擬態
元団長が箱から出ていき、箱にはおれとクチナワだけが残された。物音がしないのは、きっとここがいつもおれが掃除している場所ではないから。
「さて……」
クチナワが短く息を吐き、俺の肩を壁に押し付けた。壁には温度がなかった。
「柊と仲いいんだって?」
微笑みをたたえてクチナワが言う。やはり柔和な表情とは裏腹にその声は冷たい。
「久納も君のことを気に入ったとか」
「……元団長から聞いたのか」
「さあ?」
くすりとクチナワが笑う。
「そんなことより、近づいてきたな」
「何が……?」
口に出したところで箱の中にノックの音が響いた。音が聞こえないはずなのになぜ聞こえるのだろう。
「入りなさい」
クチナワは箱の側面にある長方形のくぎりに向かって命令した。ゆっくりと壁が押され白い手が覗く。
「凌平……」
入ってきた人物を認識した瞬間、胸に様々な感情がほとばしった。戸惑い、疑問、後悔、絶望……。
「なんであんたが来るの……」
現れたのはきっちりとお面をつけた柊だった。彼はおれの質問に答えずクチナワを見据えた。
「帰ってきてたんだ。いつから?」
「今日。団長と一緒にね」
「元団長も……」
「安心したらいい。彼は合格だ。団長自ら住人にしようとしていたくらいにな」
「……住人に?」
「ああ」
しばらく柊とクチナワは黙って向き合っていた。柊は何かを考え込んでいるように動かない。
「柊」
クチナワが初めてやさしい声を出す。笑顔の上に暖かな声色だが、嫌な予感しかしなかった。
「お前が住人にしなさい」
クチナワが柊に静かに告げる。
「それはだめだ!」
クチナワの言葉の意味を理解した瞬間おれは叫んでいた。それに柊がびくりと体を揺らしたのを視界の隅で受け止める。
おれは柊の仲間になりたかったのであって、彼を傷つけたいのではない。
柊がおれをイギョウにすれば彼は絶対に傷つく。イギョウだということをひた隠し、嫌いになるまでは一緒にいて欲しいと肩を震わせた少年を、おれは好きだと思う。彼は気が小さく、甘いが、とてもやさしい。
「大丈夫、安心しなさい。なあ柊、お前の得意なことだろう?」
「……まあね。けど、俺は凌平をイギョウになんかしない」
「団長の命令だ」
「団長は住人にしろって言ったんじゃないの? まさか俺が呼ばれてるなんて思ってないよ」
「そうか」
クチナワが口の端を吊り上げる。柔和な仮面が崩れ落ち、蛇のように狡猾な素顔が覗き見えた。
「凌平、ついて来なさい」
「……クチナワ?」
「柊、もう下がっていい。団長にはちゃんと確認したのだから、誰がこれを住人にしたっていいんだ」
クチナワの言葉に柊が色をなくす。面はもはや彼の感情を少しも隠してはくれなかった。
「……蛇は執念深くて嫌になるな……」
柊が何事かを呟く。
「俺がやるから、クチナワは下がってて。どうせ出られないんだから」
柊が言うと、クチナワはまた意地の悪い笑みを作り箱から出ていった。
「……出られないってわかってるからこんなにあっさり出て行くんだよ」
柊が吐き捨てる。
事態は良くなっていないが、緊張から解放されたのか、自然と力が抜ける。
柊が面を外し、おれの隣に腰掛けた。
「あいつ、俺のこと大っ嫌いなんだ」
「クチナワ?」
「うん。もともと稲様と犬猿の仲で、稲様はあいつに嵌められたんだよ」
「嵌められた?」
「……聞いても良い気分にならないけど。っていうか、それよりもどうやって切り抜けるか考えないと」
柊の声には諦めも苛立ちもなかった。今の彼にはふてくされた子供のような明るさがあり、より罪悪感を感じた。これならば、罵られたほうが何千倍、何万倍もましだ。
「……なんか、ごめん」
柊を巻き込んでしまったことへの後悔に押しつぶされそうで、おれは正直に謝った。
