恐怖
色小屋の掃除を担当していると、すべてが気持ち悪く感じられる。
今見世物になっている人間たちにとっては、人間とイギョウの間には相容れない何かがあるらしいが、ずっとひとりきりで色小屋掃除をしてきた俺にしてみれば人間もイギョウも何ら変わりはない。
柊は色に落ちてまで凌平をイギョウにすまいとしたが、色に落ちてクチナワにいたぶられるくらいなら凌平をイギョウにしたほうが良かっただろう。仲が良かったのならなおさら。自分のせいで友達が酷い目に遭うなら、一緒に枷をつけて歩いて行くほうが友情として何倍も綺麗だ。
心が変わらないなら、人間がイギョウになったところでどうでもいいだろう。どうせ、人間でいてもイギョウになっても生活に変化はない。
(こんなこと考えてるって青に知られたら、なんて言われるか)
つい先日、絶対にイギョウに、住人にはならないと宣言したばかりだ。
しかし、実を言うとどうしてこれほどまでにイギョウになりたくないのか、自分でもわかりかねている。
記憶が全くないことが、俺のコンプレックスだ。
他の人間はだれでもひとつはここに来る前の記憶を持っている。鮮明にはわからなくても、昔のことが映像や画像でフラッシュバックすることがあるそうだ。
俺にはそれすらなく、たまに「また置いて行かれる」など瞬間的に思うのだけど、映像や画像が出てくるわけでもなくそれだけを感じて終わる。
俺を形成しているものは全て人づてに聞いたこと。
御国という呼び名も、暮の道から来たということも、クチナワから教えてもらった。かろうじて覚えているのは白蛇様の優しい目だけ。しかも、それも夢の様なおぼろげな記憶だ。
これでもしクチナワから本当はお前は異形だと言われたら、俺はそれを信じるだろう。だって、否定できるものがないから。
(そうか、わかった……)
今俺が持っているアイデンティティは、ただひとつ「俺は人間である」というものだけだ。
色小屋の掃除をしているが、いつクチナワに用なしと捨てられるかわからない。
御国という名があるが、クチナワに与えられたものであり本当は違うかもしれない。
だけど、人間であるならばイギョウにならない限り俺は死ぬまで人間なのだ。
だから、やすやすと人を捨てる訳にはいかない。
俺は、多分人間だ。
記憶がないとは言っても、それは人間関係や思い出などで、「学校」だとか自分が元いた世界に存在する動物や虫、花の名なんかは覚えている。イメージすることはできないが、単語やその意味などは知っている。
何かを思い出す助けになったらと、俺はよく色小屋に存在する生物――死んでる場合もあるが――の造形に思いを巡らせる。そうすると、「これはいぬという名前だった」とか、それまで想像できなかったものを思い出した気になるのだ。
しかし、色々なものを見続けると、俺が元いた世界で馴染み深かったと思われる動物だとか花とか虫などの造形も気色悪いものに感じられ、人間までもが異形の、おぞましい姿形に思えてくる。
人間である俺が人をおぞましいと感じることは、俺を落ち込ませるには十分だった。
だけど、気持ち悪いのだ。鼻なんて特異な形の上に穴まで空いているし、目玉は穴の中にすっぽり入っていてしかもぎょろぎょろと動く。口なんておぞましさの頂点にあるだろう。
ひとたび考え始めると、何もかもが気色悪く見えて倒れてしまいそうになる。気持ち悪いものが動いている。ぎょとりと目を動かして、二本の棒を蠢かして近づいてくる。そうして赤く湿ったものを吊り上げて奇妙な形で笑うのだ。
これは異形以外の何物でもない。
人間は、異形だ。
いや、違う。人間は人間だ。何を考えてるんだ俺は。自分で自分のアイデンティティを崩そうとしてどうする。もう、わけがわからない。
「何考えてんの、御国」
「何も考えてねえよ」
人間姿の青が色小屋掃除に向かっていた俺の前に青みがかった髪の毛を跳ねらせながら現れた。くりっとした目を不思議そうに瞬かせている姿は可愛く見えないこともない。良かった。人間姿の青を、おぞましいものではなく可愛いものと思うことができた。
「嘘だ。だってすっごい渋い顔してたよ」
