早寝記録

仮面と角

 かろうじて立ち上がった。
 どれくらい気を失っていたのだろうか。おれは、また忘れたのか。
(確か、柊にドアのそとに出されたんだ)
 そう思い、ドアのあったところに手を伸ばしても、手は暗闇をつかむだけだ。
 視界全てが真っ暗闇で、おれは自分が立っているのかも寝ているのかも目を閉じているのかも何もかもがわからなかった。どこが上で下なのか、右と左はそもそも存在するのか。
 なんとなく、足を交互に出してみる。そうするとようやく足の裏が地面を掴んだ。
 不思議と面を外す選択肢はなかった。自分自身がコントロールできていないのだ。恐怖がある。しかし、おれは落ち着いていた。
 もしかしたら面に誰かがいるのかもしれない。おれはひとりじゃないから、そいつがちゃんとここのことをわかっているから落ち着いているのだろう。
 柊はどうなるのか。
 彼はおそらくおれを逃してくれた。きっとこのあと彼のところにクチナワが行く。そうしたら、柊はどうなるのだろうか。
 一歩一歩暗闇を進んでいく。
 そのたびに感情が死に、忘れたくないことが消えて行くようだった。
 柊のことを心配したい。彼はおれのために自分を犠牲にした。わかっている。わかっているのに、おれはなんとも思っていないようだ。
 とにかく歩いた。色々考えながら、何も考えずに歩いた。
 ぽつりと白い点が現れた。それはおれの歩みが進むに連れ大きくなり、橙々のぼんやりとした光の様相を呈す。
 提灯だった。提灯がひとつ、宙に浮いている。異様なほど輝いたその提灯はおれの目を眩ませる。
 ふいに意識が途切れた。
 次に気がついた時、おれの目の前には見たことのある看板があった。
「あれ?」
 その看板を見て考える。おれの目の前には前に見た看板がある。だけど、おれはどうしてここにいたのか?
 思い出せない。おれは今まで何をしていた?
 顔に手を当てる。頬が熱かった。今まで冷たかった気がしたのに、頬が熱い。
(イギョウ……)
 イギョウになるとかならないとか……。
 元団長に会った。住人になるべき、と言われた。それで、なったんだっけ?
 手のひらを見る。シワの少ないつるんとした手。
(おれの手だ)
 それだけでなぜか安心して、おれはもう一度目の前の看板に書かれた文字を確認して強くドアをノックした。
 するとすぐに中から人が出てきた。
 その人物の目がおれを捕らえ、軽く見開かれる。
「何驚いてんの?」
 しかしすぐによく見る余裕たっぷりのニヤケ顔へと戻る。
「だって、まさか凌平が来れるとは思わないから。びっくりしたんだよ」
「団長の部屋って、勝手に来れないもの?」
 おれの問いに団長が首を横に振る。
「歓迎するよ」
 そうして団長が両手を広げた。

