疑問
「チョコ食べる?」
向かい側へと座った俺に、凌平が銀紙にくるまれたチョコレートを一粒差し出した。彼がさっき拾っていたものだ。首をふることで答えると、凌平が「普通に食えるのに」と短く笑って銀紙の中のチョコを自分の口に入れた。
その様子を、ただ眺める。こいつが、あの「凌平」なんだという思い――感動か好奇心かわからないが――がふつふつと湧き上がる。
凌平は、灯の道から来たという人間だ。つい先日元団長と消えたなんて噂があったが、実際にこいつがいるのは久納の部屋。柊が言ったことが本当なら、柊に助けられた後久納に引き上げられたのか。
柊はなんて言っていたっけ。
詳細は忘れたが、柊がクチナワから凌平を守ったらしいということだけは覚えている。真剣に聞いてたつもりなのに、詳しいところは覚えていない。人の美しい友情になんて興味ないからか。
「あんたが色小屋の掃除してるっていう御国でしょ」
多分いつものようにふてくされた顔をしている俺とは反対に、美味しそうにチョコレートを食べながら、リラックスした様子で凌平が聞いてきた。来て間もないくせに、彼はすっかりこの世界に馴染んでいるようにみえる。いつまでも異形と馴染めず喧嘩している俺の方が新参者みたいだ。
「俺のこと、久納から聞いたの?」
そんな気持ちはおくびにも出さずに尋ねると、彼はさきほどの俺のように首を横に振った。
「火野兄弟だよ。御国に会ったかって、両方から聞かれた。だから名前だけは覚えてたんだ」
「ばかな質問だな」
無意識につぶやいたあと、懐かしい兄弟の顔が浮かんだ。
「ばかな質問?」
凌平が首を傾げる。目に長めの前髪が落ち、なぜか胸がざわついた。それを悟られないようにして続ける。
「俺は色から出られないんだよ。お前が色に来たら会えたかもしんねーけど、好き好んで来る奴なんていない。会えるわけねえの」
「色から出れないの? じゃあ、ここ、どこだよ。色?」
「何いってんの。お前、自分のいる場所もわかんねえのかよ」
言うと、凌平は軽くため息を吐き、自信ない、とつぶやいた。
「ここがどこかなんてわかんねえよ。さっきまで久納の部屋にいたのは確かだと思うけど、ここって変だからよくわかんない」
「色じゃねえことは確かだって……。俺達が今出れてんのは元団長に掃除を頼まれたから。お前が掃除を再開するときにはまた色から出られなくなる」
「あんた、閉じ込められてんの?」
「まあ、そういうことになるね」
「ふうん……」
凌平の顔が曇る。同情されたのだろうか。同情されたって今まで助けられたこともないし、惨めなだけだ。
「勘違いすんなよ。おれはずっと色小屋にいるから、こっちがどんなとこか来てみたかっただけ。息抜きっつうの? ずっとあっちはつまんねえから」
我ながら、気持ち悪いことを言ってしまった。クチナワ以外に気を遣うなんていつぶりだろう。
凌平は、何を考えているのか、うつむき加減でぼうっとしている。起きてまだ意識が浅いのか、彼には一貫性がないように思えた。さっきとは別人だ。
「おい、しっかりしろよ」
なんとなしに声をかけると、凌平が短く謝り顔を上げた。その表情には戸惑いが色濃く滲んでいる。
「あんたに言っても困らせるだけだけど、おれ、思い出せないんだ」
「……来る前のことなら、考えるだけ無駄だ」
言うと、そうじゃないと思う、と凌平がゆるゆると首を振る。
「ここに来てからのこと。色小屋について、誰からか聞いたんだけど……」
誰に聞いたっけ、と凌平は俯いたまま黙ってしまった。彼の瞳に映っているのは久納のガラクタの山だけど、実際は何物も捉えていないだろう。すっかり彼は自分の意識に入り込んで、俺も、さっきからそこらにある置物のようにおとなしい青の存在も彼の意識から消え失せたようだ。
「そのうち思い出せるだろ。ここに来てからのことなら」
「それなら良いけど……。忘れたのかさえ忘れてるから、どうしようもねえ」
自嘲気味に笑い、凌平はため息を吐いた。安全な場所で、ここで力を持つ人物に庇護されているのに、そんな中でも悩みは生まれるらしい。
こいつの置かれた状況を俺が正しく知っているはずもないが、見聞きする情報だけならば、替わってほしいくらいだ。
おそらくこいつは柊のことを忘れているが、忘れているうちは痛みもないし、きっと思い出さないほうが幸せだろう。
「御国って、本当に人間?」
数十秒の時間のあとで凌平が顔を上げた。
「あ、失礼な意味はないんだけど」
「良いよ、別に。俺は人間だよ」
多分、と心の中で付け加える。
「もうすぐイギョウになるけどね」
青が割り込んでくる。
「おとなしくしてたのにいきなり入ってきてそれかよ。なんねえよ、イギョウなんかに」
「なるって! だって、御国は凌平さんと違ってちょー恨まれてるから! 凌平さん、どうかこの哀れな御国に優しさを、ゲゲ!」
俺の頭の上でバカなことをほざく青を掴み握り締めると、彼は人間の姿になり尻で俺を押しつぶした。
「いってえ……」
背中からガラクタまみれの床に倒れこんでしまい、背中に激痛が走る。
「バカが、いきなり人型になるなよ……」
「はは、御国すっげー弱々しい声!」
「どけよ……」
「いやだね!」
青は俺の上に乗ったまま、器用に体の向きを変え、凌平と向き合った。
「……あんたはイギョウ?」
