早寝記録

 この日もとくに何事もなく終わるはずだ。柊は俺が掃除するところをじっと見る。そして掃除が終わったら挨拶もせずに別れる。
 しかし、なぜなのか今日の柊は面をつけていなかった。
 驚きを出さないように気を引き締めて内鍵を掛けると、外の音が完全に消えた。
 これもいつもと違う。怯えていることを知られたくなくて大げさにならないように壁に一つだけ取り付けられている小窓を見ると、窓はきっちりと閉められていた。柊はいつも少しだけ開けているのに、今日はいつもと違うことがふたつもある。
(なんなんだよ……)
 俺は必要以上に不安を覚えた。
 見世物小屋に来てからずっと安心をするということがない。
 いつも殺されるかもしれないと思っているし、異形にさらわれて遊ばれるかもしれないと思っている。実際それだけ危ない場所だ。
 一応色小屋を取り仕切っているクチナワが俺を掃除夫だと宣言したおかげでそれほど暴力を振るわれたことはないが、青の言うとおり自分は異形からたくさん 恨みを買っている。クチナワだって掃除夫だと認めているだけで俺に全く執着していないから、掃除ができて従順ならばだれだっていいのだ。
 だけど、それをわかっていても異形にからかわれると踏み潰したくなる。
 その時はどうなっても良いと覚悟を決めて思い切り踏んづけるが、それでも後になると怖くなる。
 痛いのも苦しいのも嫌だ。
 だから後悔するが、いくら反省したってからかわれるともうどうでもいいやとまた踏んづけてしまう。
 ここに安心は存在しないが、不安な毎日の中でも「いつもどおり」ということが俺にわずかな安堵感を与えてくれる。
 しかし、今はいつもと違う。

 面を取った柊。
 閉まりきった窓。

 何をこのくらいで――と揶揄されるだろうが、それでも怖いのだ。

 何も言わない柊をちらりと見てから、できるだけいつもどおりの手順で掃除を開始していく。
 壁を綺麗に磨き、小窓も磨く。そして、床を掃き、水に浸したモップで拭く。あとは、乾いた布巾で仕上げるだけだ。そう思った矢先――

「凌平って知ってる?」

 柊が、おずおずとでも、はっきりとでも、おそるおそるでも、ぶっきらぼうにでもなく、普通に話しかけてきた。
「……名前くらいは」
 だから俺は思わず普通に返した。
「今どうしてるかわかる?」
 それまでじっと掃除をする俺の手元を見ていた柊が視線を上げて目を合わせてきた。俺と柊の目が初めて合う。探るような視線に、探られても何も出てこないのに――と妙に苛ついた気分になった。
「消えたってさ。行方不明」
「へえ? 色に下がったかと思ってたんだけど」
「下がったのはお前だろ」
「凌平、逆鱗に触れちゃったと思ったんだけどな」
 柊の飄々とした態度に更に苛ついた。探りを入れられてるのはわかってる。こいつがどんな答えを期待しているかは知らないが、また隠された、と思った。

(またってなんだよ!)

 思い通りにならない思考に嫌気が差し、そのいらだちのままバケツを軽く蹴る。感情を隠せない俺を見ても柊は何も言わないが、今の俺にはそれがありがたかった。何か言われたら踏み潰しちまう。

 わかってる。
 今のはキレる場面じゃない。
 だけど、苛ついてしょうがない。

 俺には記憶が無い。ここに来る前の記憶が一切ないのだ。御国という名字か名前も、クチナワが教えてくれた。だけどこれだって本来持っていた名前なのかクチナワが適当に付けたものかわからない。
 記憶がない。
 どんな小さなことでもいいから、と思い出そうとしても役立たずな脳は暗闇を辿るだけでわずかな光明さえ見つけられない。
 そのくせ今みたいな一瞬に「また隠された」とか「また置いて行かれる」とか、わけのわからない思いが降って湧くのだ。湧いたからといってこれについてどんなに必死に考えても何も思い出せないし、なぞが増えるだけ。

 俺は何者でどこから来たのか。
 せめて御国がなんなのかだけでも良いから知りたかった。

「凌平がクチナワを怒らせたってことか?」

 だけど考えても詮無いことだ。
 努めて冷静になろうと、俺は持っていた布巾をそこらに投げて柊のとなりに座った。柊の顔が初めて驚きに染まる。
「何びっくりしてんの」
「意外だったから」
「あ、そ。で、どうなの?」
 なんとなく、柊の表情が柔らかくなったような気がした。
「元団長が、凌平をイギョウにするようにってクチナワに命令したんだ。凌平、俺と仲良くしてくれててさあ、それをクチナワも知ってたのか、俺に凌平をイギョウにさせようとしたんだよ。それが失敗したから凌平もとばっちり受けたんじゃないかって思って。……けど、そっか。元団長が凌平を気に入ったから、変なことはできないか」
  言葉が進むにつれてひとりごとのように変わっていく。詳しいことはわからないかったが、めんどうくさがりの団長がクチナワに凌平を住人にしろと言い、鬼畜なクチナワは仲良しの柊に凌平をイギョウにするように命じたらしい。以前青が「凌平っていう人間が柊と仲良くなったよお。いいねえ、いいねえ。生意気御国はひとりぼっちだもんねえ。ぼっちぼっち!」と楽しそうにしていた。
 ここに凌平は来ていないが、代わりに柊がいる。ということは、柊が凌平を逃したのだ。

 俺は立ち上がり掃除用具をバケツに入れた。
「もう終わり?」
「時間食った。気になるなら自分でやんな」
 半ば本気で言い残し、内鍵を開けて外に出る。予想外に時間がかかってしまった。少し急がないと。そう思い次の箱に行く時に小窓が開いた。
「もっと優しくしてよ」
 仮面を付けて笑う柊をにらみ、俺は足早に次の箱へと向かった。