「なんで謝るの? 責めるべきはクチナワだよ」
柊がおれの手を取る。
「俺、凌平に謝られることされてない。俺、いつか凌平にお礼を言おうと思ってたんだ」
「意味わかんねーんだけど」
握られた手は、少し考えて握られたまんまにしておく。イギョウでも、柊は人間だ。おれにとって人間の暖かさはとても尊く、そして必要なものだった。
「とにかく、考えよう。上手に切り抜けよう」
柊はこう明るく言うが、時間はいたずらに過ぎるだけだった。
おれとしては、もちろん柊によってイギョウになるのはなんとしても避けたい。だって、そうなると柊は悩んでしまうだろう。おれが虐げられるたびに自らの罪を嘆く。彼に非は一切無くても。
「ずっとこうしてたらきっとまたクチナワが来るから、そうしたらおれはあいつに付いていく」
言うと、柊の顔が曇った。
「だめだよ、それだけは。凌平がイギョウになるのは避けられないとしても、ここは元団長か団長にイギョウにしてもらわないと。だって、凌平あいつがどこに連れて行こうとしたか知ってるの?」
問われて首を振る。
「色小屋だよ」
「色小屋?」
名前は聞いたことがある。確か火野弟と話した時に出ていた。文脈から、色欲を満たすところなのだろうと思ったが、おそらく合っている。
「最低のところ。いろんな意味での化け物たちに好き勝手に弄られるんだよ。行くくらいなら死んで欲しい」
柊の声に暗さが宿る。
「……出られないと思ったら大間違いだ」
そうして、柊はふっと笑い立ち上がった。それから、なぜかおれに狐面を渡してくる。理由がわからなかったが、あまりにも真剣な顔付きで渡してくるものだから、思わず受け取ってしまった。
冷たいが思ったよりも軽い。側面がすこしだけひび割れていたが、それが狐面の持つある類の不気味さを際立たせていた。
「つけて」
「何で……」
「つけたら、ドアから出るんだ。そして、まっすぐに歩いて行って。決して振り向かず、走らずに」
「意味……わかんねえ」
「稲様がいなくなっても俺が生きていられるのはその面のおかげ。じゃなきゃとっくに死んでる。みんなただのお面を未練たらたら被ってると思ってるけどさ」
柊がなぜか動けないおれに面を付け、にやりと笑う。
「いやいやお兄さんこんなとこまでようこそお越しよ、ここは素敵な見世物小屋です、口上宣伝何もなし、実力勝負の本物勝負、ろくろ首にかっぱも本物、蛇女の肌は鱗で血は緑、お代は命で結構よ! って覚えてる?」
「……ああ」
そうだ。これは柊と初めて会った時、彼がうたった口上だ。
「ここはなんでもありの見世物小屋。深く考えたらいけないよ」
そう言って、柊はおれの腕を掴みそのままドアに向かって歩き出した。
「ちょっと、柊!」
よいしょ、よいしょ、と小さな掛け声を出しながら柊はおれをずるずると引きずっていく。立たなきゃと思うのに、抵抗しようとするのに体は自由を奪われ動くことができない。
こんなことは前にもあった。抵抗したいのに、抵抗しようと思うことができない、ということ。自分の体、意思を何者かに奪われている感覚。
今おれを引きずっている柊はまるで見知らぬ人物だった。
(違う……)
彼は初めて会った時の彼だった。あの時と違い面は剥がれているのに、感情が、思考が読めない。生きているのかそれとも人形なのか判然としない。
おれの気持ちを置き去りに、柊がドアを開け、おれをその外へまるで物のように放り投げた。
「一緒にいてくれて、嬉しかったんだ」
ドアが閉まる直前柊が何かを言ったが、おれには届かなかった。
また、忘れるのか。
おれは、たった今見た彼の綺麗な笑顔もきっときれいさっぱり忘れてしまうのだろう。
全てが不確かなこの世界で、これだけは確信があった。