凌平が青に尋ねる。いつもならどうにかして青をどかし、踏み潰そうとするが、背中の痛みから何も出来ず、また、する気もおきない。凌平も少しは俺のこの状態を気にすればいいのに、やはり彼はどこかぼんやりしていて、まるで夢の中の住人のようだ。
「知らないっす! 人間じゃないことは確かです!」
「知らないって、人間じゃなくても忘れんの?」
「忘れんの? 御国?」
「俺が知るかよ……。痛えんだよ、背中。今も何か刺さってる」
「やっぱヤワだな」
鼻で俺を笑い、青がようやく脇にどく。久納よりもずっと凌平は小柄だから、人型の青の分もぎりぎりスペースがある。
ふいに、目の前に手が差し伸べられた。見ると、凌平が俺に向かって手を出している。僅かな時間悩み、俺は伸ばされた手を掴んだ。温かい、人間の手。青のひんやりとしたものとは全くの別物の気がする。その手に引っ張られると、気のせいか、背中の痛みが少しだけ和らいだ。
「大丈夫?」
「……多分」
背中が熱い。だけど、危ない感じはせず、どちらかというと気持ちいい熱さだ。はじめは気のせいだと思ったが、痛みやぶつけた時に生じる熱とは明らかに違う。
「……治ってきた」
「始めっから痛くなかったんだろ!」
「んなばかな」
心底ばかにしたように嘲る青を無視して俺は倒れこんだ床を見てみた。
「げ」
そこには、血の付いたピラミッドの模型がある。手に取って見てみようと、凌平に掴まれた手を離した瞬間再び背中に痛みが走った。
「御国?」
思わず追いかけるようにまた凌平の手を掴むと、痛みが治まった。ありがたいことに、不思議な顔をしながらも、凌平はおとなしく手を握らせてくれている。
逆の手を背中に伸ばすと、服は破け、決して浅くはない穴が開いていた。周りには暖かくぬめった不快な感触がある。
この時、俺はある可能性に思い至った。
ここに来た人間には、何か力が芽生えるという。俺は、音の判別が得意になるというまったく有り難みのない力だが、もしかしてこいつは――
「大丈夫?」
「大丈夫じゃねえ。俺を殺す気なんだよ、この蛙は」
「死んでねえじゃーん。それに、殺す気はないよ」
「……なあ、お前、ここに来て何が変わった?」
「無視かよ! まじで殺す気はないってば!」
「何、いきなり。それより、なんか、汗かいてるけど、大丈夫なの?」
「凌平さんまで!」
凌平が俺の背中を覗き込み、破れている服に手を掛けて傷口をよく見ようとしてきた。背中全体に心地よい熱が広がる。
「痛そ……。待って。なんか、薬とか探してくる」
「いいよ。でも、そのままでいてほしいんだけど」
凌平は、それだけでいいの? と不思議そうだったが、青の言うとおりいいやつなのか、文句ひとつ言わずにこのままの体勢でいてくれた。
「……何にも、変わってねえよ」
しばらく沈黙が続いた頃、凌平がおもむろに口を切った。
「血、止まったね」
そして、続けて言う。
「……何も変わってねえの? 火野は火吹けたり、雅は化け物の言葉がわかったり、色々あるけど」
「ないよ。何も変わってない。忘れっぽくなったくらいだ」
「忘れんのはみんな一緒だろ」
やっぱり、こいつは気づいていない。そりゃそうだ。もし気付いているならとっくに噂になってるはず。噂になっているのなら、俺の能力をいつも地味だとバカにする青がからかってこないのはおかしい。
だが、きっと知られないほうが良い能力だ。
おそらくこいつの力は「癒し」。これが異形たちに知られたらきっと狙われて連れ去られる。
幸い、久納によってこの部屋に閉じ込められているらしいし、今のところ外部に知られる心配はないだろう。
誰かに普通に接してもらったのが久しぶりなせいか、凌平には平和に過ごしてほしいと思った。こんなこと、青が知ったらどんなふうにバカにしてくるか知れないから絶対に口には出せないけれど。
凌平は、すぐに次の言葉を言わなかった。何かを言おうとしたようで、口を小さく開けたけど、音を発さないまま閉じ、視線を下げた。
「凌平さん?」
俺の隣の青が、凌平の顔を覗きこむ。覗きこまなくたって、陰鬱な顔してるのは見えるだろうに。青は何事にもいちいちオーバーだ。
「忘れたことは、思い出せんの?」
陰鬱な表情のまま、凌平がぽつりと言った。
「思い出したって聞いたことはねえな」
「あんたも、忘れたの?」
「忘れた。……っていうより、覚えてねえ。お前はきっと灯の道から来たから忘れていったんだよ」
「アカリの道?」
「ああ。長い時間を掛けてここに来る道。ここに着いた時はまだ覚えてることはあるけど、それから徐々に記憶がなくなっていくって聞いたことがある」
「……あんたは? 違うの?」
「俺は暮の道。落ちた時には全部忘れてる」
凌平は、そうか、と一言呟いた。
目の前にいるのに、どうしても俺には彼が現実の人物には思えなかった。現実から夢に手を伸ばしても決して届かないように、凌平が夢のような存在に思えたのだ。人間離れした雰囲気といえばいいのだろうか。
じっと凌平を見る。
いつも口うるさい青も、また不気味なほど何も言わなくなった。思えば、この空間はなにかがおかしい。青は静かだし、自分でいうのもなんだけど、俺にだって普段ほどの毒がない。
いつからだろう。俺は何かにコントロールされている、こんな感覚に襲われている。