音
本当は少し怖かった。箱に上がるのが初めてで、色小屋よりずっとまともなところだという話は聞いていたが、いま来た道を戻りちゃんとクラヤミ廊下へと続く扉に辿り着くのか、もしたどり着いてもクラヤミから出られないんじゃないかと不安だった。
頭の上にいる蛙は何度も箱には来ているから、不安を消すために尋ねれば良いのにそれも出来ない。軽い気持ちで弱みを見せて後悔するのは嫌だ。
だから、真っ暗な中を進んだ先に団長の部屋と書かれた悪趣味な看板を見つけた時は心底ほっとし、俺は看板を見上げたまましばらく動けなかった。
「御国、何つったってんの? ノックノック、早く呼べよ」
「うるせえな、わかってるよ」
悪態を吐いてから拳で扉を叩く。木のきしむ音が、どこか現実離れしていた雰囲気を一気に現実へと引き戻してくれた。
しかし、いくら待っても返事はない。
「なになに? いなくなったのかな、久納……。なあ、やっぱまたあとで来る? 仕切り直してさあ」
不安げに言う青を無視して、もう一度ノックし、扉に耳を近づける。目を瞑って集中すると、中の音がよく聞こえた。物と物がぶつかる小さな音が耳に入る。それから、衣擦れの音も。
「……いるよ、誰か。そっと動いてるみたいだ」
小さく言うと、頭の上の青が俺の肩に降り、耳に顔を寄せてくる。
「どうする? 開けてみる?」
青が囁く。
俺は、自分でもなぜかわからないが、扉を開けたい衝動に駆られていた。異形の中には人間を引き寄せる力を持つやつもいる。神隠しに会う奴は、大抵そいつらのニオイに誘われて森の奥に招かれてしまうのだ。人によってかかりにくさはあるみたいだが、今こんなところにいるくらいだから俺はかかりやすい方なのだろう。
でなければ、ドアノブに手など伸びない。
こんなところでも一応常識は常識だ。人様の部屋に無断で入ろうとはしない。しかも、中に誰が、何がいるのかわからないのに。
それなのに、気づけば俺はドアノブを回していた。
「あ」
驚いた青の声。久納の部屋に、久納はいなかった。その代わり、見知らぬ少年がいる。俺は特段驚きもせずその少年を眺めた。俺よりも少しだけ長めの茶色い髪をした、女受けが良さそうな少年。見覚えのない顔だ。彼はガラクタの山の向こうで、顔を引きつらせ、さっき久納がいた時には見えなかった引き戸を開けようとしているところだった。もしかして、彼は寝ていると評判の、あの掃除夫なのだろうか。
「あんた、寝てるんじゃなかったのか」
色々と考えるが、面倒になってあえて普通に声を掛ける。少年は、しばらく動かなかったが、短いため息の後口を開いた。
「おれのこと知ってんの?」
少年の問いかけに、耳元の蛙が凌平、凌平、と小声で騒ぐ。
「……有名人だから」
「へえ」
会話が終わる。目だけは合っているが、言うべきことがないし、向こうも無表情でただじっと俺を見ている。俺は、何をしに来たんだっけ? そうだ、紙を貰いに来たんだ。なんで紙を貰いに来たっけ? 忘れちゃいない。箱の見取り図を書くためだ。ここまで考えて、ばからしくなる。
「起きたんなら俺、もう箱掃除する必要ねーじゃん。なんだよ、青、戻るぞ」
凌平を見つめすぎて乾いてきた目を潤すために瞬きをして、俺は凌平に背を向けた。入ってきたばかりの扉に感じるのは小さな絶望。見知らぬ場所とクチナワが怒るかもしれないという恐怖は確かにあったが、それでも色小屋から少しでも出られることに対して俺は喜びを感じていたのだ。それなのに、時間にして30分ほどで色小屋に逆戻り。気分転換もできないままに俺は箱に上がったという後ろめたい事実だけを持ってクチナワの縄張りへと還るのだ。最悪。
「ゲ」
青が憐れむような声を出す。別に悪くないのに、ゲと鳴く蛙を思い切り踏み潰したくなった。単なる八つ当たりだということは百も承知だが、俺は、本当に、本当に色小屋が怖い。脳みそのない、またはぶっ壊れてるような異形たち。敵意なんて持っていないくせに、餌だと思って襲い掛かってくる奴ら。そいつらに壊された哀れなモノ達の残骸。俺をなんとも思っちゃいない色小屋の主。もう全てがいやだ。抜け出したい。
