愚かな自己満足
おれの足が地面に転がる小枝を捉えたその瞬間、あたりが真っ白になる。
「何――?」
一瞬間光に包まれたかと思ったら、気付いた時にはおれは狭い箱の中で膝をついていた。
「ここ……」
「見た通り、箱の中だ」
薄暗い箱の中、笑みを含んだ声がして後ろを向くと、あぐらをかいて楽しげにおれを見ている元団長の姿がある。
「久納の目があっては、ゆっくりお前を見られない」
くすくすと元団長が笑う。彼が被っていた狐面は隅に投げられている。
「凌平、来い」
言葉とともに元団長の手がおれに向かって差し出されたが、行きたくなかった。元団長はいま好奇心だけで動いている。「今」はおれのことを気に入っていても十秒後はわからない。そんな危うさを孕んでいた。おれは今にも切れそうな細い紐で綱渡りをしているのだ。
しかし、こんな状況になって感じているのは身の危険ではない。おれは自分がどうなってもいいと思っているようだ。死んでもいいし消えてもいい。痛いとか苦しいのは嫌だが、そこまで恐怖を抱いていない。それが不思議だった。感情か何かがうまく機能していないのだろうか。そして、これはいつからだろう。
でも、ここで死ぬわけにはいかない。
久納はおれを必死で繋ぎとめようとしてくれていた。あの様子じゃきっと彼は今まで元団長に楯突いたことなどないのだろう。柊は久納に怯えているが、久納は元団長に怯えている。
久納の真意はわからないが、さっき彼がくれた好意に報いるためには、ここで何があっても平気な顔で戻らなければならない。
覚悟を決めて、立ち上がる。そろそろと元団長の元へと進む。狭い箱の中だからあっという間に彼の前に来た。そっとしゃがみ、元団長と目線を合わせる。
彼が伸ばした手が、おれの頬を優しく撫でる。手が首の後に回り、引き寄せられた。バランスを崩し、元団長をまたぐようにして倒れこむ。
「私の見世物小屋はどうだ?」
「どうだ……って?」
元団長の胸に顔を埋めながら聞き返す。顔を上げたくても離れたくても彼の片手はおれの頭を抑え、もう一方の手は背中に回っている。
「異形たちには馴染んだか」
「……全然、です」
「そうか。異形は苦手か?」
「けど、平気……なのもある」
正直に言うと、彼はまたおかしそうに笑い声を上げた。
「お前はやはり新しいタイプだ。『平気だ、すごい』と嘘を吐くものたちが多かったのに」
元団長は正直に答えたおれを評価したようだが、嘘を吐けばこの先異形を見て気持ち悪くしているおれを見られた時絶対に殺される。殺されないにしてもよく思われないことは確かだ。こんな算段があったのだが、良い方に転んだようだ。
「しかし、私だって現状に満足していないのだ。私の見世物小屋にはくだらぬからくりなどない。……と言いたいが、あるものもある。それに汚いものもある。けれど、その内に厳選してもっと小さな小屋で……現代言葉で言うと何になるのか……くおりてい……くおりていの高い見世物小屋にしたいと思っている」
「う……」
穏やかに話しながら、元団長の手はおれの服のまくり、素肌へと触れていた。覚悟はしていたが、やっぱりおれの思ったイギョウのなり方は合っていたのだろう。イギョウになる気はあるが、こんな事初めてでどう立ち振る舞えばいいのかわからない。黙っていていいのだろうか。元団長にだめなやつだと思われて殺されたりしたら久納に合わせる顔がない。
「クチナワ」
どうしようかと思っていたら、おもむろに元団長が呟いた。
「何でしょう」
しばしおいて、背後から冷めた声が聞こえた。
クチナワ――名前は聞いたことがある。稲様は元団長とクチナワと喧嘩をしていなくなったと火野が教えてくれた。稲様はいなくなっていないが、おそらくこの事実は誰にも話さないほうがいいものだ。
俺の頭は未だに元団長に固定されているため振り向くことはできない。
「凌平を住人にしてくれ。自分でしようかと思ったが、想像しただけで疲れた」
「わかりました。方法は?」
「ああ、任せる。凌平の音を聞いた。私はもう満足だ」
元団長が笑うように息を吐き出した。穏やかな笑みとは正反対に、まるで突き放されるようにしておれはクチナワへと引き渡された。そこでまじまじと彼の顔を見る。
「お前が凌平か」
吐き捨てるように言ったクチナワは、全く温かみのない口調とは逆に柔和な笑みを浮かべている。それだけだったら彼は優しげな風貌の優男に見えた。特に珍しさもない眼鏡を掛けており、柊や双子も含めてここの住人達の中で一番親しみやすい姿だ。真っ黒の髪に、茶色い目。
(あ……)
しかし、よく見ると彼の左頬にうっすらと鱗のようなものが見える。彼もやはり人間ではないのだ。
「随分度胸、というか肝が座っているようですね」
「変わっているのだ、凌平は」
「思考能力がないだけでは?」
「そうかもしれない」
元団長がからりと笑った。笑い声が上がっているが、箱のなかには不穏な空気が漂っていた。クチナワはおれに好意を全く抱いていないのもわかっていたし、おれのこの選択が久納の意に反していることや、あとで柊を苦しめることもわかっている。
クチナワが言うように傍から見れば思考能力がないと見えるかもしれないが、それは間違っている。おれはただ自傷に走っているだけだ。
今おれを突き動かしているものは久納に報いたいという気持ちと、もう一つある。それは、これで柊と同じになれる――という気持ち。彼には興味本位で色々聞いて傷つけてしまったから。
(おれがイギョウになったら、柊はどう思うだろう)
初めはきっとショックを受けてしまうだろう。けれど、そのあとは?
イギョウになったら人間からも異形からも疎まれる。少し、嬉しくなった。これで、柊は一人じゃなくなる。罪悪感を埋めるためには、愚かな自己満足が必要だったのだ。