 トーテムポールの下に座り、あたりを見回す。団長は意外と気が利くようで玩具をかき分けて奥の部屋へとお茶を取りに行ってくれた。様々な調度品や玩具が雑然と打ち捨てられている中で、おれの意識をひときわ強く持っていったのは壁に所狭しと並べられたお面だった。適当に置かれている他のものとは違い壁一面にきちんと整列された面。明るくはない団長の部屋で全ての面が自分を見ている気になり身震いしてしまった。
「ウバだよ」
「は? 姥?」
 無表情の老婆のお面を視界から外し、団長を視界全てに入れる。
「紅茶だよ。知らないかい? ウバ州まで行って買ってきたんだ」
「知らねえ」
 団長が床に素敵なカップを置く。模様が素敵だがよくわからなかった。とりあえず素敵だ。
 ふわりと爽やかで甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「いいにおい」
「そうでしょ? 飲んでみてよ」
 にこにこと笑う団長に促されカップを口に運ぶ。口の中に苦味が広がった。
「……渋い」
「そう? ミルク入れる?」
 団長の提案に首肯する。素直にミルクを入れたら美味しいかもしれないと思った。
「あ、いい。いらない」
 再び立ち上がった団長の裾を掴んで引き止める。
「どうして? おいしくなるよ」
「いいから。嫌いじゃないし、おれ、紅茶を飲みに来たわけじゃねえの」
 こう言ったものの、本当はこのお面だらけの部屋に一人でいるのが嫌だった。団長がここにいてくれるならおれは苦手な苦いものでも克服できる。
 それに、思い出したのだ。
 けど、団長はいつもと何ら変わりなくおれに接している。瑪瑙色の紅茶には、おれの情けない顔が映っていた。
「凌平」
 団長に名を呼ばれ、顔を上げる。声は真摯そのものだったが、それはいつもの脳天気そうに人に思わせる声を作りそこねたのかもしれないと思った。
「どこまで覚えてる?」
 団長が優雅な手つきで茶をすする。彼に問われ、それがすぐにイギョウのことを指しているのだとわかった。
「あんたと、それから元団長がいて、おれは住人になるって言った」
「それから?」
「あんたと別れて、元団長と箱に入った」
「うん。それで? どうなったの? 見たところ、まだ人間のようだけど」
 まだ人間……。おれはまだ人間だったのか。少し驚いた。しかしそれはまるで他人事のようでおれの心には響いてこない。人間と住人、それから異形に違いはあるだろうけど、三者とも異なっている意味は果たしてあるのだろうか。
 ふとこんな疑問が浮かんだが、人間として生まれたのならば、きっと人間で終わるのが普通なのだろう。
「元団長と、箱の中に入った」
 疑問を押し込めて、おそらく少し前に起きた事柄を思い出していく。
 おれは元団長と箱のなかに入った。
 ……そして、何が起こったんだっけ? イギョウには、なっていない。らしい。よく覚えていないが、団長が言うんだからそうなんだろう。
 だとしたら、元団長はおれが人間のままでいることを容認したのだろうか。
 けれど、それはない気がする。必死で思い出そうともがく。
「元団長は、おれがイギョウ……違う、あの人「住人」って言ってた……。おれが住人にならないとって言った」
「そうだね。凌平は、住人になるんだ」
 団長がにっこりと微笑む。頭が痛くなってきた。
「団長は凌平を住人にして、逃さないつもりだ」
「……さっきから思ってたけど、あんたが団長じゃないの?」
 思い出すことを中断し尋ねると、彼は恥ずかしそうに苦笑した。
「まあ、俺は団長と言ったら団長だけど、全く実感がないからね。結構みんな自由にやってくれてるし。俺はここに引きこもっていろんな物を集めて眺めているだけ」
 穏やかな目で団長が言う。渋い紅茶を表情を変えないように啜りながら団長を盗み見る。彼の穏やかな表情は悲しげな表情と言い換えてもしっくり来るように思えた。
 人間らしい曖昧な表情。
 しかし、彼は人間ではない。おれが恐れていた異形の者なのだ。またふつふつと疑問が沸き起こる。
「あんたは、誰なの?」
 そういえば、さっきもこの質問をした気がする。その時は不発に終わったが、どうしてだったろうか。そうだ、団長が答えようとした瞬間元団長が現れたのだ。
「……狐になるのは悪くない」
 突然切り出した団長の声はまるで知らない人のようだった。いつもより低く、嘲笑を含んだようなそんな声。
「狐?」
「だけど、蛇はだめだ」
「……蛇?」
「団長と箱に入るまではしなかった。今お前からは俺の大嫌いな匂いがする」
「大嫌いな匂い……」
「反吐が出る」
 団長が吐き捨てるようにして言う。
 ふと、頭の中に頬にウロコがある眼鏡の男性が鮮明に浮かんできた。
 名前は、確か――
「凌平」
 一瞬、脳天を何か閃光のようなものに貫かれた感覚がした。全てを思い出せそうな予感。
 しかしそれも一瞬で、笑みを濃くした団長にかき消されてしまった。おれは微笑みを湛えている団長から視線を逸らすことが出来なかった。彼はひたすら美しい。
 彼の背後の壁が申し訳程度に視界の端っこに映っている。
 その時だった。まるでめまいのように世界がぐらりと揺れた。そして団長の影もまたゆらりと揺れ、その揺れは次第に大きくなっていった。
(あ……)
 おれの目と意識はしっかりと団長を捉えているはずなのに、ゆらゆらと揺れる影もしっかりと認識している。
 その影は天井から床までを万遍なく、狂ったように激しく伸縮を繰り返したあと、突然ぴたりと動かなくなった。
 形が定まったのだ。
 まるで影の動きがわかっていたかのように、団長がにやりと笑う。
「鬼の庇護を受けたいか」
 人影の頭部には、見慣れぬ二本の角があった。