蛇
柊が面を取ったあの日から、掃除の時にわずかだが話をするようになった。
俺からは話し掛けられない限り話さないが、向こうが話しかけてくるのだ。
柊は笑っていても毎日疲れたような顔をしているが、俺は彼がどんな見世物になっているか知らない。一応掃除の過程は全てこなすが、箱に汚れは見られない。暴力のニオイも、陵辱されたあともない。気になるなら見に行けば良いのだが、下卑た喧騒の中に飛び込むのは躊躇われるし、それに俺は敵も多いから見世物そっちのけで追われるかもしれない。
どうでも良いか……。
あいつが何をしてようが、俺には関係ない。
汚れてもいないし、話しかけてくるだけで攻撃してくるわけでもないから俺にしたら最高の見世物じゃねえか。
そう思うのに、不安が増した。
彼は異常だ。
色小屋で見世物をしていて何も汚れていないなんてありえない。普通じゃない。
それに、柊はクチナワに落とされたんだ。目的は罰するためにほかならないから、クチナワが柊を痛めつけないわけがないのだ。
それなのに、彼は疲れてはいるが綺麗なままだ。
俺は「いつもどおり」以外のことが嫌いだが、これを抜きにしても嫌な予感がしている。
最後に柊の小屋掃除を終わらせ、俺はまた井戸がある小屋の裏に来ていた。
今日は疲れた。いや、最近疲労が激しい。特に自分のすることが変わったわけではないのに、疲れをより感じるようになった。
無意識にため息を吐く。汚れるのも気にせず地面に座り込み、ひんやりとした井戸に背を預ける。なんとなく天を仰ぐと、空には輝く星たちで作られた川が浮かんでいた。
それを、ぼんやりと綺麗だと感じた。
今日はずっとクチナワの姿を見ていないから、長くいられるだろう。彼は口に出さないがここが嫌いなようだった。だからこうして俺がここに来るのに気付いた時はやってきてさりげなく戻るように促してくる。
クチナワだけじゃない。ここに好んで来るモノなんて、昔からほぼ皆無だ。色小屋がなかった時はクチナワがたまに足を運んでいたようだったが、色小屋ができてからそれもなくなった。
ここには確かに白蛇がいるはずだ。しばらく暮の道を人が通ったという話も聞かないし、そうだとしたら白蛇様はずっと独りだということになる。
皆が忌避している中、俺はこの場所が好きだった。狭くて井戸しかないし、空もほぼ背の高い木の葉に阻まれてわずかにしか見えず解放感はない。どこともつながっているはずの「外」という場所にはいるが、だからこそどこにも行けないことを一層思い知らされる場所かもしれない。
井戸に下りることは禁忌とされているし、落ちたら最後、二度と上がってこれないためこの小屋に落とされた以来中に入ったことはないが、会えるならもう一度白い蛇に会いたい。
(あれ?)
落ちたら最後、二度と上がってこれない?
頭のなかには濃い霧が立ち込めているが、ぼんやりと記憶が蘇る。
――青。
俺が落ちた時、青がいた気がする。その時に生意気だと言われたのだ。どういう状況だったっけ? 一緒に落ちたのか? だけど彼は慣れたような口ぶりだったと思う。
ここに来た人間は忘れっぽくなるから、そもそも青がいたことさえ記憶違いかもしれない。
目を閉じて必死に考えて思い出そうと試みる。
ピキ、と亀裂が入ったような痛みをこめかみに感じるが、さらに霧の奥の思考をたどる。頑張っても思い出せないのはここに来る前のことで、落ちたあとに忘れたことはきっと頑張れば思い出せる。
うっすらと人影が見える。
そうだ。青と、白蛇様の他に誰かいたような気がする。クチナワ? 忘れてしまった。だけど、クチナワではない。青ではない誰かは優しかったから。
「――っ」
痛みが限界を超える。一瞬意識が途切れそうになり目を開けた。鼓動が早い。少し汗をかいた。
落ち着いたところで顔を上げると、当たり前だが、夜の中に、色小屋へと続く扉が見えた。
「……疲れた」
聞いてくれるモノは何もいないが、声に出してみた。
胸のあたりが少しだけ痛む。ずっと胸の痛みがあった。疲労とストレスによるものだ、といつも投げ捨てているものだ。
でも、俺はこの胸の痛みが何かちゃんとわかっている。
「最悪」
なんとなく、いつも無視している痛み――寂しさを受け入れてみることにした。
認めたからって、何が変わるわけでもない。負の感情は無視できるなら無視したほうが利口だ。
やっぱり認めるのは止めようと、空を見上げてみたが、もう遅かった。一度認めた感情は消えてくれない。ふと、柊の顔がちらついた。
そうだ。これは絶対に柊のせいだ。
柊が凌平の話ばかりするのが悪い。ひとりぼっちの柊に友だちができて、嫉妬したのだ。羨ましいな、と思った。
柊のせいでこんな、なんか変なことになっているんだとだんだんと腹立たしい気持ちになってきたが、よくよく考えると、本来柊は嫌われるタイプじゃない。
灯にだって可愛がられていたし、稲様とも仲が良かった。人間が彼を嫌うのは単にイギョウになったから。
俺はクチナワの掃除夫だということも原因だとは思いたいが、もともと人と上手くやっていけるようなタイプじゃない。だから、ここに来てからずっと独りきりで当然なんだ。
また気分が沈む。
白蛇も、俺と同じなのだろうか。嫌なやつだから独りなのか。
あの蛇が、嫌なやつなわけないのに?
彼が恐れられているのは、人間を食べるという噂からだ。
暮の道の先に大蛇がいて、人が落ちてくるのを口を開けて待っている。気に入られれば小屋の中に招かれるし、そうでなければそのまま口の中。
けど、噂が本当であっても、灯の道だって運が良くなければ迷い迷って森に取り込まれるらしいし、どちらも非道には変わりない。
そもそも初めに提灯小屋を作ったのは、元団長と白蛇様だと聞いた。だんだんと白蛇様の力が弱くなり、小屋は今の形になったが、灯の道を管理している元団長が崇められているのなら、白蛇様だって崇められてもいいのに。
「ほんと……疲れた」
考えすぎた。
俺はがっくりとうなだれた。他のやつが白蛇様に対して何を思ってようがどうでもいい。
恐ろしいと言われる白蛇様だが、俺が最初に井戸に落ちた時に彼と向き合って感じたのは周囲とは正反対のものだ。
優しい目だと思った。
好んでここに来る奴はいないし、井戸の底にあの蛇がいると思うと、ここはとてもやさしい場所に思える。
だから俺はここが好きなのだ。