早寝記録

赤の世界

 赤い、と思った。昨日は確かに青かったと思う。考えれば考えるほど思考には靄がかかり真実が遠ざかっていくが、それでも不明瞭な記憶を手繰り寄せ青の世界をよみがえらせる。そうだ、青かった。おれはさらに深く思考に沈む。
 目を閉じると、それまで思い出せなかったのが不思議なくらい鮮明に昨日見た光景が浮かんできた。
 おれは昨日も見知らぬ建物の中を歩いていた。廊下は狭いが、縦に2等分された太線が引かれていた。
 そこはおそらく学校のようだった。いくつも部屋があり室内には数十の机と前後に二つの黒板がある、しかし、それでもなお学校だと断言しきれないのは一切を排除された文字のためだ。黒板がある。ロッカーがある。廊下には掲示板もある。だけどそれらには文字がない。線や絵は書かれているのに文字があるだろう箇所には不自然な空白ができていた。

 おれは数日前に色の世界にやってきた。毎日窓の外の色が変わり、ひたすら建物内を歩き続けると唐突にひとり人間が現れるのだ。その誰をもおれは知らなかったが、みな親しげに声を掛けてくる。

 昨日も同様だった。窓の外はどうやら水中のようであった。生き物の姿も植物も光り漂うゴミも見えなかったが、窓の外では青がゆらりゆらりと揺れており室内に水の波紋を刻んでいた。
 そのため、おれは室内を歩いている時にも水中を歩いているような錯覚に陥った。

 ――誰に会ったんだっけ?

 廊下の角を曲がった所で何者かの影が見えたのを覚えている。しかし思い出せない。
 今の今までまるで昨日を再現しているかのように全てをはっきりと思い出せていたのに、途端に全てが濃霧に覆われてしまった。
 ずきんと痛み出した頭を抑え俺はゆっくりと目を開けた。
(赤い……)
 すっかり慣れた校舎の窓から外を見る。血を連想してしまうような赤い空だ。鮮やかな赤とどす黒い赤が不気味に混ざり合っている。
 なんとなく窓に近づき下を見た。
 いつもならば校門が見えるはずのそこには、背の高い真っ赤な花の群れがある。おれは背筋に嫌な汗が伝うのを感じた。久しぶりの恐怖だった。

「何してんの?」
 赤い花が一斉におれの方を向いた――気がした。
 ひとつ遅れて背後から投げかけられた声に反応し振り向くと、どこか懐かしいような、でもやはり知らない少年が眉を寄せておれを見ていた。
「花を見てたんだよ」と強がると、少年は何も言わずにおれの隣へと移動した。同じくらいの目の高さ。自分と同じような見てくれの少年。
「あんた誰?」
 何も言わずにじっと窓の外を眺めている少年に尋ねる。
「教えられない」少年が答えた。
「あんたもおれと知り合いなの?」質問を変える。
 少年はちらりとおれを見て、すぐに窓の外へと視線を戻す。外の赤を瞳に映し、彼は泰然と佇んでいる。しばらく間を置き少年は一言「忘れたんだ」と言った。
 おれの頭のなかにはたくさんの疑問符が並んでいる。正体不明の違和感が出現する。
(昨日までと、何かが違う気がする……)
 おれは改めてここに来てからの記憶を辿ろうとしたが、景色はありありと思い出せるのに、誰かと出会ったところまで来ると強烈な頭痛に見舞われる。

「祭りでは、決して一人になっちゃいけなかったんだ」
 少年は、諦めたように呟いた。
「祭?」
「やっぱりふたりだけでいけばよかったんだよ」
「ふたり?」
 少年はおれの言葉には何に反応もせず、ひたすら窓の外を見つめている。彼は、窓の外に興味があるというよりもおれを見ないために窓の外に視線を遣っているようだった。そう思えるほど彼の視線は一点を見て動かない。
 隣にいる少年に意識を奪われたまま違和感の正体を突き止めようとしているおれは、いつの間にか外が深い青へと変化していることに気付けなかった。
 おれが変化に気付いたのは、少年が「来る……」とぽつり言葉を発した時だ。
 誘われるようにおれは窓の外に意識を移した。

(は……?)
 窓の外じゃない。そこは、外だった。
 深い青の世界に様々な色が生まれる。色は景色と音に分化し、おれの目と耳に入り込んでくる。

「ねーねーお母さん、これなあに?」
 朝顔がそっと微笑む青の浴衣を来た小さな女の子が、彼女の手を握る優しげな女性に問いかける。少女の無邪気な質問に女性は「なんて言えばいいかしら……」と少し困ったように笑った後、「手品のお店よ」と答えた。彼女たちは手品のお店に入ることなく神社の奥へと去っていった。
 おれは、少年とともに彼女たちの言う「手品のお店」を見上げた。
 たくさん並んでいる他の露店とは異なる姿。大きなテントで、中は見えない。テントは赤と白の縞模様で目に痛かった。
 丁度、見世物小屋のうさんくさい看板が目につく位置にあった。みせものごや、と平仮名で書かれている。みせものの「み」の横には、バツ印の書かれた「に」の文字がある。

 おれは「見世物小屋……」と半ば呆然と呟いていた。