暮
「死ね」と吐き捨て、今しがた最低なことを言って来た化け物を踏みつける。毛むくじゃらで柔らかそうな毛は、見た目と反して固く、足裏に突き刺さりそうだったが、それでも俺は踏む足に力を込めた。剣山を踏みつけている感覚が次第にぐにゃりとした不快なものへと変わり、ついにバケモノはぐぇ、と奇怪な声を上げ分裂し四方へ散った。
「死なねえのか」
化け物が散った床を睨むが、もうそこにはなにもない。無機質なコンクリートの床をいくら睨んだって時間が経つだけなのに、中々動き出すことができなかった。そもそも、コンクリートに見えるこの床の材質すらわからないのだ。この床は時に柔らかくもなるから。わからないことが余計に俺を苛立たせたが、非現実なこの現実に自分の知っているものを当てはめようとするほうがおかしいのかもしれないと無理やり自分を宥め、目を瞑った。
ここではきっと何も考えず過ごしていくのが最も利口な生き方なんだ――。
「あーあ、あーあ、御国がまーた恨みを買った!」
落ち着きを取り戻したかと思った途端、どこからともなく聞こえてきた揶揄に俺は無意識に顔をしかめた。声の主は知っている。あざ笑うかのような調子に収まったはずの苛立ちを再び覚えながら場所の見当をつけて天井を見上げると、天井から無様にも小さなカエルの足が二本ぶら下がっていた。まるでそこだけが照らされたように小さくてもくっきりとカエルの足が見えた。
「随分とかっこ悪い姿だな、アオ」
「青じゃねえっていくら言ったらわかるのかねえ、これだから馬鹿は嫌だ」
「うわ……」
カエルの足が人間の足に変わる。まっすぐの、まあ、美脚。毛も薄くてつるつるしていた。しかし天井から生える足は単純に滑稽で、変態的だ。
「気持ち悪いけど、お前、足だけの見世物になったら人気出るんじゃねえの」
「へへ。モテるかな」
青が床にふわりと降りた。雨傘柄の派手な着物が翻るのを、相変わらずド派手なやつだと呆れながら見る。
「足だけならまあまあモテるんじゃねえか」
「足だけならって、まじ失礼。つうかモテるとかモテないとか言われても、俺人間の女にあんま興味ないし」
俺よりも少し身長の低い青が、媚びるように見上げて言ってきた。キラキラした目がいたずらっぽく輝いている。足と目だけは綺麗なやつだと心のなかで褒めた。
「モテるモテないなんて言い出したのはお前だろ」
「もちろんカエルにはもっと興味ないよ」
へへへ、と青が無邪気に笑った。目を細めた時、左目の下の泣きぼくろが大げさに動いたのをなんとなく眺める。
彼は、人間で言うと十代前半。俺よりも年は下だろう。まだ完全に子供だが純粋さが消え始める頃で、世の中を舐めきっている。そんな目をしていた。とはいえ俺も鏡で見た自分でしか判断できていないが、十代の中頃だと思う。自分の年もわからないなんて本当に馬鹿みたいだ。
「カエルはリョウセイルイだからさ、俺はどっちかといえば……いや、完全に男の子のほうが好き」
そう言って青が手を伸ばし俺の頬を包んできたが、ぴしゃりと払いのける。
「ばっかじゃねーの。お前みたいなちびっこが色気付いてんじゃねーよ」
「お前俺のことカエル扱いするけどさ、俺お前と同じだけは生きてるし!」
「あほらし。ムキになんなよ、ガキが」
「あーあー、やっぱ御国ってば生意気!」
青が意地悪く笑う。それに出会った時のことを思い出した。
お前生意気だな! と若干驚きながら言われたのは確か初日、しかも穴に落ちて早々のことだ。落ちた先に青い雨蛙がいた。鮮やかな青い体色を持ったそいつは雨蛙の変異体だった。
「青って、雨蛙なんだろ。青いけど」
「そうだよ。ほら、見てよこの完璧なボディ」
自慢気に言い、青が人間の姿から蛙の姿へと変化する。親指ほどの小さな青い蛙が、じっと見上げてくる。つぶらな瞳は確かに可愛いが、完璧なボディがどんなものか俺にはわからなかった。
「わかんねえ」
素直につぶやき、なんとなく自分の足を青の上に振りかざしてみた。カエルの口が焦ったように開き、上げていた足を下ろした瞬間に青は人間の姿へと戻った。
「御国! お前さあ、ほんと口と行動に気をつけないとそろそろやられるよ」
胸に手を当てながら青が非難する。
「ほっとけ。つうか踏まねえよ。踏む理由ねえもん」
「理由があったら踏むの? 友達なのにー。なんだよぉ、せっかく心配してやってるのにさー。ま、どうでもいいけどー」
青はつまらなそうに頭の後ろで手を組み、くるくると回っている。その様子はまさにガキ。
「あーあ、なーんでクレから来たのがお前だったんだろうなぁ。最近アカリから来た凌平とかいうのはなんかいいやつって噂」
「じゃあ箱に行けばいいじゃねえか。お前行き来制限されてねーじゃん」
「いーや、俺はいいやつより生意気な方が好きだからねえ」
そう言って青は背伸びをして口付けてきた。そして、にやりと笑い天井に消えていく。
「ばっかじゃねーの」
俺は青が消えた天井に向かってできる限りの悪態をついた。
この狭間の世界には、ふたつの道があるという。
まずは俺が落ちた暮の道。山に開いている穴からそのまま提灯小屋に堕ちる道だ。そこは色小屋につながっており、白い大蛇が大口を開けて待っている。蛇に気に入られれば自分を持ったまま住人になれるし、蛇が興味を示さなければそのまま異形に渡される。
俺は蛇に気に入られた。だから今も思考しながら生きていられるのだ。
もうひとつが灯の道。御神木の奥にあると言われていて、何ヶ月、あるいは何年もかけて通る道のことだ。体感的には数時間らしいが、実際はかなりの時間が進み、ゆっくりと記憶が失われていく。
灯の道を辿りこの提灯小屋に来たものは、運が良ければ招かれるし、運がなければそのまま朽ちるか異形にさらわれて色小屋行きとなる。しばらく灯の道から小屋の住人になる例はなかったようだが、最近凌平という人間が来たと聞く。
けれどその凌平も、元団長に連れて行かれたとか――
まあ、俺には関係ないけど。
「あーあ。面倒くせえ」
ひとつ床に言葉を落とし、さっき異形を踏みつけるときにぶん投げた竹箒を手に取る。
色小屋の掃除はまだ始まったばかりだ。