夢
色小屋は午前二時に開放される。俺はその前の午前0時から毎日箱の巡回を命じられていた。
「やべえかも……」
そうつぶやき、血に塗れたモップをそろりと水を張ったバケツに入れた。
自分に色小屋の巡回を命じた男の顔が脳裏をよぎる。不備があったら何をされるかわからない。恐怖が背中を駆け上がる。今日はどこからか侵入してきた異形にケンカを売られ、時間を食ってしまった。
一度頭を振り、恐怖を押し出す。
ゆるゆるとモップを動かすと見る見る間に血が落ちて水を赤く染めていく。普通の水ではないのだろうと思っているが、確認する術はなかった。
モップをバケツから出すと、水で洗っただけとは思えないほどきれいになっている。モップにこびりついた血によって奇妙な赤色に変わった水さえも、すぐにまた透明な水へと戻った。
次は、夢ちゃんのところだ。彼女が何も殺していませんように。
どちらにしようかな、てんのかみさまのいうとおり。
祈りながら夢ちゃんの箱の前に立つと、かすかに箱の中から声が聞こえた。声こそ細く、小鳥がさえずるような可愛らしいものだったが、おそらく中は地獄絵図。祈りはもちろん通じなかったのだ。
針が回りっぱなしの時計を見ると午前二時の開店まであと10分しかなかった。
それまでに終えられるだろうか。
終えられなければ、罰として箱に入れられるかもしれない。そう思うと、吐き気を催すほどの恐怖に体を乗っ取られる。恐い。嫌だ。俺は見世物に、色小屋の箱の中にいれられたくない。
見世物になるのは死んでもごめんだ。
異形たちのショーや異形の展示が大部分を占めるあちら側――俺たちは「箱」と呼んでいる――とは異なり、色小屋は主にイギョウの少年少女たちによるいろい ろなショーだ。残虐極まりないものや公開風俗が大部分を占めている。自我がしっかりしているうちは絶対に参加したくないものばかりだ。
「夢ちゃん。そろそろしまって」
嫌だと思いながらも気合を入れて声がする覗き窓を少し開け中の少女に声をかける。絶対に中は見ないようにと心がけて。彼女が落ち着く前に目を合わせたら自分が標的になるからだ。
夢ちゃんはいつもウロンな表情で夢を見ているような美少女だ。夢の世界の住人と噂されているからみなから夢ちゃんと呼ばれている。
少しだけ開けた覗き窓からは血の匂いがしていた。
「ピーちゃんとののちゃん、どっちにしよう?」
「朝が来たら考えなよ」
「ピーちゃんとののちゃん、どっちにしよう?」
「……ところで、どっちか選ぶ前に二羽とも生きてんの?」
「ピーちゃんとののちゃん、死んじゃってるの?」
「さあね。それより夢ちゃん、もう少しで始まるんだけど。そろそろピーちゃんとののちゃんしまってよ」
「ピーちゃんとののちゃん、もういない」
「そうだね」
「ミクニ、しまって」
「……し、まうかあ」
おそらく今日の夢ちゃんは夢と現実なら現実寄りなのだろう。一応会話が成立するし、箱を綺麗にして欲しいと思っているようだ。
何事もないように祈りながら俺は夢ちゃんの箱掃除のため中に足を踏み入れた。
「おつかれちゃん」
声が掛かったのは、開店して数十分経った頃で、俺はすでに自室へと戻っていた。
「また青、お前か」
彼の姿を探すこともせず敷きっぱなしの布団に横臥したまま返答する。ここに来てからずっと色小屋の掃除担当をしているが体は一向に慣れてくれない。
「あーらら。なになに? 御国ってば疲れてんの? だっせーの、だっせーの!」
耳元で大声を出され、おもいっきり腕を振り上げると、腕への衝撃とともに「ぐぇ」とまるで蛙のように鳴く青の声が聞こえた。
「ちょっとぉ、ひっどいなあ、御国は! 俺、良いお誘いに来たのにさあ」
「断る」
振り上げていた腕を戻し、丸くなる。
「時間まで寝る」
「柊が見世物になった」
「興味ねえ」
「凌平が消えた。元団長と!」
「それ知ってるし、知らねえやつだし」
「なーんだよー! お仲間じゃん。人間じゃーん!」
「あのなあ」
横たえていた体を起こしながら耳元でギャーギャー騒ぐ蛙を捕まえ首を締めると、青が一瞬にして人間の姿になる。
「その姿だったらお前も、凌平とか言う奴も柊も火野もみんな人間なの。姿形一緒なのにイギョウとかばかみてえじゃん」
「じゃあ団長は?」
「久納? あいつも人間」
「違うよ。俺はまだ久納のこと団長って認めてねーもん」
「狐の方は狐だよ。耳とか尻尾あるから」
「ふうん。ねえ、御国も住人になる?」
そう言う青にいきなり腹を蹴られ床へ転がされる。声は出なかったが息がつまり、激しく咳き込んだ。
「蛙はみんないやがるんだけど、御国も嫌?」
「お、れは絶対住人にはなんねえって」
両手首を取り屈服させてこようとする青に抵抗しながら息が整うのを待つ。
「あれ? さっきと言ってることちがくない? 姿が人間なら人間なんでしょ?」
「だけど俺は絶対イギョウにはなんねえ」
青を思い切り睨みながら宣言すると、彼は「無理だよ」とあざ笑う。
「御国は俺にだって力で負ける。俺がちょっと本気出したらあんたはすぐ住人。そうでしょ?」
ガキのくせに大人びた様子で自分にまたがる青を睨むが、彼はそれさえ面白そうにしてさらに俺を見下しながら続けた。
普段彼は傍から見ると俺に好意的に接してくるが、こいつの本性はこっちだ。雨蛙なのに青蛙と馬鹿にされて蔑まれて育っていくうちにこんなに性格がひんまがったのだろうか。
「お前、育ち悪いだろ」
「蛙の育ちに良いも悪いもないよ」
「蛙で育ったのかよ」
「いや? 違うな」
青が天井を見て顎に手を当てながら考える。今なら顎にでも一発入れられそうだが、答えが少しだけ気になったから何もしない。
「俺は人型だった。そういえば。……けど、わかんないな。忘れた。覚えとく必要もないしね」
「過去は必要だろ。覚えとけるんなら忘れちゃだめだ」
「過去に拘るところは人間そのものだね」
「俺は住人じゃない」
「ま、俺がしなくてもあんたはいっぱい恨みを買ってるからね」
「そうなったら死ぬだけだ」
「死ぬ? 無理だよ無理無理」
ケタケタと青が腹を抱えて笑う。
「だって灯は死ねた」
「それでも御国は無理。無理無理」
青は楽しそうに笑いながら俺からどき、鬱陶しいくらい笑って部屋から出ていった。起き上がって考える。あいつ、何をしに来たかったのか。
柊のところに連れ出したかったのか?
柊――イギョウの少年。実際に話したことはわずかしかないが、彼は色小屋の異形やイギョウから嫌われている。人間の火野も彼の話をするときは良いように言わない。
――まあ、どうでもいいか。
俺には関係のないことだ。
そう思い、寝るためにまた布団に転がる。
本当に疲れた。
俺は人間も異形もイギョウも同じように嫌いだが、できるなら灯のように人間のまま終わりたいと強く思った。