本当は、ヨコシマな思いがあった。色に落とされた柊を引き上げたという久納のテリトリーに行ったら、俺も箱に上げてもらえるんじゃないかと思った。本当にわずかにだけど、期待してしまったのだ。ちらりと、色小屋の全てから逃げられるんじゃないかと思った。そんなこと、あるはずないのに。
俺はちょうど色小屋ができる時、灯が死ぬ少し前にここに来て、それからずっと色小屋掃除をしている。たくさんの人間が落ちてきて、死んだりイギョウになったりしたが、俺は誰が落ちてきてもひとりだった。俺と彼らは人間というくくりで言うと仲間だったが、クチナワの元にいる俺をみんな疎んじていた。
「ゲ」
青が鳴いて、はっとする。延々とばかなことを考え続けるところだった。ドアの前で立ち尽くしている俺の姿はひどく情けないだろう。これ以上惨めになりたくなくて思い切ってドアを開ける。
「……ちょ、ちょっとまって」
クラヤミに出ようとしたところで、慌てたような声がかかった。
「なんだよ」
振り向くと、無表情だった凌平は困惑したように眉を寄せて、おずおずと話しだした。
「おれ、今部屋から出ないようにって久納に言われてるんだ。誰にも会うなって」
「だから、なんだよ」
「御国、態度悪い」
青が小さな声で言うが、余計なお世話だ。
「黙っててくれない? おれが起きて、あんたと会ったこと」
「んなことして、俺になんか得でもあんのかよ」
我ながら、最低なやつだ。黙ってると素直に言えば、箱掃除ができるのに。こんなに意地が悪いのだから、俺は色小屋でひとりきりで正解なのだろう。
「得? んなもんねえ……って、これじゃダメか」
凌平が唸る。
「ちょっと待って、考えるから」
素直な態度に、いよいよ申し訳無さが募り、青が見ていようがかまわず、謝ろうとした時だった。凌平がさりげなくごちゃごちゃしている床から何かを掴んだ。じっと見ていないと気づかない所作だったかもしれない。
「得はないけど、あんた、チョコ好き? おれ、持ってるんだよね」
「落ちてたやつじゃん」
反射的に突っ込む。
「見えた? 拾ったの」
凌平がはは、といよいよ諦めたように笑った。
なんか、むかつく。
俺は、自分がどうしようもないくらいのクズに思えた。実際、俺はちっともいい人間じゃないし、好かれるような性格もしていない。いじめるつもりがなくてもこういう態度ばかり取ってしまうし、笑うことも滅多に無い。今のこいつのようなあきらめの滲んだものですらないのだ。
「……ごめん。誰にも言わない。いじわるしたんだよ」
「御国……!」
青が凌平を見つけた時よりも驚いて俺を見た。謝っただけで驚かれるような態度を俺はいつも取っているのだ。
「なんだよ、青。しかも俺たち不法侵入じゃねえか。そもそも偉そうになんかできねえんだよ」
「十分偉そうだよ!」
青が目を輝かせる。
「でも、良かったあ! 元団長と久納のお気に入りらしい凌平さんにあんな態度取ってさ、俺御国と心中かあと思ったもん! 良かったよかった御国が殊勝で良かった! クソッタレ!」
青が頭の上で飛び跳ねる。今更だが、蛙の何とも言えない感触が何度も頭に現れるのは気持ちのいいものではない。
「ねえ、ねえ、御国! 凌平さんに箱掃除のやり方聞こうよ! 聞こうよ!」
「色と一緒だろ……。それに、大丈夫なのかよ。久納、どっか行ったの? 見つかったらやばいんじゃねえの?」
「ああ、今は大丈夫。夕方まで外に出てくるって言ってたから」
「へえ」
「……あんたが御国なんだ」
床の上にあぐらをかいた凌平が見上げて言う。暗く狭い、ガラクタだらけの部屋。足の踏み場はない。こいつに紙とペンをもらって、箱掃除に向かおう。こう、思ってみた。しかし、俺は引き寄せられるようにして、ガラクタを足でよけながら数メートル先の凌平へと向かった。
「御国?」
青が不思議そうな声を出す。凌平は、近づいてくる俺を、わずかに笑みを浮かべながらじっと見ていた。