「いつものことだろ」
掃除に行く途中の廊下ですっかり立ち止まってしまっていた俺は、内心ホッとしながら歩みを進め、居住区と色小屋を遮断している扉を開いた。箱によっては毎日地獄絵図が描かれることになるのに、色小屋はいつもどこからか甘い匂いが漂い小屋全体を覆っていた。今日も甘い臭いが鼻孔を掠める。俺の後ろでは切ない音を立てて扉が完全に締まった。
それにしても、青が掃除の時にここまでついてくるのは珍しい。毎日のように客に混じってふらついているが、俺が青と会うのは居住区がほとんどだ。
「お前も掃除すんの?」
ためしに手にしているバケツを青に押し付けてみると、「やんねえ」といったくせに彼はバケツを掴んだ。
「じゃあ戻れよ。邪魔」
「ひっでー」
その時、視界を青い物体が横切り、すぐそこの箱の中に覗き窓から入っていった。ぐちゃ、と小さくだが何かが潰れる音がした。青にも聞こえたのか、わずかに顔が引き攣る。
「行けよ。俺、今から夢ちゃんの箱掃除するし。聞こえただろ、今の音。夢ちゃんに殺されるよ」
最大限の優しさを発揮し青に押し付けたバケツを奪い取ろうとするが、なぜか青はバケツの取っ手を離さずに睨みつけるようにして俺を見た。
「なんだよ。邪魔すると踏むぞ」
わけのわからない青に段々と苛立ってきて、負けじと睨みつけるが、いつも何かしらの反応を寄越す青は厳しい表情で俺を見て離さない。
「青、俺お前と見つめ合ってる時間ねえの。掃除すんだよ、これから」
渾身の力を込めてバケツを自分の方へと引き寄せるが、バケツはぴくりとも動かない。これが人間と異形の力の差。それを忌々しさとともに実感するとともに、「異形」である青にかなわないことに安心した。
「……この前お前が踏みつぶした異形が復讐を企ててる」
青が声を潜める。
「どれだよ。それに、いつものことだろ」
「初めてのことだよ。御国、潰されるよ」
「自業自得」
「なんで他人事みたいに言うんだよ」
「お前は何? まさか心配してくれてんの」
わざとばかにしたように言うが、青はわずかに眉を寄せただけだった。不安が胸に落ちる。恨まれていることも、それが自分のせいであることも俺はわかっている。いつかやられるだろうという確信だってずっと抱いていた。強くもないのに異形に突っ掛かるということがどういう事態を招くかだって理解していたのだから、平然としていなければならないのだ。
それなのに俺はクチナワからもらった腕時計で時刻を確認した。開店前の色小屋は一分一秒が勝負だ。夢ちゃんを始め、猟奇的な趣味を持つ見世物が多いから、急がなければ掃除が出来ない。それに、今日は余計に時間を食った。俺が何者であるかなんて答えの出ないくだらない考えで。
「……掃除しないと、異形に潰される前にクチナワにやられるんだけど」
そう告げて初めて青の手に込められていた力が緩まる。
「仕方ねえよ。俺の性格的に、長生きは出来ない。異形にやられるのだって嫌だけど、俺はそれよりもクチナワが恐い」
なぜか俺を心配しているらしい青に向けて少しだが本音を言う。
「あいつはお前のこと気に入ってんじゃねえの?」
「それはない」
「即答?」
青が片方の頬を吊り上げて笑った。嘲笑だが、久しぶりに青の笑った顔を見た気がして急いでいるというのに少しだけ落ち着く。真剣な顔の青は精神的に悪い。
「ああ。つうか、心配してくれんならもう行けよ。俺は掃除するから」
バケツを青の手から外し、しっかりと持ち直す。そうして青の脇をすり抜けて俺はひどいことになっているだろう夢ちゃんの箱へと向かった。
おそらく箱の中ではさっき俺たちを横切った物体が血まみれになっている。何色かはわからないが汚れているだろう箱の内部を想像しげんなりした。
異形なんだから血なんかなければ良いのに、俺が今まで見てきたほとんどの異形は中に内臓のようなものも血も持っている。
夢ちゃんの箱の前で立ち止まり、中に向けて声を掛ける。
「掃除しに来たんだけど。入れてくれない?」
諦めのような緊張感のようなよくわからない感情を持て余しながら、俺は夢ちゃんの答えを待った。