもんね。柊とろいし下手だから」
「そりゃどうも」
軽く返し、掃除を再開する。煤のせいで黒ずんだ水が箱を伝う。ひと通り水洗いしたあと、乾いた雑巾で拭いて――
考えるだけで面倒くさい。
しかもさっさと部屋に戻ればいいのに、火野兄弟はドアから顔を覗かせたまま興味深げにおれを眺めている。まるで見世物になった気分だ。あまりいいものではない。
「何?」
何も言わず動きもしない火野兄弟にしびれをきらし、おれは手を止め、モップをバケツに突っ込んで火野兄弟に向き合った。
待っていたかと言わんばかりに火野兄弟の片方がにやりと笑う。
手招かれたおれは、おとなしく箱の中へと入った。今の今までショーをしていたこともあって、箱の中は外とは比べ物にならないくらい煤臭かった。硝煙の匂いが充満している。箱の外にももっと匂いが漏れてもいいはずなのに、と少し疑問に思ったが、ここは提灯小屋と思い出す。何が起こっても不思議ではない。
「俺たちさ、ずっと凌平と話がしたいと思ってたんだよ」
おれの後ろで、火野兄弟のどちらかが扉を閉めた。外の音が全くしなくなる。見ると、彼は覗き穴を取り外し、そこに小窓をはめていた。外に音が聞こえないようにしっかりと小窓のガラス戸を閉めきっていることから、誰にも聞かれたくない話だということがわかる。
「おれ、掃除全然してねえんだけど。話してたら終わらない」
「大丈夫大丈夫。今日は柊にやれって言ってるから」
「は? そんなの聞いてないけど」
「ついさっき言付け頼んだんだよ。煤の妖怪ケムちゃんに」
本当か嘘か、火野のどちらかがケタケタと笑い声を上げた。小窓をはめていた方は、かったるそうにその場に座り込み、口を開く。
「とにかく、今日の掃除は柊がしてくれるから、あんたはしなくて良いよ。柊、今日も休みだったし、遠慮はいらない」
火野兄弟は、同じ顔をしていても性格はずいぶんと違うようだ。
おれは、諦めて床に腰をおろした。煤で服が黒くなると思ったが、掃除用の服なのだし、どうでもいい。どうせ洗濯をするのも自分だ。面倒くさいと思わなければ、いくら汚れたっていい。
「話がしたいって、どういうこと?」
「別に? ただお友達になりたいなあって。なあ?」
陽気な方が陰気な方に声をかける。心の中での呼び名だが、陰気はちょっと失礼だな、と思った。しかし、まあいいか。
「早く本題入れば? 俺、今日疲れた。早く休みたい」
陰気な方は疲れているようで、言いながら目を閉じている。
「なんだよ。つれねえなあ」
ぶつくさと文句を言いながら、陽気な方が陰気な方の隣に座る。
「弟が言うから本題に入るけどさ、凌平って正真正銘の人間だよな?」
「人間だと思うけど」
「こっちの女にそそのかされてもいねえよな?」
「女? そそのかされる前に出会ってすらいない」
「あ、そう? そりゃ良かった」
兄が破顔する。ずいぶん人好きする笑みだ。
「凌平が人間ってことで、ここからが異形とイギョウには内緒の話。告げ口すんなよ」
「何を? いぎょうといぎょうって、何」
「それはあとで。兄ちゃんが今凌平に言いたいのは、柊から離れたほうが良いよってこと」
口を開こうとした兄を制し、弟が口をはさむ。
「……柊から離れた方がいい? なんで」
言いつつ、変だな、と思った。意識せずに話した口調は懐疑の色を含み、火野弟を非難しているようだ。自分は柊に連れて来られたのに、これではまるで柊を庇っているみたいで、それを火野兄弟も同じように考えたらしい。
「凌平、だってお前柊に連れてこられたんじゃねえのかよ」
驚いたように兄が言う。
「なんで柊と仲良くしてんの? お人好し? 現世に未練ない感じ?」
「現世? なにそれ」
「あれ? もう忘れちゃってんの?」
「……やっぱイギョウといると進行早いんじゃねえの。……人によるか」
「そっかそっか。かわいそうに。親兄弟友達思い出全部忘れちゃったのか」
「そういうこと? それなら覚えてるよ」
ほとんど記憶にないけど、とは言わない。けれどたしかに覚えていることもあるし、まれに思い出すこともある。しかし、それを今出会ったばかりのこの兄弟には言いたくなかった。信用できるかできないかもわからないし、なんだか小馬鹿にされている感じがするからだ。
「あ、覚えてんの? たとえば?」
「……舜」
「しゅん?」
「友達。一緒に祭りに来て、はぐれて、おれ一人がここに来た」
「じゃあ凌平、神隠しにあったのかもね」
「は?」
「元団長がたまにやるんだ。おれたちも元団長の遊びで連れてこられた」
「……遊びって?」
「暇だから人間の子で遊ぼうとか、見世物が減ったから補充しようとか、そのくらいの軽い気持ちで気に入った子を迷い込ませるんだよ」
「軽い気持ち?」
「そう。元団長、本当に何も考えてないからさあ。困るよね」
「いいだろ。今は元団長のことはまあいいとして、本当に柊といるのは止めた方いいって。おんなじ人間だから言うけどさ」
「人間? 柊は」
「あいつイギョウだよ」
今まで軽快に話していた火野兄が、ここに来て声をひそめた。
「イギョウ?」
つられて声が小さくなる。
「そう。人じゃねえの。人間組は、人じゃねえ奴らのことをイギョウって呼んでんだよ。柊は人間としてきたくせに、途中で住人になっちゃったんだ。お前も柊といたらそのうちイギョウになっちゃうよ」
「……イギョウになったらもう帰れないんだ。それは異形も同じだけど」
火野弟が付け加える。
「帰れない? どういうこと? ここに来たら帰れないんじゃないの?」
火野兄弟の口が閉ざされた。ふたりで相談するように目を遣り合い、兄のほうがにやりと口の端を吊り上げる。
「それは今は秘密。けど、一緒に来るってんなら教えてやらないこともない」
「一緒にって」
「俺たちは人間しか信じない。異形を信じることもあるけど、イギョウは絶対に信用しない」
「は?」
「異形は元団長とか、はじめから人じゃないモノ。イギョウははじめは人間だったのに異形と交ざって人間を捨てたモノ。全然違うよ。人として終わってる」
火野弟が抑揚なく説明する。
柊について考える。柊はおれをここに連れてきた張本人だ。別に好きでもないし信用しているわけでもない。不気味なお面をかぶって口元だけ出しているから表情から感情を読めないことが多い。だけど、嫌いでもない。無理やり連れて来られたのに、嫌いではない。
「まあ、いいけどね。どっちを選ぶかは凌平次第。ただ、人を捨ててないうちに言っておきたかっただけ。イギョウになれば、小屋から出られる可能性はなくなるから。俺、こんなだけど人が不幸になってく姿、見たくない」
「兄ちゃんそれすごい善人っぽい」
弟に突っ込まれ、火野兄の耳が赤くなった。
「うるせえよ、お前」
火野弟が、はじめて笑った。