早寝記録

 祭りは独特の活気に包まれていた。面をつけているものが多い。ヨーヨーすくい、射的、りんごあめなど様々なテキ屋が軒を連ねているが、見世物小屋の周囲は抜きん出て胡散臭かった。よく見るとテントの影には昔懐かしいラジカセがあり、そのスピーカーからは短調で妙に明るい音楽が流れてきていた。
「入りたいの?」少年がしっかりとおれを見て尋ねてくる。
「……別に」
 答えると、少年は一瞬だけ目を細めて、
「入りたくても金ねえよ」と続けた。
 それから、彼はおれの手を取り、木々の間から僅かに顔をのぞかせている境内の方へと歩いて行く。その後ろには暗い山がそびえ立っていた。
 おれは背中の見世物小屋をもう一度振り返った。
 赤い着物を着たおかっぱ頭の少女が手を降っていた。顔は見えない。
 人波を上手にかき分けて、少年は奥へ奥へと進んでいく。
 次第に人は減っていき、音は葉と葉がこすれ合うざわめきだけになった。
 境内を横目に見て、少年は山の内部へと続く細道に入っていく。どこからぶら下がっているのか、提灯が頭上に等間隔で並んでいた。
 それとも、ぶら下げるものなどなく宙に浮いているのだろうか。おれは提灯を見上げながら思った。
(あれ?)
 提灯と提灯との感覚が段々と開いているように感じる。連続的に見るとそんなことはないが、しばらく提灯から目を離すとそれは確かなこととして感じられた。それに伴い、今はやっと足元が見えるほど暗くなった。
「いっ――」突然の頭痛に襲われる。何らかの光景に一瞬視界を乗っ取られた。
 前を行く少年が初めて足を止める。少年の瞳は心配そうに揺れていた。風が頬を慰めるように撫でていく。
「俺、本当は名前を教えていいことになってるんだ」少年が打ち明ける。
「え?」痛む頭を抑え、おれは俯いてしまっていた顔を上げた。
「昨日までもそうだったはず。俺たちが名前を教えると、お前はその時だけ全てを思い出す」
 少年の言葉に思考が追いついていかない。おれは非現実と現実の区別がまだついていた。今の少年の告白は「非現実」的なことだ。
 この世界はすべてが非現実でできているが、やけに現実的な少年の口から発せられた非現実的な言葉をおれは受け止めきれないでいるのだ。
(そうか、わかった)
 さっき、赤い学校で少年に感じた違和感の正体。
 昨日までの者たちとの違い。
 彼はあまりにも自然すぎる。奇妙な夢の中の住人としてふさわしくない。

「行こう」
 少年が再び足を進める。おれは素直に付いていく。
 握られている手を自分から握り直す。頭痛はいつの間にか止んでいた。
 自分と大して変わらない背中を、おれはひどく懐かしい気持ちで追っている。

 ――いつも一緒にいてくれた。
 こんな言葉が浮かんで消えた。

 しばらく歩くと前方に提灯が二つ現れた。はじめての分かれ道だ。
 少年が足を止め繋いでいた手を離して俺と向き合う。
「左に行くんだ」
 そしてきっぱりと言った。
「なんで? 右には何かいるの?」
 不安になって尋ねる。ふと、誰もいないのも恐ろしいと思った。究極の選択。誰もおらず終わりのない道を行くのと、恐ろしいものがいる道を行くという選択。ちらりと考えてみるが答えは出ない。
「……右に行ったら後悔する」
 なんとなく少年に質問してみようかと思った時、少年が暗く呟いた。
「後悔? おれが?」
 おれの質問に少年が詰まる。何かを隠しているようには受けなかった。

 右の道に行くと後悔する――おれは右の道をじっと見た。闇の中に提灯がうかんでいる。かなり長い一本道らしく一番奥に見える提灯は点でしかない、しかしそれは左の道も同じ。
「俺と一緒に右の道を行くか、ひとりで左の道を行くか聞く予定だったんだ」
 終わりのない道から少年に目を移す。彼はじっと右の道を見つめている。目からは彼の感情がまったく読めなかった。睨んでいるようにも、悲しんでいるようにも、憧れているようにも見える。
「右の道にあるもの、左の道にあるものもちゃんと伝えた上で選ばせる。そういうふうになっていた」
 少年がおもむろに自身の手を眺める。さっきまでおれの熱を受けていた手に何を感じているのか、彼の表情には自嘲とも取れる曖昧な笑みが浮かんでいる。
「俺が名前を言ったら、凌平は一緒に来てくれると思う」
「……あんたは俺の何なの?」
「友達。家族。そんなとこ」
「は?」
「とにかく、左に行けって」
 最後にからりと少年は笑って、おれの背を押した。
 そして、自分は右の道へと向かっていく。
「おい、――」
 少年を呼んだのは無意識だった。
 俺の口から出た言葉に少年は足を止めて振り返った。彼の顔は驚きに満ちている。
 おれは少年を追っていたが、はたと止まり口を抑えた。
(今おれはなんて言った?)
 思い出せない。分からない。自分の声が音として認識できていなかった。いや、していても忘れたのかもしれない。おれは忘れっぽいから。

 少年が行った道をそのまま辿りおれの目の前までやってきた。
「一緒に行くと、俺が後悔する」
 彼は眉を寄せ、何かをこらえながら必死に冷静を装っていた。
「左には鬼がいる。お前の味方。こんな世界に連れてくるくらいだから、きっと絶対に裏切らない」
 少年がうなだれる。頬を撫でてくれる風は吹かない。
「祭りでは、決して一人になっちゃいけなかったんだ」
 絞りだすような声だった。果てしない後悔が伝わってきた。
 おれと少年はいつか祭りに一緒に行ったのだろう。きっと、すごく仲が良かったんだ。胸にこみ上げてくる苦しさがそれを教えてくれた。
 少年が顔を上げ、笑みの形を作った。
「見てるから行って」
 彼はまっすぐに瞳におれを映している。

 おれは少年の名を知りたいと思った。もし知って後悔したとしてもかまわないから。
 でも――
「……じゃあね」
 おれは少年に背を向けた。そして左の道に向かって進む。

 目に見える提灯が一つになってしばらく経った頃、ふと振り返ってみた。
 何を期待したわけでもない。そこには、自分が辿ってきた道があるだけだった。
 再び前を向いて歩き始める。
(よくわかんないんだけど……)
 道を示すように一列に並んでいる提灯を辿りながら、乱暴に腕で目をこする。
 腕が少しだけ濡れた。